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田野邦彦企画構成『ブラックコーヒーとワルツ』 [見た芝居]

舞台は、カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェ・・・

いえ、舞台の上にカフェのセットがつくられているというわけではなく、

池袋コミュニティ・カレッジという本物のカルチャーセンターのロビーの一角に、小さなカフェが実際にある。
そのカフェで芝居が上演されたのです。

ところが、その芝居の舞台設定が、やはり、「カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェ」なので、
その実際のカフェのテーブルや椅子がそのまま舞台装置として使われました。

舞台は、二重の意味で、カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェなわけです。

じゃあ、観客はどこにいるのかというと・・・

奥に、こう、カフェの空間が広がっています。テーブルがあって椅子がある。で、こっち側にカウンター・・・
まあ、スタバとかを適当にイメージしてもらって・・・
コーヒーとかを注文して、それを受け取るカウンターがこっち側にある。
そのテーブル席とカウンターの間にちょっとしたスペースをつくる。エンプティ・スペース・・・
で、そこに椅子をずらっと窮屈に並べて、それが観客席になった。

観客席の間に「舞台」に通じる通路を設け、役者たちは、実際のカフェの入り口、つまり観客の後ろから入ってきて、観客の脇を通って「舞台」の方に行き、椅子に腰かけます。
店員が、つまり、店員を演じる役者がカウンターの方から来て、客・・・つまり、カフェの客を演じる役者のところへ行って注文をとったり、注文を取らずに話し込んだりします。

僕が客席に着いた時には、カフェにはすでに女性客(役者)がひとり座っていましたが、
彼女が初めからそこにいたのか、それとも、初めは誰もいなかったのか、はわかりません。
僕が観客席に着くと間もなく、もうひとりの女性が入ってきて、
すでに舞台上にいる女性客とは別なテーブルに着きました。

カフェの店員二人を含めて、役者は総勢16人。
14人の客が、入れ替わり立ち替わりカフェに入ってきて、
あちらこちらのテーブルに小さなグループをこしらえて会話をします。
一番混んでいる時には、五つか六つのテーブルが埋まります。
それから、客はひとりまたひとりとカフェを去っていく・・・

『ブラックコーヒーとワルツ』の日曜日バージョン「まわりながら」はこんなふうに展開します。

日曜日バージョンというのは、この他に月曜日バージョン「まちながら」というのがあるからです。
僕はそちらは見ていないのですが、二つの芝居はたぶん同じコンセプトでつくられている・・・

このコンセプトがなんとも面白いですよね。役者が下手でも、これだけで面白い。
しかも、役者は下手じゃない・・・

役者は下手じゃない・・・なんて、失礼な言い方に聞こえるかもしれませんが、
いえ、実は、彼らはプロの俳優さんではなく、『青年団の演劇入門・実践編』の受講生たちなんです。
その「卒業公演」的なもの・・・

『青年団の演劇入門・実践編』には日曜クラスと月曜クラスがあって、
日曜日の受講生たちがやったのが日曜日バージョンです。

『青年団の演劇入門・実践編』に先だって『青年団の演劇入門』という講座が開かれていました。
去年の夏のことです。その入門編を終了した受講生が実践編に進むことができたわけなんですが、
その入門編に、実は、僕も参加していたのです。

フランス古典劇を日本の小劇場演劇や中・高演劇部の演劇活動の中に取り込み定着させたい・・・
という「野望」を、僕はいま抱いています。
そのためにはまず、古典劇の「翻訳」というものにどのような「可能性」(オールタナティブ)があるのか?
というところから考え直さなければならないんだよ・・・
というわけで、サイトを立ち上げてフランス古典喜劇の翻訳掲載を始めました。
で、「翻訳」の「可能性」を探るには、やっぱり、芝居がいまどんなふうにつくられるのか知りたいよね、
と思っていましたから、夏休みの時期に全6回という「手ごろさ」で開かれる『青年団の演劇入門』は、
僕にはちょうど渡りに船のワークショップだったわけです。
多くのワークショップが俳優対象である中で、一般向けの「公開講座」であることもありがたかった。

『青年団の演劇入門』ですから、講師は青年団、あるいは青年団関係の人たち。
平田オリザ、柴幸男、多田淳之介、吉田小夏・・・
盛り沢山の講師陣に、講座は6回しかありませんから、なかなか深めるということはできないんですけど、
体験として面白く、またなによりも演劇に対する視界が広がります・・・

その時に全6回の講座全体のコーディネーター的存在だったのが青年団演出部の田野邦彦さんで、
今回の『ブラックコーヒーとワルツ』の企画構成&ナビゲーターです。

僕は『青年団の演劇入門・実践編』には参加しなかったのですが、
実践編参加者たちによる特別公演のお知らせが届いたので、早速見に行ったのでした。

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時間堂 『月並みなはなし』 再訪 [見た芝居]

時間堂『月並みなはなし』を、本公演の最終日(3月14日)に滑り込むように、もう一度見てきました。

プレヴュー公演で一度見ています。
その時は、
きれいな舞台なのだけれど・・・あの、なにか・・・違和感というんでしょうか・・・そういうのがあった。
歯車の噛み合わせにちょっと違和感が・・・みたいな感じ・・・

で、本公演に向けて調整がおこなわれて歯車がぴたっと噛み合った時には
どういう芝居になるんだろう・・・と気になった。
一度気になってしまうと、ずうっと気になって、そんなに気になってるんだったら、
もう一度見に行くしかないよね・・・というわけで、もう一度見に行ったわけです。

えーっ?一度見たじゃん、
という気持ちと、
いや、あの芝居、まだ本当には見ていないんだよ、
という気持ちが、僕の中で争っていたわけですが、
結論的には、もう一度見て正解。

ぜんぜん違った。
いや、ちょっとした調整なんだろうけど、それでぜんぜん違ってしまう・・・
『月並みなはなし』はそういう芝居でした。
音楽のような芝居・・・そう思います。

たとえて言えば、バッハのフーガとか・・・
対位法と和声。
右手のメロディを左手が追いかける。
右手が上昇し、左手が下降する。
計算された動きが、あくまでも自然に流れていく。
いったん動き出したら止まらない。
追いかけて、追いかけて、どこまでも・・・

俳優自身にはそれほど大きな違いがあるという意識はないのかもしれないけれども、
ほんのちょっとした違和感があっても、それがホールの空間全体に反響してしまう。
流れが何度もせき止められると、それは観客にストレスを生み、
やがて、観客は、ひとり、またひとりと集中力を失いはじめる・・・
プレヴュー公演には、ちょっと、そういうところがあったかもしれない。
少なくとも僕は途中ですこし集中力を欠いてしまった。

それが、14日の公演では、流れが面白いようにつながって・・・

ホール全体がひとつになって「音」を追いかけていく、みたいな・・・
そのコンセントレーションが、ピーンんと張り詰めた静寂を生み、
その静寂の音が、観客のひとりひとりに心地よくフィードバックされてゆく・・・

ストーリー的には、『月並みなはなし』は、
ある意味「密閉」された部屋の中で展開するグループ劇なのですが、
途中何回か、劇空間が部屋の外(テラス)にも展開します。
空間が内と外の二つになり、グループもその間だけ二つの小グループに分かれる・・・

で、ここが黒澤世莉の音楽性をよく表している場面なんです。

二つになった劇空間は分裂したのではなく、
従って、平田オリザ的「同時多発」劇とはコンセプトが違います。
二つの空間で別々の芝居をするのではなく、ひとつの劇空間の中で
ひとつのグループが二つのパートに別れる・・・
音楽などでパートに別れるという時のパートに別れる。
内と外とが、いわば右手と左手のパートに別れてフーガを演奏する・・・
そういう感じ。

誰かがためらうと、微妙な間ができて流れが止まる。
誰かに余裕がないと、間が狂って、台詞の出を間違えたように聞こえてしまう。
その代わり、うまく流れた時には、
ジャズライブで名演奏を聴いているような快感があります。

最終日の時間堂は、そういうバッハ的なジャズ的な快楽で満たしてくれました。

黒澤世莉の『月並みなはなし』がむずかしいのはそこなのかもしれない。
これは、ひとり、二人、いい役者がいたからといって成功するわけではない。
アンサンブルがそろわないとうまく回らない。
全員がいい役者でも、彼らが、演劇の、このセッション的な・・・ジャズでいうセッション的な・・・側面を理解していないと、やっぱり成功しない。

そういう意味で、『月並みなはなし』はとても繊細な芝居。
うまく流れていない時は、ひとり一人の登場人物の台詞、
ひとり一人の役者の演技にも説得力がなくなってしまう。

登場人物でひとりセガワ・ミミという「部外者」がいて、この人だけが、
ちょっとトリックスター的役なので、すこし独立性が強いかもしれません。
プレヴュー公演では、大川翔子さん演じるミミが、8人の中でとりわけ粒だって見え、
なかなかよいと感じましたが、14日の公演を見てわかったことは、
ミミが粒だって見えるということは、必ずしもいい兆候ではないということ。
芝居がぴたっとハマった時には、全員がひとり一人粒だって見えるわけだから・・・

よく晴れた日曜日の午後に、ぶらっと出かけて、こういう芝居が見られるってことは、いいよね。
こういうことが日曜日の標準になるといい。
今日、デパート行く?河川敷行く?それとも芝居行く?みたいな・・・

そうね、あとは・・・登場人物の年齢層にもっとばらつきがあるといいかも・・・
これは現実問題として、むずかしいのか?・・・

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文楽 『花競四季寿』 [文楽]

国立小劇場の文楽公演で『花競四季寿(はなくらべしきのことぶき)』というのを見ました。
先月のことになりますが、面白かったのでそのことなど・・・

2月の文楽公演は、
第1部が『花競四季寿』と『嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)』から
二つの幕(文楽では「段」と言います)。
第2部、第3部はともに近松物で、
第2部が『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』。手代の茂兵衛が主人の妻おさんと密通をして、
見つかって、処刑されるという、不義密通もの。
第3部は有名な『曽根崎心中』。

僕が見たのは第1部です。
『嬢景清八嶋日記』という演目はまだ見たことがなく、それを目当てに見に行ったのですけれど、
その前の『花競四季寿』がなんか変に面白かった。

文楽(人形時浄瑠璃)の有名な作品、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、『傾城阿波の鳴門』とか、
そういうのはだいたい18世紀のものです。
近松門左衛門が少し早くて17世紀から書いてるんですけど、
それでも、最初の心中ものが『曽根崎心中』で、1703年、元禄16年の初演。

『花競四季寿』はめずらしく(って、僕が知らないだけなんですけど)19世紀のもので、
人形浄瑠璃自体のコンセプトも少し違う。
プログラムによると、歌舞伎で舞踊が流行り、
文楽でも「音楽的舞踊的要素の濃い作品」がつくられるようになって、これもそのひとつ、だそうです。

春夏秋冬の四季をそれぞれ踊る4部構成。

春は、初春とか新春とかいう時の「春」で、めでたさを祝う祝い事の舞。
ひとりの鼓に合わせてひとりが踊るという、男二人の万歳(まんざい)。
なんのこっちゃ、あかんがな、の漫才ではなくて、万歳。
イメージ的には獅子舞のような縁起ものです。

で、面白くなるのが、次の夏。
夏といえば海というわけで、海女のお話。
海女といっても日焼けなんかはしていなくて、若い色白の娘。
人形の頭(かしら)は「娘」と呼ばれる頭が使われています。
恰好は、あれが江戸時代の海女のスタイルなのかどうか、むしろ、
なんか和服をキュートに着こなしているよ、といった感じ。

この海女が、近頃冷たい彼氏のことを思いながら海辺で踊っています・・・
そこに蛸が現れ、娘を慰める、というのか、ちょっかいを出します。
はい、蛸です。変換ミスではありません。
この蛸が海でよく海女の姿を見かけて、ということなんでしょうか、前々からちょっと岡惚れしていたらしい・・・

19世紀の浮世絵なんかでも、美人画に蛸入道が現れて、みたいな、ちょっとエログロ的なものがありますけど、そういう時代のトレンドみたいなものもあるのでしょうか。
でも、この文楽に出てくる蛸は、エログロという感じではなくて、
なんか「ゆるキャラ」に近い。

人形は普通三人で遣いますが、この蛸を動かしているのは一人。
動きもちょっとテキトウというか、コミックな動きをします。
蛸がその長い足をのばして、海女の着物の裾をめくり上げようとしたりなんかして、
なにしてんのよ、みたいに怒られて、石かなんかぶつけられて、
その長い足で頭を掻く。それが、わー、蛸、カワイイ、みたいな感じ・・・
投げられた石が蛸の丸い頭に命中するのもすごいんだけど・・・

人形浄瑠璃というのは、舞台で人形が、こう、お芝居をしている。
台詞は、義太夫を語る人と三味線を弾く人が右手の舞台脇にいて、こちらが担当します。
台詞と、地の文というのか、語りの部分がありますが、これを語り分ける。
登場人物も、基本ひとりの人がぜんぶ演じ分けます。

台詞の部分はまだいいんですが、地の文のところは、
さすがに江戸時代の日本語ですから、
聞いているだけでは意味がよくわからなかったりする。
プログラムを買うと、そこに「床本」という浄瑠璃台本がついていて、
昔はこれを広げながら見ていましたが、
いまはオペラと同じように舞台の左右に字幕が出ます。

『花競四季寿』は、踊りなので、台詞はなく全体が地の文。
地の文といっても、散文的に状況を説明するというのではなく、
舞台上の踊りに、詩をつけて歌っているという感じ。
あるいは、その逆。歌に合わせて踊りを踊っている・・・

海女の話では、面白いことに、地の文には蛸は一切登場しません。
蛸が海女に岡惚れしていて、こいつが現れて娘の着物の裾に手、じゃなくて足をのばし・・・
なんていう文章はどこにもない。
詩の方は、海と海女と海女のかなわぬ恋を名調子で歌いあげます。

だから、この芝居では、舞台上で繰り広げられる身体的パフォーマンスと、
舞台脇で展開される音楽的・言語的なパフォーマンスの間に、
かなりな質的ギャップがある。そのギャップも面白い。
むしろ、そのギャップの中に演劇の無限の面白さが広がっている・・・

けれども、この『花競四季寿』の中で、
演劇的に最高に面白かったのは、
その次、三番目の「関寺小町(せきでらこまち)」・・・

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時間堂『月並みなはなし』 [見た芝居]

時間堂の『月並みなはなし』(黒澤世莉脚本・演出)が
3月11日(今日)から14日(日曜日)まで、「座・高円寺2」というホールで上演されています。

黒澤世莉さんは、前回の時間堂公演で、マリヴォーの『奴隷の島』をとり上げてくれた演出家。
今回はオリジナル脚本で、杉並演劇祭参加です。

そのプレヴュー公演というのを10日(水曜日)に見てきました。

「座・高円寺」は杉並区立芸術会館の名前で、
「座・高円寺2」はその地下二階にあるお洒落な小ホール。
いわゆる小劇場公演のイメージからすると、ゴージャスというかデラックスというか、なかなかな快適空間。

箱としてのホールが快適なだけではなくて、舞台上の空間も快適・・・というのか、
こちらは素敵と呼んだ方がたぶん似合っている。
まあ、ぜひ見てください。絵本を開いたような、そんな感じ・・・

で、また、この公演でとにかく素晴らしいのが役者たちの衣装なんですよ。うーん、と唸ります。
普通の格好っていえば普通の格好なんですよね。それを着て街を歩いてもいい。
でも、それで、8人の登場人物たちが一人ひとりくっきりと浮き立って見える。
登場人物はみんな普通の人たちで、とりわけ強い個性を持っているわけでもないんだけれども、
それぞれがそれぞれに際立っている、っていう、そういう芝居の世界を衣装でぴたっと揃えた。
色彩もスタイルもとりどり。ただし、適当に混ぜて散らしたっていうバラエティじゃない。
ひとつひとつが全体の中でコーディネイトされている。

パフォーマンスは、役者一人ひとりの名前紹介から始まります.
登場人物は8人プラスもう一人いて、全部で9人。
全員が舞台上で椅子に腰かけ、一人が立ち上がり、残りのみんなが、
その人の名前をひとり一字(一音)ずつ言っていく。み、そ、ら、ひ、ば、り・・・
つなげると名前になる・・・あのですね、わかるかな・・・これはアドリブというのか、
一種のゲームになっていて・・・つまりですね、誰がいつどの一字を言うのかは決まっていない。
まわりの気配をうかがいつつ、ここで言おうと思った人が言う、
ただし、二人が同時に同じ一字を言ってしまったらゲームは終わり・・・みたいな・・・
ワークショップでやるかもしれない。それを観客の前でやります。
名前が通して言えたらいいんだけれども、通して言えるということが必ずしも目的ではなくて、
誰かと重なってしまうのを恐れて、黙っていてもしようがない。
あえて行動するっていうか、芝居だからアクトする。
誰かと重なってしまったらそれも芝居。
じっと耳を傾けまわりの人々の息づかいを感じ、そして潔くアクトする・・・
僕はこのプロローグが本当に気に入りました。
これは一種の劇中劇で、『月並みなはなし』っていう芝居全体をすべて物語っているような気がする。
人物たちの、役者たちの関係が問題なんだよね。
仲間たちの声に耳をすますことが大事なんだよね・・・
そう、登場人物のひとりの名前はミミ(耳)という名前なのです・・・

ストーリーは、ちょっと近未来的な話。
温暖化が進み地球の環境は悪化。人間は月に移住を開始する。
特別に訓練された人だけが宇宙に行くというのではなく、
入植者として、パン屋さんとかエレベーターガールとか、普通の人が行くんだけれども、
だからといって誰でも行けるわけじゃない。
国家的な事業なので、そういうなにか国家試験的なものに合格しないといけない。
しかも、試験はチーム単位で行われる。
チームは移住希望者の中からアトランダムにつくられる。
見ず知らずの人たちがチームになって一次試験、二次試験と勝ち抜き、
勝ち抜くごとにチームの絆は強くなって・・・
で最後の最後に、チームで合否が決められるはずが、チームの中から一人だけ月に行けることになって、
固い絆で結ばれた筈のチーム・メンバーたちは・・・
というわけで、ちょっと長くなりましたけど、芝居が始まるのはこの「最後の最後に・・・」のところからです。

平田オリザの有名な『東京ノート』が、やはりちょっとこういう近未来ものでした。
こちらは、なぜか、日本以外の国々で戦争が行われていて、
戦禍を逃れた世界の名画が唯一平和な国である日本に集められる・・・
異常な状況設定があって、そこで普通の人々がどう行動するのか、
その「人それぞれ」をリアルに描き出す・・・

黒澤世莉の『月並みなはなし』は、異常な状況設定をつくっておいて、
しかし、そういう状況での「人それぞれ」を描くのではなく、
あくまでも、ひとつの人間グループをひとつの人間グループとして追いかけます。
リアルにというよりは繊細に・・・登場人物たちのキャラが繊細というのではなく、
繊細なのは黒澤世莉。
黒澤世莉のつくりだす人間関係が繊細な歯車のように回ります・・・

プレヴュー公演では、この歯車はまだ完全にはチューンナップが終わっていなかったのかもしれません。
俳優たちはつい一昨日まで王子スタジオ1で練習していました。
『奴隷の島』をやったあの小さな劇場空間です。
その小さな空間の中で、まだ未完のまま生成を続ける彼らの芝居を観客に見てもらっていたのです。
プレヴュー公演では、「座・高円寺」というゴージャスな空間で200人もの観客の前で初めて芝居をします。
役者たちは、各自の身体の中に取り込んでしまった王子スタジオ1のアットホームな空間感覚を、
新しくて大きくてお洒落なこの空間に合わせようとして、たぶん、まだ戸惑っているようなのでした。

今日、木曜日の本公演初日では、そのあたりの再調整もできていたのでしょうね。
14日までのあいだに、ぜひもう一度見たいものです。
黒澤世莉の歯車たちがくるくると繊細にまわっているところを・・・

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マリヴォー 『コロニー』 ついに完結! [マリヴォー]

マリヴォー『コロニー』の翻訳、
第15景から第18景までをホームページに掲載しました。
http://www012.so-net.ne.jp/sankis-es/

第18景が最終景なので、『コロニー』はこれで完結!
ぜひ読んでください。そして、ぜひ芝居をしてください。

『コロニー』は、男女の差別の問題を喜劇的に展開しているので、
「18世紀のフランスの古典だぞ」みたいなことをとくに意識しないで、
そのまま演じてけっこう面白いと思います。
ぜんぶを通して芝居にしなくても、
一部分を素材にしてワークショップ・・・みたいな使い方もあるかと思います。

160年前の芝居です。
18世紀という時代の枠は確かにあります。
『奴隷の島』のように階級差別がテーマになっている場合、
また『コロニー』のように性差別がテーマになっている場合、
現代から見て、終わり方がすこし「あまく」感じられるかもしれませんが、
これは一種の「様式」と見なすことで、劇全体があつかいやすくなるかと思います。

例えば、『コロニー』の場合、女性たちは、女性の政治参加を認めなければ、男性と一緒に暮らすことを拒否する、と宣言します。
政治レベルでの性差別撤廃のために、女性は、愛(あるいはセックス)を切り札にするわけです。
政治とエロスの混同は、ある意味、古典劇に特徴的なもので、そこが、古典劇(喜劇も悲劇も)の面白さでもあります。

けれども、この芝居をどう終わらせるかということになると、そう簡単ではありません。
はい、わかりました、これからは男女同権です、というようなラジカルな幕切れを提示しても、それでは観客たちの生きている時代とあまりにかけ離れている。
フランス革命までまだ40年ある。そのフランス革命だって女性の政治参加を確立できなかった。
女性が選挙権を持つのは20世紀です。
1750年に『コロニー』をどう終わらせるかについては、やはり1750年の「様式」というものがどうしてもあるわけです。「様式」ですから、そこに作者の「思想」や「メッセージ」を読み取るような種類のものでは必ずしもありません。

20世紀だと、やがていつの日か差別のない社会が実現するのよ、みたいな「ヒューマニズム進化論」がパワーを持っていて、そういう「進歩主義的」見方からすると、
やっぱりマリヴォーの階級意識とか性差別意識とかは「遅れている」と考えられたりもしたのですが、
でも、マリヴォー劇の面白さはべつに幕切れにあるわけではありません。

えっ?こういう終わり方するの?
ああ、でも、昔の作家だからしょうがないのかも。
こういう意識レベルがマリヴォーの「限界」なのかもね・・・って、
いえ、べつに、「限界」とかそういうことではなくて、「様式」なんだよ。
マリヴォーの面白さは、「政治とエロス」をめぐって男たちと女たちがどういうパフォーマンスをするかという、そういうところにあるので、
いわゆる「進歩主義的」な偏見にとらわれたまま『コロニー』を演出すると、全体がつまらなくなる。

21世紀の現代に生きている私たちは、世の中って差別のなくなる方向に向かっているのか、っていう、そのことにもう確信が持てないわけでしょう。
階級差なんてむしろどんどん大きくなっていくわけだし・・・
男女差別の問題は、やはりエロスが絡んでくるので、すごい複雑な議論になる、っていうか、
議論するときはエロスは脇に置いとこうよ、みたいなことになる。
草食系男子とか、そういう名前をつけてとりあえずしのいでおく。
少子化とか、そういう名前がつけば議論ができる・・・みたいな・・・
で、そういうカオス的な現代日本の男女関係の中に『コロニー』という芝居の場所があると思うんです。
「政治とエロス」で笑う芝居・・・

以下にホームページの方の『コロニー』紹介文を載せておきます。
ホームページに行かなくても、とりあえずここで読んでみてくださいな。

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マダム・バタフライのDNA [オペラ]

プッチーニの『マダム・バタフライ』はとても有名なオペラです。
ピエール・ロチの『マダム・クリザンテーム』はフランスの小説ですが、残念ながら日本ではそんなに有名ではありません。

けれども、ロチの小説を読んでからプッチーニのオペラを見た人は、
不思議なデジャ・ヴー感覚にとらわれるでしょう。
長崎の港と町を見下ろす高台の家。海軍士官が、結婚ブローカーの斡旋で日本人娘と結婚をする、その婚礼の日・・・・・・
ぜんぶ『マダム・クリザンテーム』の中ですでに出会ったものだからです。

『マダム・クリザンテーム』が刊行されたのは1887年。『マダム・バタフライ』の初演(1904年)より四半世紀も前のことです。

『マダム・バタフライ』と『マダム・クリザンテーム』は間違いなく共通のDNAを持っています。
例えば、その双子のようなタイトル・・・
バタフライは英語で蝶々。
クリザンテームはフランス語で菊。
どちらもジャポヌリー(日本の美術工芸品)にはおなじみのモチーフ。

『マダム・バタフライ』はイタリア・オペラですから、イタリア語的には『マダマ・バタフライ』ですけれども、原作はアメリカの小説で、そのタイトルが『マダム・バタフライ』。
『マダマ・バタフライ』のマダマは『マダム・バタフライ』のマダムで、『マダム・バタフライ』のマダムは『マダム・クリザンテーム』のマダムからきている・・・DNAの系譜です。

双子のように似ている『マダム・バタフライ』と『マダム・クリザンテーム』ですが、同時に、きわめて対照的な性格の持ち主です。このコントラストが、オペラを見た時の「デジャ・ヴー感覚」を奇妙に落ち着かないものにしています。それは、妹の『マダム・バタフライ』が姉の『マダム・クリザンテーム』に強く反撥しているからです・・・

というようなことも含めて、ピエール・ロチの『マダム・クリザンテーム』について原稿を書いていました・・・ので、その間ブログがぜんぜん更新できませんでした。
「異国の人」という共通テーマで3人の仲間がそれぞれの原稿を書いて持ち寄るという・・・そういう「企画」と言っていいのでしょうか、それで、僕は『マダム・クリザンテーム』について文章を書いたのです。

3月の末に本になります。本屋で見つけるのはたぶん超困難。
朝日出版というところのホームページで注文できます(たぶん4月から)。
興味のある方、ありそうな方は、ぜひ読んでください。
本が出ましたらまたお知らせします・・・って、
なんか宣伝してるみたいですが・・・明らかに宣伝してます。

『マダム・クリザンテーム』は、翻訳があることはあります。
岩波文庫の『お菊さん』がそれです。
ただ、1929年の翻訳という、とても古いものなので・・・
1929年と言えば、いまベストセラーになっている『蟹工船』の出た年です。

『マダム・クリザンテーム』は『お菊さん』とはずいぶんイメージが違います。
タイトルからすでに・・・
『お菊さん』だと、『マダム・バタフライ』のDNA的なものが見えず・・・

以下に、『マダム・クリザンテーム』について僕が書いた文章のイントロ部分を掲載します。
興味のある方、ありそうな方は、ぜひ・・・

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マリヴォー 『コロニー』 5 [マリヴォー]

ホームページ sanki's empty space に
マリヴォー『コロニー』 の 第14景の翻訳をアップしました。

http://www012.upp.so-net.ne.jp/sankis-es/

全18景の芝居なので、残すところあと4景です。

男女差別のない新しい社会を築こうとする女性たちの戦いはつづきます。
第13景では、貴族の女性代表のアルテニスが男たちに最後通牒を突きつけました。
第14景では、平民代表のソルバン夫人が男たちに最後通牒を突きつけます。

主題と変奏的な面白さもありますが、
政治的問題が、同時に愛の問題でもあるという、かなり感動的な場面でもあります。

ソルバン夫妻は、長年連れ添った夫婦です。
リナという年頃の娘がいます。
夫婦の間に深い絆はあるのでしょうが、日々の生活は幾分ルーティーン化していたかもしれません。

少しずつ気持はずれてゆき、
ソルバン氏は、妻が本当にはなにを望んでいるのか、もう考えようともしなくなっていた・・・

ソルバン夫人の最後通牒は、彼らの愛をもう一度確認するための「最後通牒」でもあるのです。

さあ、ボールはソルバン氏の手に渡されました。
ソルバン氏はどうするのか?

つづきは第15景・・・
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劇団競泳水着 『そして彼女はいなくなった』 [見た芝居]

昨年のマリヴォー『奴隷の島』公演でイフィクラテスを演じてくれたのが伊坂沢さんです。
その伊坂沢さんが出ているというので、劇団競泳水着『そして彼女はいなくなった』をサンモールスタジオというところに見に行ってきました。
昨日が最終日だったのですが、なんとか当日券ですべり込みました。

伊坂さん自身は「東京タンバリン」という劇団の俳優さんです。

『奴隷の島』でユーフロジーナを演じてくれた大川翔子さんが、この「劇団競泳水着」に所属する女優さんですが、彼女は今回の公演には出ていません。

黒澤世莉作/演出『月並みなはなし』(「時間堂」公演)が、3月の11日から「座・高円寺2」というところで始まります。大川翔子さんはそちらに出演するので、こちらはお休み。

『奴隷の島』公演の時、クレアンティスを演じた大竹悠子さんが、大川/ユーフロジーナに向けて言う台詞に、ちょっと楽屋落ち的アドリブをつけていました。

「いまさら、わたし愛とか恋とかよく知らないから・・・みたいな顔したって似合わないわよ。愛とか恋はあなたの得意分野でしょ。劇団競泳水着で・・・」

大川さんが「そこで劇団名出すか?」と返していました。

「劇団競泳水着」に関する僕の予備知識はこれがすべてでした。

見ると、確かに「愛とか恋」の話です。ただし今回はいつもと違うミステリー仕立てということで、これまでの「劇団競泳水着」のスタイルとは少し違う、と上演パンフに書いてあります。

ミステリーということもあってか、演劇というよりもテレビドラマを見ている気がします。
あとで聞いたら、テレビドラマみたいなのは、ミステリーに限らず、この劇団のスタイルであるらしい・・・

伊坂さんは、カフェのマスター的な役どころで、ただひとりこのミステリーに直接コミットしていない。藤田まことの刑事ものでいうと、藤田まこと行きつけのバーのママ真野あずさ的な・・・って、古いですよね。いつのドラマじゃ!みたいな・・・
すいません、新しいテレビドラマはぜんぜん把握していなくて・・・

『そして彼女はいなくなった』は、フラッシュバックなんかを多用して、テレビドラマ的には凝った作りです。
先の読めないストーリー、あっ!というどんでん返しは、ミステリーとしても面白い。
ただ、基本は「テレビみたい」なので、見ていてとても複雑な気持ちになります。

この芝居は映像媒体を通して見てればいいのかな?いや、やっぱり、こういう演劇空間で見るべきものなのかな?っていう・・・

感動みたいなものはないんです。女優さんがたくさん出るんだけれども、
みんなストーリーに乗ってストーリーを展開していくっていう演劇スタンスなので、
「自分をさらけ出す」的なものはなくて、日常女子が日常女子の枠内でパフォーマンスを繰り広げる。
「彼女たちの場合」みたいな具体的な深さは追及されません。
女子の日常について、普通みんなが想像できることが芝居の「素材」です。
そのレベルでは観客の「知らないこと」というのはほとんどない。
観客が「知らないもの」はストーリーだけです。
そのストーリーのミステリー性が、芝居全体を支えています。

テレビドラマなんかだと、テレビの前を離れれば、
すべては夢のように消えて、ほとんど思い出すこともない。
それが、『そして彼女はいなくなった』の場合は、昨日の今日こうして思い出すと、
ああ、あそこに僕がいたんだ、っていう、そういう場所として、体験として、思い出せる。
夢ではなく現(うつつ)として甦ります。
で、それはすごいことなんだと思う。やっぱり、演劇という体験なんだと思う・・・

僕が初めて見たプロのお芝居は、中学生の時、『森は生きている』というロシアの児童文学作家の書いた戯曲を、東京から来たお兄さんやお姉さんたちが演じたものです。僕は田舎に住んでいました。
殺風景な学校の体育館で、ロシアの森の冬を生きている役者さんたちにびっくりしました。
体育館の床に体育座りをして、やはりロシアの冬の森にいた僕たち自身にもびっくりしました。
ああ、これが芝居なんだっていう・・・

演劇っていろんなものがあって、とにかく人々が演劇を見に来るっていうことがいいんだよ・・・って思います。

それに、舞台の真中に食卓を置かない、っていう演劇の方向性がなによりもすばらしい。

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『ラグジュアリー』あるいは演劇と衣装について [見た展覧会]

申しわけありません、
このブログに足を運んでくださる皆さま、
更新がぜんぜんできていません。

いま、ピエール・ロチの『マダム・クリザンテーム』について、ひとつ論文を書かなくてはならず、それにかかりきり状態・・・というか、いっぱいいっぱいでございます。

なのですが、
昨年の暮れに、東京都現代美術館で開催中の
『ラグジュアリー:ファッションの欲望』展を見に行ってきて、
これがたいへんに面白く、ぜひお勧めしたい。
で、この展覧会が1月の17日まで・・・

というわけで、とり急ぎ、展覧会のご紹介。

展覧会自体は演劇と直接関係はないのですけれど、
この展覧会場という場が、ものすごく演劇的な空間であるのと、
さらに、演劇と衣装の問題についてもいろいろと考えさせてくれる・・・

展覧会が面白い・・・だけではなく、
見に来てる人のファッションを見ているのがまず面白い。
単にオシャレとかそういうのではない。
創造行為として衣服を身にまとう人たちがいるっていうのはすばらしいと思う。
そういう彼女たち、彼らが、美しい衣装の間を
歩き、立ちどまり、歩き、立ちどまり、そして言葉を交わす・・・
これは演劇として文句なしに面白い・・・

さて、展覧会のタイトルは、女性誌の「贅沢おしゃれ特集」みたいな、
なんかそういうレベルの響きがするんですが、
展覧会そのものはなかなかに充実しています。

今日的視点から、
モードにおける「ラグジュアリー」とはなんだろう、とあらためて考えてみる。
「ラグジュアリー」という言葉をめぐって、
モードというものをとらえなおしてみる・・・という企画展。

18世紀から現代までのヨーロッパの上流階級のファッション、
オートクチュールのファッション、
コンテンポラリーアートとしてのファッション・・・が展示されています。
若者文化とか、そういうレベルでのファッションではなく、ラグジュアリー・・・

そこに、川久保玲をめぐる企画展が合流し、組み込まれている(この部分だけは入場無料)。
この企画展は、さらにふたつの企画に分かれていて、

ひとつは、
妹島和世(建築家)に川久保玲の衣装の展示をゆだねた部分。
技術革新が新しい素材を生み出し、その結果、建築とファッションはどんどん近づいている・・・というのが2007年に新国立美術館で開催された「スキン+ボーンズ」展のアイデアだったと思うんだけど、そういう流れなんかをきっと踏まえて(たぶん)、身にまとう衣服をより大きな空間の中に展開する。
身体を軸にファッションをいわば二重に三重に重ねながら、身体を建築空間につなげていく・・・

もうひとつは、
1983年の川久保玲のコレクションを中心に、マネキンに着せた状態の服と、
その同じ服を二次元的に広げて写真に撮り拡大した、その写真を並べて展示してある部分。
川久保玲の複雑な形の服が、日本のキモノのように二次元的に広げられるということが面白いのと(二次元的に広がらないものもある)、
そういうふうに写真に撮ると、もうどうやって着るのか皆目見当がつかないものになるということも面白い。
これが入場無料ということは、
この部分を見に行くだけでも、遠いところをはるばる出かけて行く価値がある・・・

展覧会全体に話をもどして・・・

この展覧会の英語の題名は
「ファッションにおける『ラグジュアリー』の再考」みたいな意味で、
この企画展のコンセプトというか、
コンセプトの方向性をちゃんと示してくれています。
なのに、日本語タイトルが、なぜか意味不明・・・
美術館の「入場者数ノルマ」とか「費用対効果」的な議論とか、そういうことでこういうタイトルになってしまうんでしょうか?・・・それはなにか悲しい・・・

この展覧会で最も強く感じることは、展示された衣服の貴重さ。
もちろん「ラグジュアリー」なんだけど、そのスケールが圧倒的・・・
高価という意味でも貴重なんだけれど、それ以上に時間。
手間ひまというのか、とにかく時間がかる。
作るのにもたいへんな時間がかかり、
着るのにもたいへんな時間がかかる・・・

そして、
こういう「ラグジュアリー」をすぐそばで実感する、体感する、ことは
演劇的にとても重要であるような気がします。
もちろん実際に芝居をやるときには、衣装に予算をかける余裕はないし、
またかける必要もないと思う。
けれども、例えばこの人物はキャラクター的に金と時間のかかる衣装を身にまとっているのかいないのか、
は芝居づくりの上で重要なファクターになると思う。

マリヴォーの『奴隷の島』でも、他の芝居でも、主人と召使が服を取り替えるという場面がよくあります。
女が男の衣装を着る(男に変装する)という芝居もある(『愛の勝利』とか、『贋の侍女』とか)。
モーツアルトの『フィガロの結婚』(ボーマルシェ原作)でも、主人と召使が服を取り替える。
で、そういうとき、アイデンティティの問題とか、権力の問題とか、ジェンダーの問題とか、
そういうことを頭で考えることはできるんだけど、
そうじゃなくて、そのとき登場人物たちが取り替えてるのは
実はこういう「ラグジュアリー」な衣服なんだと納得することが必要で、
そういうふうに納得すると、
衣装の問題が演劇的に役者の身体に組み込めるんじゃないかと思う・・・

18世紀のドレスも、19世紀のドレスも、
それから川久保玲のドレスもそうなんだけど、
「ラグジュアリー」なドレスは、
着たり脱いだりするのにものすごく時間がかかるのだと実感して、はじめて、
ストレーレルが『奴隷の島』の若者たちに舞台上で服を着替えさせた意味もわかるような気がします。
衣装を取り替えるということは単なる記号ではないという・・・

あと、1908年にイタリアで作られた白い木綿糸のアイリッシュ・クロッシェ・レースのワンピースと
カール・ラガーフェルド(シャネル)が1997年に作った白の綿糸によるコード刺繍ドレス、
この二つが並んでいるところは圧巻です。
いつまで見ていても見あきない。
やはり、ストレーレルの白い『桜の園』を思い出します。
ラネーフスカヤ夫人はやっぱりこういう服を着てるのだよ。
桜の園をひとつつぶすだけの「ラグジュアリー」のスケールってこういうものなんだよねって思う・・・

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ロメオ・カステルッチ 『神曲3部作』のうち『煉獄篇』 [見た芝居]

フェスティバル・トーキョー(F/T)のプログラムのひとつ、ロメオ・カステルッチの『神曲3部作』のうち『煉獄篇』を、世田谷パブリックシアターで見てきました。

『地獄篇』、『天国篇』と見てきた流れで、期待が大きすぎたのかもしれませんが、
『煉獄篇』にはちょっと失望しました。

振り返れば、もちろん、面白い要素がたくさんあります。
コンセプトとかアイデアとかはとても面白い・・・
ので、そのレポート。

最初にちょっと、なんで失望したのかについて簡単に・・・

『煉獄篇』は3つのパートに分かれています。
パート1が、「近代リアリズム家庭劇」的な仕立て。
パート2が、動くインスタレーション(?)的なヴィジュアル・シーン。
のぞき眼鏡、ステレオスコープ、万華鏡などなどイリュージョン系の光学装置がいろいろありますが、
そういう不思議な装置のひとつを通して見た幻想的イメージ。
パート3は、『地獄篇』を思い出させる、コンテンポラリーアートとコンテンポラリーダンスと
コンテンポラリーミュージックをミックスしたようなコンテンポラリーなパフォーマンス。

それで、パート1は、「近代リアリズム家庭劇」のパロディーとか、そういうものではなくて、むしろ「近代リアリズム家庭劇」をシリアスに徹底的に演じなければいけないパートだと思うんですが、そこのところのパフォーマンスの質がすごく低いんですよ・・・

なにかぜんぜんべつの演劇原理によってつくられているのかなとも考えてみるのですが、
やっぱり、芝居が下手・・・としか思えなくて、それで気持ちが離れてしまいました。
気持ちがついていれば、パート2やパート3は面白かったんだろうと思います・・・

芝居が下手・・・に見える・・・理由はきっといろいろあるんだと思います・・・
フェスティバル・トーキョーっていう枠とか、
トーキョーの観客のために英語上演が選択されたとか、
それで、このダイアローグ、このキャスト・・・

違う状況ではまったく違う芝居になるかもしれない・・・


それで、パブリックシアターの『煉獄篇』はどういう芝居だったかというと・・・

いわゆるドラマ的なストーリーがあります。
父親が息子(小学生くらい)を性的に虐待する話がパート1。
息子はその虐待体験を越えて幸福になれるかと見えて、やはりその記憶に悩まされつづける、
というのがパート2・・・というか、たぶんそういう話。パート2以降は、それほどはっきりとは物語が見えない。
成長した息子は、虐待の連鎖の中で、「子供」よりさらに弱い存在としての障害者を虐待する。
障害者に父親の格好をさせて・・・というのがパート3。

パート2では、大きな円形の「のぞき眼鏡」の向こうに、美しい・・・と言っていいかどうかわかりませんが、まあ、アート的な、アート的に美的な花々のイメージが展開します。
カステルッチによれば、花々は、ダンテ的煉獄の「地上の楽園」に共鳴するらしい。

さて、パート1は奇妙な二重構造になっています。

ひとつの物語が舞台上で、まあ、フツーの芝居的に展開します。
一方、舞台前面を覆う透明なスクリーンには、もうひとつの物語が
字幕テクスト(日本語)で映し出されます。
ふたつの物語は微妙に似ているのだけれども、決定的なところで異なっている。
もとは同じ物語の別バージョンというわけです。

母親が夕食の準備をしています。
子供は「あのひと」(父親)が帰ってくる時刻が近づいたので脅えはじめます。
父親の虐待を黙認している母親は、夫の共犯者でもあるので、子供の脅えに対してなにもすることができない・・・

字幕テクストは、はじめ劇の流れをなぞる形で展開しますが、
虐待シーンでは、虐待などどこにも存在していないというように、
幸福な家族の団欒を語りはじめます。
字幕はまさにスクリーンとなって虐待を覆い隠すのです。

事実を隠蔽するためのディスクール、
言葉のスクリーンとしてのもうひとつの物語・・・

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ロメオ・カステルッチ 『神曲3部作』のうち『天国篇』 [見た芝居]

IMG_0184_edited-1.jpgフェスティバル・トーキョー(F/T)のプログラムのひとつ、ロメオ・カステルッチの『神曲3部作』のうち『天国篇』を見てきました(『煉獄篇』はまだ見ていない)。

場所は西巣鴨。
廃校の中学校の一部を改造した「にしすがも創造舎」というところ。改造したと言っても建物全体には学校の雰囲気がそのまま残っているので、芝居を見に来たというよりは、ちょっと選挙の投票にでも来た感じがします。
写真は、デザインコンセプト的に明らかに周りから浮いていた当日券売り場。

『天国篇』は、パンフなどによれば、
「ライブ・インスタレーション」あるいは「展示形式のパフォーマンス」。

「ライブ・インスタレーション」ってなんだってことですよね・・・
これが、まあ、インスタレーションって言われるとインスタレーションなんだけれど、
パフォーマンスだって言われればやっぱりパフォーマンスで・・・

僕はこれを芝居として見てきました。
そして、芝居として見て、すごい。
うーん、すごいって、うなります。

これは必見。
21日(明日)までやっています。
ただのインスタレーションではないので、要予約ですが、当日券も出ています。

「鑑賞」の時間はひとり5分が「目安」・・・とされているけれども、
5分経ったら追い出されるというわけでもなく、
自分のペースで見ることができるようになっています。
芝居の長さが自分で自由に決められる芝居、と言えるかもしれない・・・

芝居の場合、じっと座っている観客の目の前で、芝居が展開されていきます。
まあ、時間的に展開されていくわけです。
観客は動かない。

インスタレーション形式の場合には、観客は空間の中を思い思いに移動しながら「鑑賞」します。
その空間移動が、時間軸上では、時間の経過として積み上げられていく。
観客によって順路は一様ではありません。歩くスピードも違う。
立ち止まって耳を傾けたり、天井を見上げたりする・・・

インスタレーションの全体像というものはすぐには見えてきません。空間はいつも断片的にしか体験できない。私は空間の全体像をとらえようとして移動しているのだ、と考えれば、すべては空間の問題であって、時間は関係ないようにも思えます・・・

カステルッチの『天国篇』では、この空間の真ん中にブラックホールのようなところがあり、
そこで「天国」のパフォーマンスが休むことなく演じつづけられています。
私がいまどこにいようと、その黒い中心で演劇が行われているわけです・・・
いまどこにいようと、私はすでに演劇の中に巻き込まれている、と言っていいかもしれません。
私のたどった順路が、私の立ち止まった時間が、私の触った白い壁が、いつの間にか、
私自身の『天国篇』をつくりあげようとしている・・・

私が移動しているという「地動説」から、空間が移動しているという「天動説」へ、
自分のポジションをスライドさせれば、インスタレーション全体が一瞬にして舞台に変容します。

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ロメオ・カステルッチ『神曲3部作』のうち『地獄篇』 [見た芝居]

演劇祭フェスティヴァル・トーキョー(F/T)のプログラムのひとつ、
ロメオ・カステルッチの『地獄篇』を、池袋の芸術劇場(中ホール)で見てきました。

悲しく、そして美しく、
涙がほろほろと頬を伝い、
僕の鼻炎的鼻はまたぐずぐずとむずかるのでしたが・・・
いえ、鼻水くらいなんのその、
すばらしい芝居だったのです。

そのすばらしい芝居の、遅ればせレポート。
「遅ればせ」というのは、『地獄篇』はこの14日でとっくに終わっているので・・・
でも、『煉獄篇』と『天国篇』はまだこれから、
そっちも、きっとすばらしいと思う。

IMG_0183_edited-1.jpgカステルッチの『地獄篇』は、ダンテの『地獄篇』を劇化したというよりは、そこからインスピレーションを受けてつくられた新しい舞台劇。オリジナルとはぜんぜん違う世界をつくりあげながら、なお、これってやっぱりダンテの『地獄篇』だよね、と思わせる、不思議な説得力を持っています。

ダンテの『地獄篇』は、ダンテ(作者兼主人公)が、
古代ローマの詩人ウェルギリウスに助けられながら、地獄めぐりをするという話。
カステルッチの『地獄篇』では、
ロメオ・カステルッチ(作者兼演出家兼俳優)が、あるミッションを自らに課します。
それは、新時代のダンテとなること。
現代の地獄を生きなおし、描きなおすこと。
ミッション・インポッシブル・・・

カステルッチが舞台上に現れ、「私はカステルッチです」と日本語で言います。それが開始の合図。
間もなく、恐ろしい森の獣たちがダンテの前に現れたように、
3匹のシェパードがカステルッチに襲いかかり、噛みつき・・・
はい、ほんとうに噛みつきます(ただし、カステルッチは訓練用の防護服を着ているので、怪我はしない)。

カステルッチの『地獄篇』で、ウェルギリウスの役を任されるのは
ポップアートのカリスマ、アンディ・ウォーホール。

コンテンポラリー・アートとコンテンポラリー・ミュージックとコンテンポラリー・ダンスをミックスしたような思いっきりコンテンポラリーな演劇パフォーマンスです(初演は2008年のアヴィニョン演劇祭)。


観客というINFERNO
開演前の舞台には白い煙が立ち込め、舞台前面横一列に並べられたアルファベットの文字が、
電気的ノイズとともに、壊れたネオンのように点滅します(写真)。
文字は裏返しの“INFERNO”(「地獄」)。
裏返し、つまり、舞台側から見るのが「正しい」向き。
観客に見えるのは文字の裏側。文字の側面が点滅するので光っているとわかります。
舞台上に役者がいて(まだいないのだけれど)、客席側を見れば、
“INFERNO”という文字の向こうに観客が座っていることになる。

これは・・・

芝居が始まって、かなり早い段階で舞台上に大きな鏡が持ち込まれます。
短い時間ですが、そこに観客の姿が映し出される。
観客が「地獄」という文字の向こうに自らの姿を見る、というのが、
たぶんこの「裏返し」の意味。

現代の「地獄」とはなにかと問えば、それはもうダンテの時代とは違って、
中世キリスト教世界観に「安住」しているわけにもいかないわけで、
「地獄」とはまさに私たちが生きているこの世界・・・と答える以外にほとんど選択肢はなく・・・
従って、“INFERNO”というタイトルのもとで、これから舞台上に展開されるのは、
舞台の外でいま私たちが生きているまさにこの世界の演劇的イリュージョン。
舞台は世界の鏡・・・ということになります。

実は、この鏡のシーンでは、もうINFERNOの文字は舞台上にはありません。
今回僕が見た演出では(パンフレットの写真を見ると、いろんな演出パターンがあるようです)、
開演前にスタッフが文字を片づけてしまうので、鏡のシーンでは、私たちは、
すでに存在しないINFERNOという文字の記憶に頼るしかないのですけど、
舞台上にはコーテーションマーク“ ”だけが片づけられず残されていて、
こちらは最初から客席側を向いて光っているということもあり、
不在の文字の存在をいつも観客に思い出させます。

私たちがつくりあげる私たちの地獄、
私たちが破壊しつづけるこの世界という地獄・・・

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『妻は女優』 [映画とマリヴォー]

東京ではなかなかマリヴォーの芝居は見られないんですけども、
フランス映画を見ていると、意外なところにマリヴォー劇が登場してびっくりします。

『僕の妻はシャルロット・ゲンズブール』は題名(邦題)からもわかるように、
シャルロット・ゲンズブールが出ている映画・・・というか、
シャルロット・ゲンズブールがシャルロット・ゲンズブールの役で出ている映画です。

原題は『僕の妻は女優』。
ただの「女優」ではなくて、「シャルロット・ゲンズブール」という名前を
タイトルに出した方が、日本では集客力があるということでしょうか。

(ちなみに、というか、ご存知のように、というか・・・
シャルロット・ゲンズブールはセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの娘です。
とてもチャーミングな女優。)

まあ、シャルロット・ゲンズブールが登場人物でもあるわけなので、
無理やりの邦題というほどでもないけれど、
邦題だけ見ると、やはりどこか無理やり感が漂うことも否めない・・・

シャルロット・ゲンズブールの夫(タイトルで「僕の妻」と言っている「僕」)を演じているのは、
イヴァン・アタルという人。この映画の監督でもあります。
この二人は実生活でも一緒に暮らしているらしく、
イヴァンは映画の中でもイヴァンとして出てきます。

といっても、
自らの「夫婦生活」を撮った赤裸々なドキュメンタリー映画というのではありません。
フィクションです。
テレンス・スタンプがイギリス人俳優の役で出てきますが、名前はジョン・・・

イヴァン(役の方の)は俳優ではなく、スポーツ記者。
俳優の仕事、あるいは業界についてはよく知らない。

俳優が映画でやっていることは、ぜんぶ嘘、虚構、フィクション。
現実とはなんの関係もない・・・くらいのところで
「妻が女優である」という事実は特に問題なく頭の中で整理されていました。

それが、ある時・・・

妻が女優っていうのも大変じゃない?他の男とキスしたり、ベッドシーンもあるし・・・などと言われ、
なに言ってんの、ぜんぶ映画の話。フィクション。
ピストルで撃って人が死んでも、本当に死んだわけじゃないんだから・・・と反論しますが、
死ぬのはもちろん本当じゃないけども、キスは実際にしてるわけだろ?
とさらに反論され・・・

この「心無い」指摘が妙に気になりはじめたイヴァン。
あれやこれやと想像は膨らみ、
現実とフィクションの境界は限りなく曖昧になり、
ついに妻の撮影現場まで乗り込んで・・・というストーリー。

さて、妻のこと、俳優のこと、を理解しようとするイヴァンは、
演劇学校に登録をして、自らも俳優というものを体験してみることにします。
で、その演劇学校のシーンで演じられているのがマリヴォーの芝居。
『善意の俳優たち』(Les Acteurs de bonne foi)。

映画のこのシーンは1分足らずのごく短いもので、
べつにマリヴォーでなくても、コルネイユでもラシーヌでも、
とにかく舞台練習風景の映像であればいいのかな、
映画的にはさして重要な意味を持つわけではないのかな、みたいにも
一見思えるのですが、いや、いや、それがなかなかあなどれない。

1分の短い場面の中に、実は、『善意の俳優たち』の第4景と第12景がうまくモンタージュして入れ込んであります(『善意の俳優たち』は1幕物の芝居で、全13景)。わざわざモンタージュするくらいだから、監督はこの芝居を意図的に選択し、編集し、挿入したに違いありません。

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リュック・ボンディの『恋のサプライズ2』 [見た芝居]

思うに、『チャイニーズスープ』を見に行ったのがとても寒い日だった、
というのがそもそもの始まりです。
風邪をひきました。
一度風邪をひくと、ずるずるといつまでも長引くというのが
(「ずるずると」は鼻水の擬音とかかっている)、
ほぼ一年中なにかの花粉症に苦しんでいるこのあわれな鼻炎的人間の宿命で、
ブログの更新もできずにおりました。
カムバックです。

カムバック第一弾は、
ストレーレルの『奴隷の島』とならんでわが記憶に残るマリヴォー劇もうひとつ、
リュック・ボンディの『恋のサプライズ2』。
その回想レポートです。

IMG_0315_edited-1.jpgリュック・ボンディの『恋のサプライズ2』については以前にも少し触れました(「マリヴォー『奴隷の島』3」)。2007-2008 のシーズンにテアトル・デ・ザマンディエでかかって、大人気を取り、2008-2009 のシーズンには、ピーター・ブルックの劇場ブッフ・デュ・ノールで再演された、とその時にご紹介しました(写真はテアトル・デ・ザマンディエのエントランス・ホール)。

で、その時、リュック・ボンディをドイツ人と書いてしまいましたが、
間違いです。すいません。
『恋のサプライズ2』の上演パンフなどを見返したら、
スイスのチューリッヒ生まれと書いてありました。
ドイツ語圏の人間であることには違いないのですが、スイス人。
しかも演劇教育はフランスで受けている(ジャック・ルコックの演劇学校)ので、
フランス語もかなりできるかもしれない。
ただ、20歳を過ぎて演出家としての本格的キャリアが始まるのはドイツです・・・
というわけで、僕はどこかでドイツ人と思いこんでしまったようです。

あっ、それから、今年パリのオペラ座で上演されたモーツアルトの『イドメネオ』は、
2006年パリ・オペラ座初演のものの再演らしい、という情報も追加。
『イドメネオ』は、さらに来年の1月から2月にかけて、パリ・オペラ座で再再演される予定。

オペラと言えば、さらには、
今年の9月に、ボンディはニューヨークのメトロポリタンで
『トスカ』を演出して、大変なブーイングを浴びたとのこと。
もっとも、メトロポリタンの初日ギャラに集まる観客というのはそうとうな「アホ」らしいということで、この問題は片付けていいようです。
『トスカ』はミラノのスカラ座で再演されるとのこと・・・

さて、話をもどして・・・

『恋のサプライズ2』の二人の主役は、夫を亡くしたばかりの侯爵夫人と、恋人を失くしたばかりのシュヴァリエ(騎士)。二人ともまだ若いのに、残りの人生をひたすら、失った愛の悲しみのうちに生きようと決心している。
侯爵夫人とシュヴァリエはいかにもお似合いのカップルのようだけれど、二人とも愛だの恋だのとはすでに縁を切ったつもりになっているから、両者の間には、原則的に、愛が生まれるはずはない。
ああ、でも、お互いの悲しみのことを語り合うにはちょうどよいお相手・・・
と考えているところから友情のようなものが生まれ、
やがてそれが愛情のようなものに変わっていく。

あるいは、これは男女の友情が徐々に愛に変わっていくプロセスというよりも、
二人とも最初から互いに愛を抱いているのに、二人とも絶対それを友情としか認めようとしないんだよ・・・というふうにも読むことができて、
リュック・ボンディの演出はむしろそちらのようだったような気がします。

さて、侯爵夫人にはリゼットという小間使いが、シュヴァリエにはリュバンという従僕がいます。
この二人は互いに惹かれ合っている。
シュヴァリエが、田舎で隠遁生活をおくるつもりだなどと言っているから、
そんなことをされたんじゃ、俺たちもう会えなくなるよというので、
なんとか侯爵夫人とシュヴァリエをくっつけちゃおうと、いろいろ画策します。

さらに侯爵夫人とシュヴァリエの間に伯爵が割り込んできます。
俺さ、侯爵夫人を愛してるから・・・シュヴァリエ君はさ、友情しか感じてないんだろ。
だったら俺の愛の成就のために協力してくれ・・・みたいなことになって、話がややこしくなる。

さらにさらに、オルタンシウスという偽学者兼偽詩人が、侯爵夫人の家庭教師兼カウンセラー的なポジションにいて、侯爵夫人の悲しみをいわば食い物にしている。
こちらは、侯爵夫人がいつまでも喪に服していてくれれば好都合ということで、
彼の怪しい利害関係を主人公たちの感情問題の中に持ち込みます。

キリスト教的シチュエーションだと、この役どころは、
タルチュフみたいな偽善的な宗教家といったことになるのでしょうが、
マリヴォー的世界には、そういう宗教性はぜんぜんなく、
オルタンシウスのカウンセリングのベースはもっぱら古典古代の書物。
侯爵夫人も、従って、信仰心の篤い未亡人といった、わりとありがちのキャラクターではなくて、
なんと、彼女は、彼女の抑圧された「欲望」を「理性」でコントロールしようとするのです・・・
まあ、リゼットも観客もそんなことは初めから無理だと思っているのだけれど・・・

というわけで、18世紀の喜劇ですから、そういう18世紀的枠組みはあるのだけれども、
演劇としての「現代性」みたいなものは、この簡単な紹介からもすでにさまざまに感じられるのではないかと思います。

リュック・ボンディが、舞台の上に繰り広げて見せてくれるものも、
18世紀的「時代劇」ではもちろんありません。
それはいま生きているもの・・・

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マリヴォー 『コロニー』 4 [マリヴォー]

マリヴォー『コロニー』の第12景と第13景の翻訳をホームページに掲載しました。

男性vs女性。対決はいよいよ代表同士のディベートへと展開。
といっても、古い価値観に固執するばかりの男性陣は、
女性陣の雄弁を前にしておろおろするばかり・・・

しかし、要注意は、じっと女性たちを観察しながら、
その弱点を狙っている策士エルモクラット・・・

エルモクラットに気をつけて!

全18景の喜劇の、いま3分の2を越えたところです。

http://www012.upp.so-net.ne.jp/sankis-es/
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柴幸男演出 『チャイニーズスープ』 [見た芝居]

アゴラ劇場に『チャイニーズスープ』という芝居を見に行ってきました。
平田オリザ作、柴幸男演出です。

11月10日にベルリンの壁崩壊から20年をむかえたばかり。
ちょうどその旬の素材を使って美味しく・・・みたいな軽い作品。

ベルリンの壁崩壊で職を失った東西ドイツのスパイ二人。
あれから20年後、二人はチャイニーズスープをつくりながら、
思い出を語ったり、古い秘密を暴露したり、スパイの現在を嘆いたり・・・

元東ドイツスパイを演じる土井通肇さん(現在70歳だそうです)が、
なんとも言えないいい味のスープをつくっている。

台本は平田オリザ。
テーマが微妙ではあるんですが、
『ヤルタ会談』のように、才に走って野暮になるというところはまぬがれて・・・

これを『わが星』の柴幸男が演出しています。
パンフレットによると、二人でスープをつくるというのは彼の演出らしくて、
イスタンブールの海辺のテラスっていう場面設定とは完全にちぐはぐなんですけど、
これがすばらしい。

舞台の上でジャガイモを切って、玉ねぎを刻んで、人参の皮をむいて、
卓上コンロに火をつけて、大鍋をのせて、
その中に、ジャガイモを入れて、人参を入れて、玉ねぎを入れて、
それから、ジャガイモの皮と人参の皮と玉ねぎの皮を入れて、
それから、まな板と包丁とフライパンも放りこんでしまう。
さて、なにができるやら・・・

けれど、柴幸男演出の最大のポイントは、ひょっとすると、
開演前にあるのかもしれない。

彼は開演前に舞台に現れ、携帯電話を切ってください、などなど、一通りのルーティーンを述べたあと、
自己紹介をして(ここで拍手がわきます)、それから、あそこに座っているおじさんは・・・と、
登場人物から、シチュエーションまで、すべて説明してしまうのです。

言い忘れましたが、二人の元スパイのうち元東ドイツのスパイの方は、
芝居が始まる前から舞台上の椅子に腰かけてパイプを吸っています。

で、これは・・・
状況は絶対説明しない、話のラインは台詞の端々から少しずつ描き出されてゆくのだ、っていう
平田オリザの「リアル」な作劇術を最初からぶち壊しにしているわけです。

面白いでしょう?

あと、50歳と70歳の俳優に27歳の演出家っていう、これが魅力的です。
若者たちでつくる芝居も魅力的だけど、こういうミックス感がなんとも新鮮。

夜の8時に始まって9時に終わる、
「ほのぼの」と形容していいのかわからないけれども、
まあ、寒い夜に温かいチャイニーズスープもいいよ、っていう芝居でした。

IMG_0175_edited-1.jpgというわけで、写真はストーブの炎にぽかぽかしている、アゴラ劇場の待合室。

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「サンプル」 の 『あの人の世界』 [見た芝居]

09-11-08_003.jpgいま、「フェスティヴァル・トーキョー」、略してF/Tという演劇祭が開かれています。そのプログラムのひとつ、「サンプル」の『あの人の世界』(作・演出:松井周)を、池袋の芸術劇場小ホール1に見に行ってきました。(写真は芸術劇場の入り口にあったF/Tのマーク)

僕としては、見終わった時点ではビミョーな感じだったのですが、振り返ってみれば魅力的なシーンも少なくなかったような気もします。その僕なりのレポート・・・

松井周という人は「青年団」出身の劇作家・演出家で、平田演劇の世界とはまた違った方向にその演劇活動を展開する新世代のひとりらしいです。なので、俳優さんたちもアゴラ劇場で見かける人たちがたくさん出ています。

「青年団」系新世代というと、最近、柴幸男『わが星』を見て、その強烈な記憶が残っているので、なにか自然と比較して見てしまうのですけれど、
『わが星』が計算されたリズムとムーヴメントの中に展開されていたとすると、
『あの人の世界』は美しい静止画で組み立てられた世界という印象です。

多用な要素をわっと放り込んであるので、舞台はちょっとカオス的な感じにも見えるのですが、
また、役者たちは舞台上を派手に動き回り、大声で叫んだりもするのですが、
芝居を小さなセクションに区切って見れば、セクションの中ではいつもどこかで、
とても美しい図柄が出来上がっている。
これをひとつずつ写真にとって並べれば、きっと魅力的なアルバムが出来上がるに違いない。
もちろん芝居だから、完全な静止画ではなくて・・・
デジカメだと10秒とか20秒の動画が取れるから、むしろそっちの方だろうか。
台詞と動きがついて、歌舞伎の「ミエ」みたいにそこでいったん静止するわけではないけれど、
ああ、きれいにまとまった、ああ、またきれいにまとまった、っていう、
そういうシーンがつぎつぎとつくられているのです。

どのような要素が、そういう美しい図柄を舞台上につくるのかというと・・・

チラシには散らかった室内の写真とかが載っていますが、チラシの写真はすべてなぜか『あの人の世界』とはまったく関係のない、たぶんぜんぜん別の芝居らしい。

『あの人の世界』の舞台は2層構造になっています。
上の層は、客席から見上げるくらいの高さに、渡り廊下風の空間が舞台を横切っている。
そこでペットの犬が死んで以来うまくいかなくなった夫婦が食卓を挟んで、
そのいかにもうまくいってない感じのやり取りをします。
犬が死んで以来うまくいかなくなった・・・は台詞の中に出て来ます。
いや、どう見ても、犬が死ぬ前から君たちうまくいってなかったでしょう、っていう夫婦なんですけど・・・

食卓・・・新世代の演劇に、食卓はやっぱり必須アイテムなのでしょうか?

あっ、芝居のプロローグ部分では、まだ食卓ではなくて、墓地のシーンです。
夫婦は客席側を見て手を合わせたりするので、
ここでは観客が死んだペットとして、芝居の片棒を担がされます。
僕はいきなりだったので、死んだペットを演じ切れませんでした。

で、2重になった下の層では、ペットつながりで、いろんな「動物」が登場します。
「動物」といってもそれぞれ犬やウサギの耳をつけた人間・・・なのか、
擬人化された動物なのか・・・あるいは、同時に人間で動物なのか・・・
いずれにしても、イメージ的には、松本大洋の『鉄コン筋クリート』(漫画です)、
あれは「鳥人間」ですけど、まあ、ああいう感じ。

その「動物人間」が、時には、ホームレスに展開したり、
ダンスに青春を賭ける若者になったり、
実験動物になったり、捨てられたり殺されたり・・・
(上に不仲の夫婦がいて、下に「動物人間」がいるから、ちょっと『真夏の夜の夢』的な感じもする。)

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マリヴォー 『奴隷の島』 5 [マリヴォー]

「時間堂」の『奴隷の島』(黒澤世莉演出)が11月3日で2週間の公演を終えました(公演名は”smallworld’send”)。
おつかれさまー。
で、その最終日に再び見に行ってきました。
1週間前とはずいぶん変わっていた。えっ、こんなに変わるのか?

テンションとエネルギーが怒涛のように75分を駆け抜けていった・・・

最後のステージが終わった時、僕は、幕切れのトリヴェリーノと同じ台詞を5人の役者さんたちにむかって言いたい気持ちでした。
ああ、あなた方は本当にすばらしい若者たちだ・・・

「あなた方はすばらしい若者たちだ」と言う者は、もちろん若者ではありません。
・・・・・

奴隷の島のトリヴェリーノは絶対的権力システムを象徴する「賢人たち」のひとりです。
ある日、この島に流れ着いた4人の若者たちは、そこで奴隷の島という「ユートピア」の不条理を生きはじめることになる・・・

黒澤世莉はトリヴェリーノを5人目の若者だと考えました。
それが、「時間堂」の『奴隷の島』の驚くべき魅力であり、大きな問題点でした。

若者となったトリヴェリーノは、もはや冷酷で圧倒的な権力システムを象徴することができず、
彼と同世代の4人の異国の若者たちを、
ただ自らの不安定で傷つきやすい熱情によって説得するしかなくなったのです。

権力システムの姿が曖昧なものになっても、奴隷の島という不条理な状況は、
ゲームのルールとして、あいかわらずそこに存在しつづけている。
5人の若者によって繰り広げられるコメディーは魅力的で面白い。
けれど、劇のロジックはやがて破綻せざるを得ず、その不透明性が一気に露呈することになる・・・
と思われたのですが・・・

芝居が終わってみれば、破綻など目にとまらず、一列に並んで観客に挨拶する5人の若者たちの肩越しに、いとも爽やかな風が吹きぬけてゆくのです。

そう、この演出でよかったんだよ・・・

このスピードとテンポとテンションと、そしてこの「若さ」ならば、
台本はもう少しすっきりしたものに修正できるはず・・・と、
この古典喜劇の訳者である僕は考えはじめました。

なぜならば、たぶん多くの人が考えていることとは裏腹に、
翻訳とは、望むと望まざるとにかかわらず、すでにひとつの演出だからです。

マリヴォーの原作はもちろんフランス語で書かれています。
原作は、古典劇の名に恥じない、豊饒さ、奥深さ、多面性、現代性、あるいはむしろ、
いつの時代においても現代的であるという意味での「同時代性」を宿している。
そこには限りない可能性がある。
才能ある演出家たちが、シーズンごとに、その同じ原作をもとに、鮮烈で「現代的」な芝居をつくりあげ、
つぎつぎとマリヴォー像を描きかえていく・・・

翻訳は、そうした原作のポテンシャルなすべてをそのまま日本語に移せるような性格のものではありません。
ニュートラルなものではありえないのです。
翻訳者は原作のもつ可能性の「ひとつ」を選択しなければならない。
その選択は「演出」という言葉で呼ぶのがふさわしいようなものだと、僕は考えます。
翻訳者は、原作のもつ無限の可能性を失うという自らの「宿命」を引き受けなければならない。
「失墜者」として、ひとつの「演出」を選ばなければならない。
(僕はいま翻訳の話をしています。これは翻案とは全く関係ありません。)

黒澤世莉さんの演出と僕の「演出」との間にビミョーな違和感があったのは確かです。
僕の翻訳は、観客が笑うのを待っているからです。
僕の言葉たちは、黒澤演出のスピードの中で時に幾分か鈍重に響くかもしれない・・・

例えばフランス古典演劇の場合、あるいはもっと一般的に、翻訳劇の場合、
芝居作りは翻訳台本作りから始めるのが理想なのだと思います。
翻訳されたものを好きなように作り変えるという意味ではありません。
原作を翻訳する(翻案ではなく)という可能性の限界の中で(そして、その可能性の限界というのは水平線のごとく遥かに広がっているはずです)、
演出家の演出と翻訳家の「演出」との違和感をできるだけゼロに近付けるということです。

翻訳は演劇とともに生成しつづけるものでなければならない。

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マリヴォー 『コロニー』&『奴隷の島』 [マリヴォー]

ホームページsanki’s empty space 更新しました。
マリヴォー『コロニー』の第10景と第11景を掲載。

男性vs女性の全面対決という「時代の波」に引き裂かれる恋人たち・・・
と言っても、もちろん喜劇ですから・・・
むしろこの場面は繊細かつキュートに演じないと、
ただの「お馬鹿コント」になってしまいそうなほどの喜劇です。

お楽しみください。
http://www012.upp.so-net.ne.jp/sankis-es/

そして、
「時間堂」の『奴隷の島』(黒澤世莉演出)はいよいよ11月3日まで。
残すところ3ステージ(公演名は『スモールワールズエンド』)。

11月1、2、3日とも前売り券は完売御礼のようです・・・が、
当日券が「若干枚」出るそうなので、
しまった、予約してなかったという人はぜひそちらで。

面白くもまた楽しいことはもちろんなのですが、
なかなか他所では見られない演目&演出なので、
「好み」とかいう問題を超えて、体験として興味深いと思います。

「時間堂」こちら: http://www.jikando.com/

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黒澤世莉『スモールワールズエンド』 [見た芝居]

09-10-26_004.jpg「時間堂」公演smallworld’send(黒澤世莉演出)の本番を、この月曜日ようやく見ることができました。と言っても、18時から始まる第1部には間に合わず、第1部が終わったところからの観劇でしたが・・・

この公演は3部に分かれていて、
第1部『星々を恐れよ』(アゴタ・クリストフ、60分)、
第2部『工場のもめごと』(ハロルド・ピンター、5分)、『熊』(チェーホフ、35分)、『かんしゃく玉』(岸田國士、15分)、
第3部『奴隷の島』(マリヴォー、70分)、
途中15分ほどの休憩を2回はさみます・・・

と、これはBプロの方で、Aプロだと、上演順序がこれと正反対になります(第2部の中でも順番が逆になる)。月曜日はBプロだったので、第1部に遅れた僕は『星々を恐れよ』を見逃したことになりますが、これは、あらためて見に行くことにします。

見逃しちゃもったいないでしょう・・・って、普通ならそうなんですが、実は、この公演については、むしろこういう見方が公演コンセプトの中に組み込まれています。

短いとはいえ5篇の芝居、休憩を含めて4時間かかります。いっぺんに見ようとすればそれはなかなか大変。
そういうプログラムをわざわざ組むというのには、
好きなときに来て、その時やってる芝居を見て、また好きなときに帰る、
見なかったところは、またこんど来た時に見ればいいよ・・・っていう、
そういう芝居のあり方もいいんじゃない?
そういう芝居の見方もありなんじゃない?
というコンセプトが基本にあるからです。
好きな時と言っても、まあ、実際には、最初からじゃなければ、途中2回の休憩の間なんですけど・・・

芝居を見たいなと思ったときに、ふらっと出かけていく場所。
行くたびに、いくつもの芝居たちが、あたたかく、人なつっこくむかえてくれる場所。
それが『スモールワールズエンド』。小さな世界の果て・・・

そういうコンセプトですから、料金の方も、2回目以降は1000円という割引料金が設定してあります(1回目の切符を持っていってください)。毎日のように顔を見せる「常連さん」もいるらしい・・・

「小さな世界」の「人なつっこさ」をとりわけ感じさせてくれるのが、休憩時間。
一幕というのか、ひとつの部(1部、2部)が終わると、舞台の上にふたつの大きな衣装スタンドがごろごろごろっと登場します。カラフルな衣装がずらりと並んでいる。俳優たちはそこから、次の芝居の舞台衣装を選んでざわざわと着替えを始めます。キャンディとビスケットの籠をもって客席を回っているスタッフ。長丁場なのでどうぞ、甘いものを・・・
トイレに行きたい観客は、トイレが舞台の向こう側にあるので、動き回る役者たちとクロスする・・・

上演中は飲み食い自由で、キーワードはリラックス。
舞台は平土間、床にブルーのテープで境界線が引かれている。その境界の内側でやがて静かに劇が始まる。境界の外はすぐに現実空間。出番を待つ役者たち、舞台から「下りた」俳優たちが、色とりどりのクッションの上に座っている。

客席は平土間から3、4段の階段をつくって上っていきます。振り返れば王子の街が見える。会場の「王子スタジオ1」はガラス張り(写真)。行き交う車の音と、人の声が、役者たちの声と重なる・・・小さかった頃のお祭りを思い出す・・・

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ストレーレルの『奴隷の島』 [見た芝居]

ストレーレルの『奴隷の島』を見たのは、いまからもう10年以上も前、1995年のことです。
パリのオデオン座という劇場でした。

写真に写っているのがそのオデオン座ですが、
この写真は2年ほど前に撮ったもので、当時のものではありません。
1995年当時といえば、まだデジカメもない時代で、カメラを持って歩くという習慣もありませんでした。
デジカメがなかったなんて・・・やはり、ずいぶん昔のことですよね。
IMG_0227_edited-1.jpg
ストレーレルの『奴隷の島』はイタリア語で上演されました。

ストレーレルは、ご存知の方も多いと思いますが、
イタリア人の演出家で、ミラノ・ピッコロ座の主宰。
1997年に亡くなっています。
僕が『奴隷の島』を見た2年後ということになります。

亡くなっていますが、ゴルドーニの
『アルレッキーノ――二人の主人を一度に持つと』の演出などは、「定番」として残されていて、この夏に世田谷のパブリックシアターでも上演されました。
ご覧になった方もおられるでしょう。

パブリックシアターの公演では字幕が付いていましたが、
オデオン座の『奴隷の島』には字幕がありませんでした。
だから、ストレーレルの『奴隷の島』がどこまで「わかった」のかはわかりません。
でも、それは素晴らしかったのです。

あまりに素晴らしかったので、もう一度見に行きました。
どうしてそれが可能だったのかはよく覚えていません。
芝居は大人気を集め、僕が一回目に行ったときに、すでに、
劇場が用意したパンフレットがもうなくなっていたくらいでしたから・・・

あのイタリア語の『奴隷の島』との出会いがなければ、
このフランス古典喜劇を日本語に訳そうなどと思うこともなかったはずです。
ストレーレルの演出のどこがそれほど素晴らしかったのか?
それを思い出そうとしますが、
10年以上の時が経って、記憶はあまりはっきりしません・・・

舞台は質素なものでした。舞台装置というようなものはなかったと思います。
衣装も地味なものだったと思う。昔の川久保玲くらいの地味さ加減だった・・・ような・・・

衣装それ自体より、舞台の上で衣装を取り替えることが演出の大きなポイントで・・・

この芝居では、主人と召使いというペアが、男子ペア、女子ペアのふた組でてきます。
乗っていた船が難破して、4人は「奴隷の島」に流れ着く。そして、
島のルールにより、それぞれ、主人と召使いという権力関係が逆転することになる・・・というのがストーリー。
権力の逆転は、主人と召使いが来ている服を取り替えるということで明確に視覚化されるわけなんです。

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マリヴォー 『コロニー』 2 [マリヴォー]

ホームページ sanki's empty space 更新しました。

マリヴォー第2弾『コロニー』の第9景をあらたに掲載。
第9景は『コロニー』の見せ場ともいうべき、景としてもかなり長いものです。

男たちからの「政権交代」を掲げる女たちのコングレス。
格調高い演説から始まるものの・・・
ジェンダー的役割を拒否するためにリーダーの提出したマニフェスト、
「女はみな醜くなるべし」
というところから、話はこじれて大騒ぎ・・・

抱腹絶倒の18世紀フランス古典喜劇です。

URL http://www012.upp.so-net.ne.jp/sankis-es/


そして、

「時間堂」のマリヴォー『奴隷の島』(黒澤世莉演出)は今日で公演3日目
(公演名は『奴隷の島』ではなく、smallworld'send スモールワールズエンドです)。

僕は、あろうことか、まだ見に行けていません・・・が・・・
前回の記事で紹介したワークインプログレス、
本番前に観客を入れてしまって、その意見を聞くという大胆な試み、
その最終日に『奴隷の島』は大変な進化を遂げたらしい。
「らしい」というのは、その時も僕はそこにいなかったからなのですが・・・
「5人の役者が客席を巻き込み、グル―ヴ感が劇場空間を支配した」
という証言を得ております。


また、「時間堂」がSWITCHという雑誌に紹介されたという情報も得て、
本屋に飛んで行きました。
確かに紹介されている。しかし・・・
今回の公演紹介の中に、なんと、マリヴォーの名前がないではないか!
なんというピンボケの記事なのだ!

いやいや、そんなことは言わずに、紹介されたことをみなさまとともに喜びたい・・・

「時間堂」のHP: http://www.jikando.com/ 
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マリヴォー 『奴隷の島』 4 [マリヴォー]

IMG_0173_edited-1.jpg「時間堂」の『奴隷の島』(黒澤世莉演出)は来週の公演開幕をひかえて、新しい創作過程に入りました。

その名も「ワークインプログレス」!

作品はまだ完成はしていないものの、かなり出来上がってきた。
この段階で、観客に見せて、遠慮のない意見を聞こうという・・・
けっこう勇気のいることなんじゃないのかな、と僕なんかは思いますけど・・・

それで、昨日、そのワークインプログレスを見に行ってきました。
ワークインプログレスは、明日月曜日までやっています。
興味ある方はぜひ行ってみてください。
演出家や役者さんの苦労はそっちのけで、ひとりの観客としてけっこう思い切った意見を述べてかまわないみたいです。しかも無料です。

写真は、7時からのワークインプログレス開始を前に、身体をほぐしたり、台詞合わせをしたり、ご飯を食べたりしているところ。
写真を撮った本人的には、なかなかいい雰囲気を伝えている写真だと、
ちょっと得意顔なんですがどうでしょう・・・

21日から始まる「時間堂」の公演は"smallworld's end"というタイトルで、
比較的短いものから、ごく短いもの(5分)まで、5作品を集め、
盛りだくさんにまとめて上演するという面白い企画です。
写真に写っている役者さんも、マリヴォーに出る人、ピンターに出る人、チェーホフに出る人、そして岸田國士に出る人とさまざま。
実際の公演は、マリヴォー70分、岸田國士とチェーホフとピンターの3本で60分、アゴタ・クリストフ60分の3セットに分かれていて、途中それぞれ20分の休憩があります。

ワークインプログレスではその3セットから毎回2セットを選んでまわしながらやっています。昨日はマリヴォーとチェーホフ・グループの2セットが演じられました。
観客は、お芝居大好き的小学生少女(彼女自身は確かバレエをやってるのかな。間違ってたらごめんなさい)、それから、土曜の夕べは軽く芝居でもいく?的ないい感じの壮年カップルなどなど・・・僕なんか、そういう客席の景色にもう感動。やっぱり、芝居ってさ、これなんだよねー、みたいな・・・

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柴幸男 『わが星』 [見た芝居]

日曜日に、青年団リンク「ままごと」の『わが星』を三鷹の芸術文化センターというところへ見に行ってきました。
09-10-11_002.jpgこれ、ものすごく面白かった。絶対おすすめ・・・って、12日でもう終わってるんだけど・・・ごめん・・・
作・演出、柴幸男さん。
青年団関連の芝居で、久しぶりに熱くなったかも。世田谷パブリックシアターで、フィスバック(フランスの演出家)が演出した『ソウル市民』(平田オリザ)を見たとき以来のような気がする・・・

写真は、芝居が始まる前の場内。なんか宇宙的に見えないですか?って、ちょっと無理やり・・・
でも、宇宙的な芝居だったんですよ。
舞台はなくて、劇場空間を観客がぐるっと取り囲む感じ。
その真ん中で役者さんたちが惑星みたいにぐるぐるぐるぐる回りつづける芝居。


僕はいま、演劇の翻訳をやってるので、芝居づくりのことなど知りたいと思って、
夏休みに、池袋のコミ・カレというところで演劇のワークショップに参加しました。
その時の講師の一人が柴幸男さん。すごい感じのいい人で、
こんな才能ある人とは知らなかった。
いや、これら二つって、べつに相反するものではないんだけど・・・すいません・・・

その時ワークショップでやったのは、舞台上を二人の人間がずうっと歩きつづけるというパフォーマンス。
先頭を歩いている人が舞台から消えると、反対側からべつの人が入ってくる。
いま舞台から消えた人と、いま入ってきた人は、もちろん違う人だけれど、芝居的には同じ役を演じている。
いま前を歩いている人は、いま入ってきた人の後ろを歩いているという趣・・・
わかる?・・・

で、いま前を歩いている人が舞台から消えると、反対側から、またべつの人が入ってくる。
いま舞台から消えた人と、いま入ってきた人は、同じ役を演じている。
いい?・・・

というわけで、舞台上では、同じ二人の人物(役)が、いつまでも歩きつづけながら二人でずうっと話しつづける・・・

ところが、僕には何回やってもこれがうまくできなかった。
僕が普通に持っている「演劇」のイメージとはなにか異質のものなんですよ。
やってることの意味がぜんぜんわからない、みたいな・・・

その時に、柴さんがこの『わが星』の宣伝をしていたので、
やってることの意味がぜんぜんわからないなりに、
面白そうだったので、見に行ってみることにしたのです。

その『わが星』レポート・・・

カウントダウン
最初にステージマネージャーみたいな人が登場して、
「芝居は、途中4秒の休憩をはさんで80分。では、あと4秒で明かりが消え、芝居が始まります」
みたいなことを言います。
そして、4秒のカウントダウン・・・そして、真っ暗になる。

闇から生まれたように現れる8人の役者たち
(7人だったかも・・・そこんとこ重要なんだけど、数えてなかった)。
芝居の始まりは、宇宙の誕生。ビッグバン・・・

というよりも、この芝居、基本的に天動説を採用しているので、
宇宙の誕生とは地球の誕生。
4秒のカウントダウンののちに宇宙(地球)が生まれ、
生まれると同時に、消滅(芝居の終わり)に向かって
80分のカウントダウンが始まる。

時を刻むのはリズム。音楽の早いリズム。
時には時報の音になり、時には心臓の音になる。

円環の時間と直線の時間
役者たちは地上に描かれた円のまわりを回りはじめます。
物理的法則に従って回る惑星のように、
ラッシュアワーの山手線のように。

二人が輪を抜けて中心に近付く、彼らと入れ違いに、
べつの二人が輪を抜けて輪の中心に近付き、
中心から離れた二人は、回りつづける輪の中に戻る。
その完璧なタイミング。シンクロ・・・
『青木さん家の奥さん』に欠如していたスキル。高い高いスキル。
これだけで芝居終わっちゃっても、かなり満足して帰っちゃうぞ、くらいのパフォーマンス。

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マリヴォー 『奴隷の島』 3 [マリヴォー]

IMG_0152_edited-1.jpg「時間堂」はただいま10月21日から始まる smallworld'send の猛練習中。
昨日は、『奴隷の島』の稽古日だったので、また稽古場におじゃましました。

写真は「王子スタジオ1」。稽古場でもあり、またここが公演会場にもなります。
いま、アルレッキーノ(赤いシャツ)とイフィクラテスが難破して奴隷の島に流れついたシーンの練習中。

椅子に座っているのが演出家の黒澤世莉さん。
右端にちょっと水色のシャツが見えているのがユーフロジーナ。
左端に光って見えるのが道路傍の自販機。
通行人その1が自転車でスタジオ前を駆け抜けていきます。

芝居が実際につくられていくプロセスに立ち会えることは、とても貴重な体験です。
次から次へと目から鱗が落ちていきます。
鱗は一体何枚あったんだ、いや、まだあとどれくらい残っているんだという・・・

前回おじゃました時は、稽古が始まって間もないころ。みんな自由にはじけている感じで、
稽古そのものがパフォーマンスとして見ていて楽しかった。

昨日は、役者さんたちが、ちょっと全体のイメージみたいなものを意識し始めたフェーズのよう。
模索感というのか、迷い感というものがあって、
ああ、これがまさに芝居の「生成」というものなのか、とまたまた感心して・・・

『奴隷の島』を見に来てくれる人たちのほとんどにとって、
マリヴォーは初体験なのだろう、ということは理解していました。

でも、そういえば、マリヴォーを演ずる役者さんたちにとっても、
マリヴォーは初体験なんだ、ということをぜんぜん理解していませんでした。
考えてみれば当たり前のことだったんですよね。
マリヴォーの芝居なんて、っていうか、フランス古典劇なんて
演る機会がない、というよりも、そもそも見る機会がないんだから・・・


古典劇というとなにか堅苦しい感じがしますよね。むずかしい、楽しくない、喜劇なのに笑えない・・・

古典劇というとシェークスピアとかをまず思い浮かべる?それから、シェークスピアって言うと、とりあえず蜷川シェークスピアとか思い浮かべる?・・・
古典というと、あと、チェーホフ、それからイプセン?・・・このあたりは近代演劇・・・

でも、いま黒澤世莉さんが『奴隷の島』でやろうとしているのは、なにか新しい演劇領域の開拓の試みである、ような気が、僕にはしています。
もしみなさんが古典というものに、なにかあるイメージをもっていたとしたら、
たぶん、そのイメージを裏切ろうとするもの・・・

フランス18世紀、17世紀の喜劇や悲劇の、フランスでのありかたというのは、
例えば日本の能や歌舞伎のような伝統演劇とは違います。
芸を代々伝え、型を大事にまもっていくというようなものではありません。

僕が近年に見て面白かったマリヴォーは、『恋のサプライズ2』(2というのは1があるから)という芝居で、演出家はリュック・ボンディというドイツ人、つまり「外人」です。
2007-2008 のシーズンにテアトル・デ・ザマンディエというところでかかって、大人気を取り、
2008-2009 のシーズンには、ピーター・ブルックの劇場ブッフ・デュ・ノールで再演されました。

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マリヴォー 『コロニー』 [マリヴォー]

ブログの更新がちょっと遅れています。
けれど、ホームページの方の更新が着々と進んでおります。

マリヴォーの喜劇 『コロニー』 の第六景、第七景、第八景の翻訳を、
あらたに掲載いたしました。

みなさんぜひホームページの方にもお越し下さい。

URL http://www012.upp.so-net.ne.jp/sankis-es/
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ポール・クローデル『パルタージュ・ド・ミディ』 [見た芝居]

ワイル/ブレヒトのオペラ『七つの大罪』につづいて、この夏に見てきた芝居のレポートです

パリの演劇シーズンは9月下旬あたりから本格的に始まります。それにはビミョーに間に合わずの帰国・・・ただ、マリニー座で、一足早く、ポール・クローデルの『パルタージュ・ド・ミディ』(『真昼の分嶺』)がかかって、これを見てくることができました。
IMG_0120_edited-1.jpg写真はマリニー座入り口横の垂れ幕。『パルタージュ・ド・ミディ』の舞台写真が、ちょっと見にくいけれど・・・第1幕の舞台です。右端の赤いドレスの女性がマリナ・ハンズ。

2007年のコメディー・フランセーズのプログラムの再演。映画『レディ・チャタレー』でタイトル・ロールを演じたマリナ・ハンズがイゼという登場人物の役で出ています(女性の登場人物はこの一人だけ)。そして、このマリナ・ハンズがすごかった・・・(ちなみに、上演台本は1905年バージョンとプログラムにあります。)

個人的には、ポール・クローデルにはほとんど興味がなく、『パルタージュ・ド・ミディ』もテクストは読むには呼んだのだけれど、なんか「カト」(フランス語で「カトリック」の悪口を言うときの言い方)で抹香くさいし、台詞も、台詞だかお経だかわからんし、みたいなことで・・・
(お経じゃなくて詩ですか?すいません。)

じゃあ、なんでおまえ見に行ったんだという話なんですが、
近年クローデルの芝居の新演出がよくかかって、見た人が、
面白い、面白い、えっ、クローデル面白いですよ、と言うので、気になってました。

2008年の『スワッピング』という芝居が、『パルタージュ』と同じ演出家イヴ・ボネーヌで面白かったらしいし、それから『サテンの靴』という長い長いクローデルの戯曲があるのだけれど、
やはり去年(今年になって再演もあった)、いまのオデオン座の芸術監督でなにかと話題の
オリヴィエ・ピーという人が、昼過ぎに始めて夜中までというほとんど歌舞伎の通し狂言一挙上演みたいなことをやって、これがおそろしく面白くもまた美しかったらしい。

というわけで、『パルタージュ・ド・ミディ』を見たらこれが素晴らしかった。
面白かったというだけではなくて、きわめてレベルの高いパフォーマンスを目の当たりにした時の
熱い高揚感・・・っていうんでしょうか・・・

マリナ・ハンズはもう「コメディー・フランセーズ」の団員ではないのですが、
マリニー座は民間の劇場なので、それで、逆に、2007年の「コメディー・フランセーズ」の
新演出初演時のメンバーがそっくりそろうことができたということでなのでしょう。

配役は
メザ役がエリック・ルフ
ド・シーズ役がクリスチャン・ゴノン
アマルリック役がエルヴェ・ピエール
で、この3人は「コメディー・フランセーズ」のメンバー。

これにマリナ・ハンズです。


舞台は、写真でわかるように(・・・って、ちょっとビミョーですが)、非常にシンプルなつくりです。
第1幕は南の海上を進む客船の上。甲板から斜めに伸びるロープが象徴的な舞台装置。

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マリヴォー『奴隷の島』2 [マリヴォー]

SANY0073_edited-1.jpg10月21日から、王子駅のすぐ近く、王子スタジオ1というところで、マリヴォーの『奴隷の島』が上演されます。

「時間堂」の黒澤世莉さんが、僕の訳した『奴隷の島』に興味を持ってくれて、
「スモールワールズエンド」(「小さな世界の果て」という意味なのかな?)という公演の中で上演してもらえることになったのです。

「スモールワールズエンド」は、『奴隷の島』のほかに、
岸田國士の『かんしゃく玉』
チェーホフの『熊』
ハロルド・ピンターの『工場でのもめごと』
アゴタ・クリストフの『星々を恐れよ』
という、比較的短いお芝居からものすごく短いお芝居まで、
全部で5つの作品を集めて上演するという面白い公演です。

短い芝居ですが、全部集まると3時間ぐらいにはなるのかな、
途中2回ほど休憩をはさんで、まあ4時間がかり?

日によって、上演順が逆転します。
『奴隷の島』は最初か最後になるみたいなので、これだけはぜひ見に来てください。
で、見に来たら、ほかの芝居もぜひ見て帰ってください。

「練習しているところ見学したいのですけど」と、黒澤さんに言ったら、
「ああ、いいですよ」と言ってくれたので、
昨日、練習場の王子スタジオ1(公演会場と同じ)に見に行ってきました。

写真は、その王子スタジオ。ご覧のようにガラス張りで外から練習風景が見えます。
練習中もいろんな人が集まってきて、ガラスの外から中をのぞきます。
立ち止まったまま動かなくなる人もいます。
お芝居をつくっていくプロセスそれ自体が、すでに芝居になっているんだ・・・
とても面白いと思いました。

僕は、ガラスの中に入れてもらって、練習を見物してきました。
SANY0075_edited-1.jpg
マリヴォーの翻訳をはじめて以来、芝居が実際にどんなふうに出来上がっていくのかをぜひ見てみたいと思っていました。
翻訳するときは、言葉のうちに常に身体を感じようとしています。
フランス語を日本語に移すのではなく、フランス語のうちにある身体を、
そっくりそのまま日本語のうちに再現したい・・・
まあ、たとえば、そんなことを考えながら訳しています。

でも、僕の訳した言葉(身体)たちが、実際の役者さんたちの、
実際の身体から発せられているのを見ると、それは本当に大きな感動です。



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『青木さん家の奥さん』 [見た芝居]

SANY0070_edited-1.jpg昨日、駒場の「アゴラ劇場」で『青木さん家の奥さん』という芝居を見てきました。
平田オリザ演出、劇団「青年団」の公演です。
(写真は「こまばアゴラ劇場」。ちょっとピンぼけ。)

平田オリザという人は劇作家なので、基本的には自作の演出をします。
ただし、今回は、大阪の「南河内万歳一座」という劇団の出し物で、
その主宰である内藤裕敬という人の戯曲を平田風に演出して見せるという企画です。

これは、企画としては、実は、もう少し大きな企画の一部で、
平田オリザの演出で「青年団」が内藤裕敬の戯曲を演じ、
内藤裕敬の演出で「南河内万歳一座」が平田オリザの戯曲を演じる、
これを大阪と東京でいっぺんにやる、というのがその企画の全体であったようです。
大阪公演は「精華小劇場」というところ、東京公演が「こまばアゴラ劇場」です。

「南河内万歳一座」がやったのは、『S高原から』という戯曲で、
これは見そこないました。(平田自身の『S高原から』は何度か見ていますけど。)

僕は、日本の演劇事情、演劇シーンというものにあまり詳しくはないので、
というか、ほとんどよく知らないので、
「南河内万歳一座」の芝居は見たことがなく、いえ、名前も知りませんでした(すいません)。
いまは、「南河内万歳一座」の『青木さん家の奥さん』をぜひ見てみたいと切望しています。

企画ということでいえば、この企画が成功するしない以前に、
この企画を実現するということがかなり意味深いものである・・・らしい・・・
ということを、日本の演劇事情をよく知らない人間なりに、感じとることはできました。

僕はいま、18世紀フランス古典喜劇を翻訳して、これを日本の普通の領域というか、
日常レベルというか、そういうところに広めようと考えている。
で、実際の芝居作りのことについても知らなければならないと思い、ワークショップに参加したり、
演劇をやっている人たちの話を聞いたりします。

その時の僕の基本的な「問い」みたいなものがあって、それは、

1) 例えばフランスで芝居を見に行くと、若い人、若くない人、家族連れ、仲間同士、
カップル、ひとり者、僕のような外人、エトセトラ、エトセトラ・・・とにかくいろんな人が
一つの劇場に集まってくる。日本ではなぜ、ある種の年齢層とか、ある種の人々しか
劇場の客席にいないのか?

2) 日本の若い人たちの芝居は、なぜ新作オリジナル中心なのか?
どうして、スタンダード・ナンバーのような戯曲群(たとえば「フランスの古典」とか)をフレッシュな新演出で
舞台にかける、というようなことがあまり行われないのか?というか、ほとんどないのか?

で、いろいろ話を聞いたりして、まあ、まだよくはわかりませんが、これはどうも、
日本のいわゆる「小劇場」的な演劇の在り方、演劇の歴史というほどの長い歴史ではないんだけれども、
そういう「歴史」と関係があるらしい。

ひとつの劇団が生まれ、それぞれの演劇スタイルというもの作り上げようとする。
劇団がその一生を終えると、その作り上げられた演劇スタイルも一緒に消滅する。
劇団はそれぞれ小宇宙のように閉じて、彼らの演劇もそれぞれが小宇宙のように閉じている。
たがいに交流もなく、伝えられることもなく、残されることもなく受け継がれることもない。
劇団の命は一般的にそう長くない。
観客は、そういう小宇宙を好んでやってくる、いわゆるコアな客によって構成されるので、
多様なものとはなりにくい・・・

すごく、すごく図式的に言うと、まあ、こういうようなことかなと・・・

もちろんこれが、いま変わりつつあるんじゃないの、
そういう変革の流れが、今回の「平田/青年団vs内藤/南河内万歳一座」企画に
具体化されているんじゃないの・・・と、そういう意味で、
この企画の実現がかなり意味深いに違いないと思ったわけです。

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ワイル/ブレヒト『七つの大罪』 [オペラ]

IMG_0135_edited-1.jpg昨日は演劇と関係のない話を書いてしまったので、今日は演劇関連のお話。

9月にフランスに行く機会があり、パリのシャンゼリゼ劇場(写真)でクルト・ワイルとブレヒトのオペラ
『七つの大罪』を見てきました。

正確には『マハゴニー・ソングシュピール』と『七つの大罪』の2本立て。
『マハゴニー・ソングシュピール』は1927年、ワイルとブレヒトの初のコラボレーション作品。
『七つの大罪』は彼らの最後のコラボ。1933年に、まさにこのシャンゼリゼ劇場で初演されたものです。

『マハゴニー・ソングシュピール』は後の『都市マハゴニーの繁栄と衰亡』のベースとなるもので、
6つの歌から構成されています。
英語で歌われる2曲「アラバマ・ソング」と「ベナレス・ソング」が有名(「電話はどこ?」)。
金さえあれば思うままに欲望を満たすことができるというアメリカ西部の町マハゴニー、
その虚構都市を舞台に6人の登場人物が繰り広げる幸福と破滅。

『七つの大罪』はアメリカ南部の田舎町から出てきた若い娘アンの物語。
一人のアンが、アンとアンの分身に分かれ、アン1が歌い、アン2が踊るというオペラ・バレエ。
アンは、ニューヨーク、シカゴ、フィラデルフィア・・・都市を転々としながら、せっせと田舎に仕送りをし、
その金で家族の家が少しずつ建てられていくという、思いっきり21世紀現代世界の縮図のようなお話。

「資本主義」に蝕まれていくというのか、家族に蝕まれていくというのか、あるいは自分自身を蝕んでいく
アンの若く病んだ人生が、「怠惰」「傲慢」「貪欲」といった七つの大罪+プロローグとエピローグの
9つの場面で展開されます。

シャンゼリゼ劇場は、モンテーニュ通りという、シャネルやディオールなど高級ブティックが立ち並ぶ
おしゃれな通りにあります。ブレヒト的テーマは観客の気持ちを十分に重くしているはずですが、
舞台はむしろとてもスタイリッシュな感じ。

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