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『ラグジュアリー』あるいは演劇と衣装について [見た展覧会]

申しわけありません、
このブログに足を運んでくださる皆さま、
更新がぜんぜんできていません。

いま、ピエール・ロチの『マダム・クリザンテーム』について、ひとつ論文を書かなくてはならず、それにかかりきり状態・・・というか、いっぱいいっぱいでございます。

なのですが、
昨年の暮れに、東京都現代美術館で開催中の
『ラグジュアリー:ファッションの欲望』展を見に行ってきて、
これがたいへんに面白く、ぜひお勧めしたい。
で、この展覧会が1月の17日まで・・・

というわけで、とり急ぎ、展覧会のご紹介。

展覧会自体は演劇と直接関係はないのですけれど、
この展覧会場という場が、ものすごく演劇的な空間であるのと、
さらに、演劇と衣装の問題についてもいろいろと考えさせてくれる・・・

展覧会が面白い・・・だけではなく、
見に来てる人のファッションを見ているのがまず面白い。
単にオシャレとかそういうのではない。
創造行為として衣服を身にまとう人たちがいるっていうのはすばらしいと思う。
そういう彼女たち、彼らが、美しい衣装の間を
歩き、立ちどまり、歩き、立ちどまり、そして言葉を交わす・・・
これは演劇として文句なしに面白い・・・

さて、展覧会のタイトルは、女性誌の「贅沢おしゃれ特集」みたいな、
なんかそういうレベルの響きがするんですが、
展覧会そのものはなかなかに充実しています。

今日的視点から、
モードにおける「ラグジュアリー」とはなんだろう、とあらためて考えてみる。
「ラグジュアリー」という言葉をめぐって、
モードというものをとらえなおしてみる・・・という企画展。

18世紀から現代までのヨーロッパの上流階級のファッション、
オートクチュールのファッション、
コンテンポラリーアートとしてのファッション・・・が展示されています。
若者文化とか、そういうレベルでのファッションではなく、ラグジュアリー・・・

そこに、川久保玲をめぐる企画展が合流し、組み込まれている(この部分だけは入場無料)。
この企画展は、さらにふたつの企画に分かれていて、

ひとつは、
妹島和世(建築家)に川久保玲の衣装の展示をゆだねた部分。
技術革新が新しい素材を生み出し、その結果、建築とファッションはどんどん近づいている・・・というのが2007年に新国立美術館で開催された「スキン+ボーンズ」展のアイデアだったと思うんだけど、そういう流れなんかをきっと踏まえて(たぶん)、身にまとう衣服をより大きな空間の中に展開する。
身体を軸にファッションをいわば二重に三重に重ねながら、身体を建築空間につなげていく・・・

もうひとつは、
1983年の川久保玲のコレクションを中心に、マネキンに着せた状態の服と、
その同じ服を二次元的に広げて写真に撮り拡大した、その写真を並べて展示してある部分。
川久保玲の複雑な形の服が、日本のキモノのように二次元的に広げられるということが面白いのと(二次元的に広がらないものもある)、
そういうふうに写真に撮ると、もうどうやって着るのか皆目見当がつかないものになるということも面白い。
これが入場無料ということは、
この部分を見に行くだけでも、遠いところをはるばる出かけて行く価値がある・・・

展覧会全体に話をもどして・・・

この展覧会の英語の題名は
「ファッションにおける『ラグジュアリー』の再考」みたいな意味で、
この企画展のコンセプトというか、
コンセプトの方向性をちゃんと示してくれています。
なのに、日本語タイトルが、なぜか意味不明・・・
美術館の「入場者数ノルマ」とか「費用対効果」的な議論とか、そういうことでこういうタイトルになってしまうんでしょうか?・・・それはなにか悲しい・・・

この展覧会で最も強く感じることは、展示された衣服の貴重さ。
もちろん「ラグジュアリー」なんだけど、そのスケールが圧倒的・・・
高価という意味でも貴重なんだけれど、それ以上に時間。
手間ひまというのか、とにかく時間がかる。
作るのにもたいへんな時間がかかり、
着るのにもたいへんな時間がかかる・・・

そして、
こういう「ラグジュアリー」をすぐそばで実感する、体感する、ことは
演劇的にとても重要であるような気がします。
もちろん実際に芝居をやるときには、衣装に予算をかける余裕はないし、
またかける必要もないと思う。
けれども、例えばこの人物はキャラクター的に金と時間のかかる衣装を身にまとっているのかいないのか、
は芝居づくりの上で重要なファクターになると思う。

マリヴォーの『奴隷の島』でも、他の芝居でも、主人と召使が服を取り替えるという場面がよくあります。
女が男の衣装を着る(男に変装する)という芝居もある(『愛の勝利』とか、『贋の侍女』とか)。
モーツアルトの『フィガロの結婚』(ボーマルシェ原作)でも、主人と召使が服を取り替える。
で、そういうとき、アイデンティティの問題とか、権力の問題とか、ジェンダーの問題とか、
そういうことを頭で考えることはできるんだけど、
そうじゃなくて、そのとき登場人物たちが取り替えてるのは
実はこういう「ラグジュアリー」な衣服なんだと納得することが必要で、
そういうふうに納得すると、
衣装の問題が演劇的に役者の身体に組み込めるんじゃないかと思う・・・

18世紀のドレスも、19世紀のドレスも、
それから川久保玲のドレスもそうなんだけど、
「ラグジュアリー」なドレスは、
着たり脱いだりするのにものすごく時間がかかるのだと実感して、はじめて、
ストレーレルが『奴隷の島』の若者たちに舞台上で服を着替えさせた意味もわかるような気がします。
衣装を取り替えるということは単なる記号ではないという・・・

あと、1908年にイタリアで作られた白い木綿糸のアイリッシュ・クロッシェ・レースのワンピースと
カール・ラガーフェルド(シャネル)が1997年に作った白の綿糸によるコード刺繍ドレス、
この二つが並んでいるところは圧巻です。
いつまで見ていても見あきない。
やはり、ストレーレルの白い『桜の園』を思い出します。
ラネーフスカヤ夫人はやっぱりこういう服を着てるのだよ。
桜の園をひとつつぶすだけの「ラグジュアリー」のスケールってこういうものなんだよねって思う・・・

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