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ポール・クローデル『パルタージュ・ド・ミディ』 [見た芝居]

ワイル/ブレヒトのオペラ『七つの大罪』につづいて、この夏に見てきた芝居のレポートです

パリの演劇シーズンは9月下旬あたりから本格的に始まります。それにはビミョーに間に合わずの帰国・・・ただ、マリニー座で、一足早く、ポール・クローデルの『パルタージュ・ド・ミディ』(『真昼の分嶺』)がかかって、これを見てくることができました。
IMG_0120_edited-1.jpg写真はマリニー座入り口横の垂れ幕。『パルタージュ・ド・ミディ』の舞台写真が、ちょっと見にくいけれど・・・第1幕の舞台です。右端の赤いドレスの女性がマリナ・ハンズ。

2007年のコメディー・フランセーズのプログラムの再演。映画『レディ・チャタレー』でタイトル・ロールを演じたマリナ・ハンズがイゼという登場人物の役で出ています(女性の登場人物はこの一人だけ)。そして、このマリナ・ハンズがすごかった・・・(ちなみに、上演台本は1905年バージョンとプログラムにあります。)

個人的には、ポール・クローデルにはほとんど興味がなく、『パルタージュ・ド・ミディ』もテクストは読むには呼んだのだけれど、なんか「カト」(フランス語で「カトリック」の悪口を言うときの言い方)で抹香くさいし、台詞も、台詞だかお経だかわからんし、みたいなことで・・・
(お経じゃなくて詩ですか?すいません。)

じゃあ、なんでおまえ見に行ったんだという話なんですが、
近年クローデルの芝居の新演出がよくかかって、見た人が、
面白い、面白い、えっ、クローデル面白いですよ、と言うので、気になってました。

2008年の『スワッピング』という芝居が、『パルタージュ』と同じ演出家イヴ・ボネーヌで面白かったらしいし、それから『サテンの靴』という長い長いクローデルの戯曲があるのだけれど、
やはり去年(今年になって再演もあった)、いまのオデオン座の芸術監督でなにかと話題の
オリヴィエ・ピーという人が、昼過ぎに始めて夜中までというほとんど歌舞伎の通し狂言一挙上演みたいなことをやって、これがおそろしく面白くもまた美しかったらしい。

というわけで、『パルタージュ・ド・ミディ』を見たらこれが素晴らしかった。
面白かったというだけではなくて、きわめてレベルの高いパフォーマンスを目の当たりにした時の
熱い高揚感・・・っていうんでしょうか・・・

マリナ・ハンズはもう「コメディー・フランセーズ」の団員ではないのですが、
マリニー座は民間の劇場なので、それで、逆に、2007年の「コメディー・フランセーズ」の
新演出初演時のメンバーがそっくりそろうことができたということでなのでしょう。

配役は
メザ役がエリック・ルフ
ド・シーズ役がクリスチャン・ゴノン
アマルリック役がエルヴェ・ピエール
で、この3人は「コメディー・フランセーズ」のメンバー。

これにマリナ・ハンズです。


舞台は、写真でわかるように(・・・って、ちょっとビミョーですが)、非常にシンプルなつくりです。
第1幕は南の海上を進む客船の上。甲板から斜めに伸びるロープが象徴的な舞台装置。
IMG_0116_edited-1.jpg
「ミディ」は真昼。それは赤道上の真昼であり、4人の登場人物たちの人生の真昼。
インド洋の上で、彼らはいま、自分たちが「真昼の分嶺」を越えたのだという事実を、
痛いほどつきつけられている。

イゼ(マリナ・ハンズ)はド・シーズの妻。平凡な主婦(妻そして母)の役を演じている。
メザとアマルリックはその「平凡な女」のかつての愛人。
その関係は、必ずしも終わっていない、というか、ぜんぜん終わっていない。

このカップルと2人の男が、中国へ向かう船の上で偶然に出会うところから芝居ははじまります。
人生の「袋小路」に入り込んだ者たちが、中国という「新天地」に託すのは・・・
夢というよりは、夢の喪失・・・
時代は20世紀の初め。中国は20世紀初めの中国。姦通もまた、20世紀初めの姦通。

基本的に精神的レベルで劇が展開するこの芝居の中で、いわゆるアクションといえば、
この4角関係の順列組み合わせ的な展開ということになるでしょうか・・・

第1幕は、真昼から夕方、美しい夕陽の見える頃まで。
演出は、そのまそのまばゆい世界を、夜の世界に置き換えます。

ちょっと話が飛びますが、
2001年のミュンヘン・オペラ(バイエルン国立歌劇場)日本公演で、
モーツアルトの『フィガロの結婚』がかかりました。
演出はディーター・ドルン。彼はモーツアルトの夜(第4幕)を白で表しました。

舞台は一面純白の世界。夜は闇のせいで見えないのではなく、
その白があまりにまぶしいために見えないのだという・・・
僕の中では、いまだに『フィガロの結婚』の中で最高の演出です。

イヴ・ボネーヌの演出はちょうどその逆。
インド洋上を支配する明るさとは、真昼のまぶしさとは、闇に他ならない・・・

第2幕は中国の海辺。墓場と森。
第3幕も中国。暴動の真っただ中。彼ら「外人」は早く逃げなければ殺されるという状況。

動きの少ない台詞劇ですが、ぜんぜん退屈しない。いちいち説得力があるというか、
なんか「リアル」な手ごたえがあるというか・・・

クローデルはほとんど見ていないので、細かいこととか、比較とかは言えませんが(すいません)、
クローデル的世界は一時コインロッカーにでも入れておいて、
芝居をとにかく楽しみましょうということで、それでもうぜんぜん楽しめる芝居です。

クローデル的信仰も神も、クローデル的愛も、
クローデルが2時間かけて舞台に展開して見せようとするクローデル的世界の設計図も、
はっきり言って関係ない。

イゼ(マリナ・ハンズ)という女性像はと言えば、男に依存してしか生きられなくて、
その一方で、男をむちゃくちゃに振り回すという、
ファムファタルの遠い残響を響かせている、やっぱり20世紀初めの女性像のバリエーション。
でもそれも関係ない。

21世紀だっていろんな人がいるわけです。
いろんな神がいて、その神を信仰しているいろんな人々がいて、
いろんな愛があって、
20世紀的人物も19世紀的人物もいろいろいる。
そういう人々が、それぞれに、それぞれの身体的重みを持って舞台の上に出現する。

やっぱり演技っていうんですか?
演劇ってそれだけでもないわけですけど。
演技っていうのか、パフォーマンス・スキルっていうのか、
それ大事だよな・・・って思ってしまう。

マリナ・ハンズ見てると、やっぱり、女優ってこういうもんなんだよね、って思ってしまう。
っていうか、彼女がそう思わせてしまう。


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