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ピーター・ブルック 『ザ・スーツ』 [見た芝居]

11月8日にパルコ劇場でピーター・ブルックの『ザ・スーツ』というお芝居を見てきました。
とても面白かったので、その遅ればせレポート。

『ザ・スーツ』は南アフリカのお話。
原作は、キャン・センバという黒人作家が1950年代に書いた短編小説です。

1950年代の南アフリカと言えば、アパルトヘイトの時代。
独裁政権の弾圧政策は黒人たち全体にとって過酷なものだったわけですが、
黒人作家たちは、その中で、ついにすべての著作の出版を禁じられることになります。
キャン・センバの小説も発禁処分になりました。
“語る”ことを禁じられた作家キャン・センバは祖国を捨てて亡命しますが、
失意と貧困のうちにアルコール依存症となり、亡命先でなくなります。
キャン・センバの幻の小説が人々の目に耳に届くには
長い長い歳月が必要でした・・・

ピーター・ブルックの『ザ・スーツ』はこの小説をもとにつくられた芝居です。
ピーター・ブルックの・・・というよりは、
ピーター・ブルックのチームの『ザ・スーツ』というべきなのでしょうか。
パンフレットには、演出・翻案・音楽というひとくくりで、
ピーター・ブルック、
マリー=エレーヌ・エティエンヌ、
フランク・クラウクチェックという3つの名前が挙がっています。

3番目のフランク・クラウクチェックはおもに音楽の担当のようですが、
この芝居では、ミュージシャンたちは俳優と同じように舞台に上がり、
俳優と同じように“プレイ”しますから、
劇のコンセプトとして、演出と翻案と音楽は同じひとつのレベルにあり、
3人のコラボレーションが融合的にひとつの劇をつくりあげている、
ということなのでしょう・・・

もともとが短編小説だということもあって、
物語は“語り手”による語りから始まります。
俳優が舞台上に現れて語り手を演じます。

むかし、南アフリカはヨハネスブルグの近郊にソフィアタウンという街がありました。
ソフィアタウンは黒人居住地区。そこではいつも雨が降っていて、
人々はボール紙でできたような粗末な小屋に住んでいました・・・

ピーター・ブルックの『ザ・スーツ』は、ある意味、とてもシェークスピア的な芝居です。
語り手は、そうですね、『冬物語』の“時”のような役割・・・
劇の節目に現れて物語を進めます。
語り手を演じる俳優は、そのままの格好で他の登場人物も演じますから、
観客は、想像力の翼を広げて、舞台という“なにもない空間”の上に
異次元の演劇空間を想像し、また創造しなければならない。
パフォーマンスの質の高さが、そういう想像/創造を可能にしている・・・

舞台上にあるのは、いろんな色に塗られた木の椅子が7つ、8つ、
スチールパイプ製の洋服掛けが2つ・・・
椅子を2つ正面向きに並べ、フィレモン(夫)とマチルダ(妻)が並んで座り、
ブランケットを掛けて目を閉じれば、それはベッドになります。
フィレモンとマフィケラ(フィレモンの友人)が洋服掛けのスチールパイプの下に並び、
片手を伸ばしてぶら下がるような身振りをすると、そこは乗合バスの中・・・
そういう椅子とか洋服掛けとかが、
ピーター・ブルックの例の“カーペット”の上に置かれるわけです。
必要に応じて、配置が変わっていろんなものになる・・・

こういう芝居っていいですねえ。私はもうほんとうに大好きです。

シェークスピアの『リア王』っていう芝居があるじゃないですか。
あれで、
盲目になったグロスターがエドガーに手を引かれて、目もくらむような白亜の絶壁に立ち、
そこから身を投げる・・・っていう場面がある。
実際には絶壁でもなんでもない平坦な野原なのだけど、シェークスピアの舞台では、
“現実”の平坦な野原がそもそも観客の想像力によってしか生まれないものだから、観客は、
平坦な野原じゃなくて目もくらむ絶壁の方を想像してしまうことも“簡単に”できるわけです。
・・・
話についてきてもらえてるかな?
・・・
それで、『ザ・スーツ』にも、そういう場面があるんです。
妻のマチルダが愛する人の残していったスーツを愛情をこめて抱きしめるところ・・・
タイトルの『ザ・スーツ』はこのスーツからきてるんですけど・・・
マチルダが愛する人って、夫のフィレモンじゃないんですよ。そこがこの物語の複雑なところで、
KKというべつな男です。芝居には登場しません。
で、マチルダが軽く横向きになって、ハンガーにかかった状態のスーツを
自分の右横に柔らかく抱きます。
つまり、スーツは観客からは横向き。マチルダの方を向いている。
マチルダは左手でスーツの右肩(観客側の肩)を触っている。
それで、ここがポイントなんですけど、
マチルダは、右手を上着の中へ入れスーツの右袖・・・右袖っていうのは、観客側ね・・・
その右袖に通し、その手で自分自身の肩から首を愛撫します。そうすると、
スーツがマチルダを“ほんとうに”愛撫しているように見えるんです。これすごいです。
それでですね、このスーツが、つまり、さっきのグロスターの白亜の絶壁と同じなのね。
“現実”には、スーツはスーツにしか過ぎないんだけど、観客の想像力は、
椅子をベッドだと思ったように、そのスーツをKKだと思うことができる。
完全にマチルダの幻想というか“夢”を共有できるんです。
・・・
・・・
話についてきてもらえてるかな?
・・・
とにかく、ピーター・ブルックの『ザ・スーツ』はそういうお芝居です。
夢のような“演劇体験”を理屈抜きで体験させてくれる。

もちろん、ストーリーも重要・・・

1950年代の南アフリカの黒人居住区に住む若いカップルの話・・・
えぇっと、物語的には、アパルトヘイトを直接テーマにしたものではないです。
政治的とか思想的とかいうものではない。
男女の愛がテーマです。愛と裏切りと憎しみと許しと・・・
けれども、夫フィレモンと妻マチルダの関係を・・・そうですねえ・・・
夫と妻の、男と女の“権力関係”として見てみると、そこには
当時の独裁権力の圧政と暴力と虐待が反映しているとも感じられるし、
また、語ることを禁じられた黒人作家の姿が
歌うことを禁じられたナイチンゲール(マチルダ)の悲しみに重なりもします。

ソフィアタウンに暮らす黒人青年フィレモンにとって、黒人の置かれた悲惨な状況はあまり苦にならないかのようにさえ見えます。彼には魅力的な妻マチルダがいたから。愛する妻はフィレモンにとってプリンセスのような存在であり、実際彼は妻をプリンセスのようにあつかっていた・・・

しかし、マチルダにとって、プリンセスであることは“囚われの女”であることにほかならなかった。彼女の夢は歌を歌うこと。フィレモンのプリンセスであることは、歌手としてのキャリアをあきらめること。籠の鳥でしかないナイチンゲールは、自分の自由を奪っているフィレモンをほんとうには愛することができず、夫が仕事に出ている昼の間、夫のいない家でKKとの逢瀬を重ねた・・・

ある日、妻の“浮気”を知ったフィレモンが突然家に帰ってきます。驚いたKKは慌てて逃げていく。
あとにはハンガーに掛けられたままのスーツが一着・・・

自分を裏切った妻に対し、フィレモンはおごそかに罰を課すのですが、
その罰の唐突さというか異様さというか・・・が、裏切られた夫の狂気を思わせて、
このありふれたカップルのありふれたエピソードを一気に神話の高みへと引き上げます。

お客様じゃないか、とフィレモンは言います。手厚くもてなしなさい。決して落ち度のないように。なにか間違いがあったら、私はあなたを殺しますよ。

裏切られた夫が妻に課す滑稽で恐ろしい罰。
マチルダは、これからずうっと、愛人のスーツを客人としてもてなさなければならない。

愛が人間の永遠のテーマなら、裏切りと憎しみもまた人間の永遠のテーマ・・・

私がすぐに思い浮かべたのは『千一夜物語』・・・
妻に裏切られたシャハリヤール王は、妻を殺すだけでは満足しなかった。
その絶対権力を背景に、すべての女への復讐を誓うのです。
王は、毎日新しい妻をめとり、婚礼の夜に新妻を処刑します。
そうすれば妻は決して夫を裏切ることはない・・・
ひとりの女に裏切られたために、女というものすべてを憎む・・・
これはもう病気。でも、病気ならば治すことができるはず・・・
というわけで、気が遠くなるほどの殺戮のあとに、
新たにシャハリヤールの妻となったシャハラザードは
千と一夜の間、物語を語りつづけ、一日また一日と処刑を免れ、
3年がかりでついにシャハリヤール王の“病”を癒すのです。

黒人居住地区ソフィアタウンに暮らす黒人青年フィレモンが、自分の妻マチルダに対してはシャハリヤール王のごとき絶対権力を“享受”しているのが興味深い。独裁権力に虐げられている黒人カップルが、そのカップルの中側でミクロ的に同じ権力構造を繰り返している・・・

マチルダをプリンセスとしてあつかっていたフィレモンはすでに病んでいたのかもしれません。
いずれにせよ、彼はある時自分の病に気づきます。
いつまでその奇妙な罰をつづけるつもりなのか、と友人のマフィケラはフィレモンに言います。
彼女を許し、すべてを水に流さなければいけない。forgive and forget・・・
狂気から救われたフィレモンは、妻を許しもう一度やり直そうと家に急ぎますが、
マチルダはすでに死んでいました。罰のあまりの過酷さに耐えかねて・・・
許しの言葉が語られることはない・・・
フィレモンもまた、語ることを禁じられた者のひとり・・・

ハッピー・エンディングではありませんが、その代りここには古典悲劇の崇高さがある・・・
と言ったら言い過ぎでしょうか?フィレモンとマチルダは悲劇の英雄たちのように、
その運命を受け入れなければならないのだ、と・・・
そう言えば、マチルダは、お芝居の中で「カタルシス」という言葉を口にしていましたが、
あれは・・・

マチルダは、夫の“圧政”に苦しむ日々の中で、ポジティブに生きなきゃ・・・と思い、
町の婦人クラブに通いはじめます。そこで彼女はいろんなことを学んできます。
一夫多妻制の問題とか、セクシャルハラスメントの問題とか・・・
このあたりは「女子教育の権利」みたいなテーマとつながりますけど・・・
で、もちろん、学んできたことの中には文学的なこともあって、
「カタルシス」もそのひとつ・・・「カタルシス」という言葉は、
一種のキーワードとしてそこに挿入されているのかもしれないです・・・

ハッピー・エンディングではないですが、『ザ・スーツ』は楽しいお芝居です。
ちょっとミュージカル仕立て的なところもあって楽しいです。
マチルダは、歌手になるのが夢だったくらいですから、お芝居の中でいろいろと歌を歌います。
芝居だけではなく、歌もすばらしいパフォーマンスなんです。
例えば「奇妙な果実」・・・ビリー・ホリデイで有名な歌ですよね。
これはアメリカの黒人差別の歌ですけど・・・
マチルダの歌の中で、黒人差別と女性差別という二つの問題が微妙に重なります。
あと、アフリカの歌も・・・タンザニアの歌とか・・・
アフリカの言葉で歌われてすばらしいかったです。

このお芝居の楽しさは、もうひとつ、観客がお芝居に参加すること。
特にパーティーのシーンがそうなんですけど・・・
役者たちが客席に下りてきて、何人かを舞台に上げます。
即興の招待客・・・食べ物がいいですか、それとも飲み物がいい?って聞いて、お客がそれに答える・・・
あと、パーティーには婦人会の人たちも招待されていて、
マチルダがその人たちに感謝の言葉を述べます。
私にいろんなことを教えてくれてありがとう、って・・・
で、その婦人会の人たちは、実は舞台上だけじゃなくて、客席の最前列にもいたんです。
つまり、最前列の客たちは、これも即興で、マチルダの“先生”にされてお礼を言われる。
私はたまたま最前列に座っていたので、マチルダにお礼を言われました。
確か私はマチルダに編み物を教えたのだったか・・・

というわけで、1時間15分のお芝居。珠玉の小品です。








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クロディーヌ・ガレア 『ほとりで』 [見た芝居]

去年の暮れに「紛争地域から生まれた演劇4」というリーディング公演を見ました。

「紛争地域から生まれた演劇」は
国際演劇協会というところがやっている演劇シリーズで、
以前、このブログで紹介した『ヴェールを纏った女たち』(2011/8/29)が
シリーズ「その2」でした。今回は「その4」。

世界の紛争地域、あるいはその”周辺”で、
いま生まれているコンテンポラリーな演劇・・・
それをすぐに日本語に翻訳し、リーディングという形式で
日本の観客にアクチュアルに紹介する。

リーディング形式でやるという選択も、“新しく”て面白いし、
「紛争地域・・・」という、ひとつ”違う”視点で
いろんな人たちがコラボレーションするのも面白い。

それで、シリーズ「その4」なんですけど、
ぜんぶで3つのリーディング公演がありました。
その中の『ほとりで』という公演がすばらしかったのです。
ブログで紹介しよう、しようと思いつつ、

光陰矢の如し・・・

大変に時期遅れの公演レポート。
2012年12月23日、東京芸術劇場アトリエイーストでの公演です。


『ほとりで』(Au bord) は、クロディーヌ・ガレア(Claudine Galea)というフランスの作家の作品・・・フランスで活動するフランス語作家・・・チラシによると、彼女は、アルジェリア人の父とモロッコ人の母の間にマルタ島で生まれフランスで成長した、そうです。

イラクのアブグレイブ収容所で撮られた有名な捕虜虐待の写真・・・
裸のイラク人男性捕虜につけられた首輪と、
首輪から伸びる紐と、
紐の端を持つアメリカ軍女性兵士と、
その少女のような面差し・・・

『ほとりで』は、この一枚の写真をめぐって繰り広げられるモノローグ劇です。
主人公/語り手(唯一の登場人物)はフランスの女性・・・っていうか、
フランスに住んでる(たぶん)フランス語を母国語として話す女性・・・
バイリンガルの場合は両方とも“母国語”と呼ぶとして・・・

ダイレクトに「紛争地域から生まれた演劇」ではないんだけど、
“紛争地域から生まれたひとつのイメージ”をめぐる演劇・・・

センセーショナルな写真とともに捕虜虐待が発覚したのが2004年。
2005年に『ほとりで』のファースト・バージョンが書かれ、

ファースト・バージョンをベースに
リーディングや舞台パフォーマンスが繰り返され、
そこから、さまざまなリアクションが生まれ、
リアクションがまたリアクションを生み、
2010年に最終バージョンが本として出版されました。
2011年の「劇作大賞」というのを受賞しています。


虐待の写真があって、
そのイメージが言葉を呼び起こし、
主人公を否応なく“語り手”へと変えていく・・・

虐待のイメージ自体は、“イラク戦争”という、より大きなフレームの中に
位置づけられるべき場所を持っている。
政治的背景があり、歴史的なコンテクストがある。
“戦争”をめぐる議論があり、虐待をめぐる議論がある。
けれども、主人公をモノローグに駆り立てるのは、
そういう“左脳的”側面でのリアクションではなくて・・・

“右脳的”っていうんでもないんだけど、
なにか、こう、もっと“身体的”なリアクション・・・

女性兵士が他者(この場合男性)の身体に対して振るう暴力・・・
その暴力性が“同じく”女性である主人公の身体の中で共鳴しはじめる。
共鳴する自分の身体に耳を傾ける“語り手”は、
聞こえてくる振動のひとつひとつを言葉にして語り出す・・・

“わたし”の身体と“他者“の身体の関係のすべてが言葉になることを求め、
“わたし”は、自分の身体の中で起こっていることを、そこで、
“わたし”の前にいて“わたし”の言葉を聞いている
陪審員にも似た観客たちの前で、さらけ出さなければならない。
語ることによってしか生き延びることができないとでもいうかのように、
容赦もなく・・・

“わたし”の身体と“他者“の身体の関係のすべて・・・
それは、例えば、“わたし”の身体に宿る暴力性のこと。
虐待の加害者であり得ること。
それは、また、例えば、“わたし”のセクシャリティのこと。
“わたし”がレズビアンであること・・・
そして、“わたし”の父親のこと・・・

このモノローグ・ドラマでは、従って、語られる言葉はとても“身体的”なものです。
というか、そこでは、身体は、身体の動きではなく、
言葉のうちに言葉として具現します。
その意味では、リーディングという形式が、演劇的にも最良の選択かもしれない・・・


さあ、これを、佐藤康訳、深寅芥演出で、宮地成子という女優さんが演じました。
この宮地成子さんがすばらしい。
宮地さんひとりがすばらしい訳ではなくて、
もちろんコラボレーションがすばらしいんです。
アフター・トークによると、
翻訳者と演出家と女優さんが濃密なディスカッションを重ねながら
最終的な形をつくり上げた。
そういう制作プロセスのあり方もすばらしい。
けれど、“演劇って結局最終的なパフォーマンス次第”という意味では、
やはり宮地さんがすばらしい。

紛争地域・・・
私たちになじみのない地域からやってきたなじみのない演劇、演劇言語・・・
そういう未知の演劇を、私たちの知っているものに還元しようとせず、
未知のもののために、それにふさわしい新たな演劇言語を、真摯に、謙虚に模索する。
そういうコラボレーション/ディスカッションが、
宮地成子のパフォーマンスを感動的なものにいていた・・・

どう演じたらよいのかよくわからないんですけど・・・という、
いわば“左脳的”戸惑いの中で、
しかし、彼女は彼女の身体をその未知のテクストに向かって開きつづけることをやめない。
役者の身体がテクストの身体をしなやかに身に纏う・・・

リーディング公演ですが、視覚的にも、
シンプルで効果的な舞台演出がなされていました。
バックにスクリーンがあって、そこに問題の写真が映し出されます。
面白いのは、モノローグを3つのシーンに分け、
それぞれのシーンに舞台上の3つの“不連続”なセクションを割り当て、
役者はシーンの切れ目で“こちら”から“そちら”へ、
見えない仕切りを超えて移動します。
椅子とか机とか、ミニマルな小道具も用意されていて、
リーディングの基本ポーズも変わり、
3幕構成のミニチュア版が出来上がる・・・とてもいいです・・・

2日だけの公演で終わらせるのはつくづくもったいないと思いました。
たくさんの人たちに見てもらいたい。





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『アンダスタンダブル?』 at アトリエヘリコプター [見た芝居]

五反田のアトリエヘリコプターというところで
『アンダスタンダブル?』という芝居を観ました(9月28日の公演)。
面白かったのでそのレポート。


『アンダスタンダブル?』は日本の劇団「五反田団」とフランスの劇団「ASTROV」のコラボレーション。
日本語とフランス語と片言の英語による1時間10分のキュートなお芝居です。

五反田団は前田司郎という作家・演出家が主催する有名な劇団らしい・・・すいません、知りませんでした。『アンダスタンダブル?』見に行かない?と人に誘われるまで知りませんでした・・・

で、僕は知らなかったけれど、すでに有名な劇団で、ヨーロッパ公演などもしていて、その時に、
劇団「ASTROV」を主宰するジャン・ド・パンジュという演出家がこれを見て、
めちゃおもろいやん、と思ったのが、コラボの始まり。
前田司郎が台本をつくり、ジャン・ド・パンジュの演出で、
3人の日本人俳優と3人のフランス人俳優によって演じられました。


舞台の上に、こう、横に、長いベンチがあって、まず日本人3人が出てきて、左手に並んで腰かけます。左から女、女、男の順。次にフランス人が出てきて、右手にやはり3人並んで腰かけます。こちらは、右から、男、男、女の順。日本人側の男と、フランス人側の女が、中央寄りで、微妙な距離感を空けて隣り合っている。

芝居が始まり、日本人(男)がフランス人(女)に話しかけます。ハロー!とか・・・2つのグループは知り合いではなさそうです。ちょっとやり取りがあって、日本人はフランス語が話せない、フランス人は日本語が話せない、両者の唯一の共通言語は「片言の英語」だけ、ということがわかりますが、そこで日本人(男)がフランス人(女)に、唐突に「アイ・ラブ・ユー」と言います。

フランス人がびっくりして、なにゆうてんの。うちら、いま会ったばっかりやないの。お互いのことなんにも知らへんし、だいいち、会話とかぜんぜん成立してないし・・・(って、ここ、書いていて、なぜか大阪弁になってしまいました。どうしてですかね?「片言の英語」っていうところが、僕の片言の大阪弁とかぶって来るんでしょうか?でも、こんなことしてたら、大阪の人に怒られますよね。)

・・・ですが、ともかく、フランス人はそのようなことを言って、さあ、これから、愛とコミュニケーションをめぐる面白くも可笑しいイナターナショナルなお芝居が始まる・・・まあ、そんな感じ・・・


このお芝居、面白いところがいろいろとあるんですけれども、例えば・・・

舞台上には6人の俳優がいて、ああ、これは6人の登場人物がいるんだなと初めは思うんですが、いや、実は、登場人物は2人だけらしいぞ、ということがだんだんわかってきます。
日本人3人でひとりの日本人を演じている。フランス人3人でひとりのフランス人を演じている。
登場人物的には、日本人男子とフランス人女子の2人なのかなとも思えますが、結局のところはよくわからない。この“日本人男子”を構成するのは2人の女子とひとりの男子というわけで・・・

独り言とか、いわゆる“内省”とかの時は、3人がそれぞれの母国語で相談したりします。
登場人物同士の会話は片言の英語・・・

それぞれの登場人物の“メンバー”っていうのか、その3人の中では、ローテーション的に“主な担当者”が入れ替わります。こう、ツール・ド・フランスで先頭が時々入れ替わりながらレースが進む・・・あれみたいに“先頭”が替わりながら劇が進む。だから、日本人男子とフランス人女子の会話だったのが、いつのまにか日本人女子とフランス人男子の会話になっていたり、また男子同士だったり、女子同士だったり、興奮してくると、会議みたいに、3対3で対話が交差したりさえする・・・
つまり、2人の登場人物のセックスとかジェンダーとか、そういうのはいわゆる男/女的カテゴリーに固まってはいなくて、もっと自由な感じです。よくある「男と女の話」みたいなものではない、もっと自由な広がりを持っていて、それがこの芝居の大きな魅力。


日本人、フランス人っていう違いも、そんな、いわゆる“両国の文化の違い”的な方向には行かないから、それもいいです。

初めは、ちょっとパターン的に見えるんですけど・・・
唐突に「アイ・ラブ・ユー」って言う日本人は、例えば、情緒的とか、直感的とか・・・
それで、フランス人が、これに論理的に、まあ、デカルト的に(?)応じるみたいな・・・
フランス人が日本人の“理解不能”なメンタリティーをオリエンタルと評したりもする・・・

でも、そういうカルチャーショック的なものは『アンダスタンダブル?』のテーマではなくて、
日本人ってそういうとこあるよね、フランス人ってそうだよね、みたいなところは確かにあるんだけれど、でも、ポイントは、日本人とフランス人だと言語コミュニケーションとるのめっちゃむずかしくね?ってことで、日本人ってさぁ・・・とか、フランス人ってさぁ・・・みたいなのは、あまり視界に入ってこない。日本人とフランス人でなくてもいいくらい・・・
インターナショナルなコラボ演劇のはまりやすい“文化論”的な罠にはまっていないところが、
自由で、すがすがしいなあ、と僕は思いました。


あと、すごく面白いところは・・・
“2人”はデートするんですよね・・・映画に行ったり、美術館に行ったり・・・
映画は、“2人”の“共通言語”である英語の映画。さらに「台詞が少ない」ということで、戦争映画を見ることになる。それで・・・ここんとこ説明むずかしいんだけど・・・2人の俳優がいま日本人とフランス人をやっているとすると、まあ、とりあえず、あと4人、俳優が残っている計算になって、この4人が戦争映画をやります。戦闘機とか、銃撃戦とか、パラシュートとか、パラシュートが地上に降りると、地上での人間ドラマとか、ぜんぶやる。でたらめ英語でぜんぶやります。それだけでも面白いんだけど、さらに・・・

これは、そのあとの美術館の場面でも同じで、“2人”を演じていない4人が展示してある絵画を次々に描き出していく。十字架から降ろされたキリストと聖母マリアと聖ヨハネと、みたいに・・・

それで、これだけでも面白いんだけど、さらに、ここでは、俳優たちが目まぐるしく役を取り替えるので、それがまたスリリングで面白いんです。
役を取り替えるっていうのは、つまり・・・
映画とか絵画とかの役をやってる4人の誰かが、デートしている“2人”のところへ行って「替わってくれ」と要求すると、言われた役者は替わらないといけないらしく(このあたりはすごくインプロヴィゼーション的にやってる感じがします)、そうすると、いままでデートしていた役者が大急ぎで他の3人に合流して、戦争をやったり、絵をやったりします。衣装とか小道具とかはまったくないんです。身体を使ってみんなでやる。テアトル・ド・ラ・コンプリシテみたいな繊細さとは違うんですが、その即興的な勢いがすばらしい・・・


あとひとつだけ・・・
会場のアトリエヘリコプターがまたよかったです。
昔「○○製作所」だったところを、きれいに掃除して、椅子を段々に並べて小さな劇場にしました・・・みたいなキュートな劇場です。『アンダスタンダブル?』のすがすがしい若さにぴったりのスペースでした。

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ワジディ・ムアワッド作・演出 『頼むから静かに死んでくれ(リトラル)』 [見た芝居]

マシュー・ダンスターの『ここからは山がみえる』のレポートをしたので、
その勢いで、たぶんダンスターと同世代くらいのカナダの演出家・劇作家
ワジディ・ムアワッドの『頼むから静かに死んでくれ』のレポートをします。

「Shizuoka 春の芸術祭2010」というので見て、
だから、だいぶ前の話なんですけど、
感涙しました。
生きていくのっていろいろ大変・・・
でも、こういう芝居に出会えるんだよね・・・的な、
それくらいのテンションで、レポートするぞ!と思いつつ
そのままになっていた・・・

ワジディ・ムアワッドはカナダの人なんですけど、名前から想像できるように、
フツーのカナダの人ではありません・・・って、
カナダに行ったこともなく、
どういうのが「フツーのカナダ人」なのかもわからず、
「フツーのカナダ人」なんているのかどうかもわからず、
まあ、ちょっと、適当に言っていますが・・・

上演パンフによると、1968年レバノンのベイルート生まれで、
8歳のとき家族とともにフランスに亡命。その後、
滞在許可証の更新が拒否されてカナダのケベック州に移住した。それが1983年。
15歳くらい・・・というわけで、まあ、カナダ人といってもいろいろあります。
それから、ケベック州ですから、カナダといってもフランス語圏です。
それで、今回は日本語字幕付きフランス語上演。

『頼むから静かに死んでくれ』は日本語のタイトルで、原題は『リトラル (Littoral)』。
「リトラル」は「海と陸が接している地域」というような意味ですから、
日本語タイトルとは無関係です。
原題とぜんぜん違うタイトルをつけるのは、ちょっと映画みたいですが、
芝居でどうして映画みたいなことをしたのか、その理由はわかりません。
映画と同じ理由なんでしょうか・・・

『リトラル』は1999年のアヴィニョン演劇祭で上演されています。
上演パンフによると、その後に書かれた3編とともに『約束の血』4部作を構成し、
2009年のアヴィニョン演劇祭では『約束の血』4部作の第1部として再演された・・・ということです。

実は、今月中旬に、パリの国立シャイヨ劇場で、『リトラル』を含む
ワジディ・ムアワッドの“通し狂言”一挙上演があるんですけど(上演時間11時間30)、
その予告プログラムによると、『リトラル』『火』『森』の3部仕立てになっているので、
その後また少し構成上の修正が入ったのかもしれません。
一応『火』『森』を観てくるつもりなので、またレポートします。
(「火」とか「森」は、内容がわからないので適当に訳してます。)


それで、『リトラル』に話を戻して・・・

『リトラル』の主人公ウィルフリッドは青年です。
ヤングアダルトとかではなくて、青年・・・
父と母をめぐる物語でもあるし、
イニシエーション的な要素もあり、
物語とともに主人公は成長もする。
ウィルフリッドは、その決定的に(と思える)孤独な人生の中で、長い間、
ファンタジックな空想の世界を一種のシェルターとして生きていくのだし、
その空想の世界に住む彼の絶対的に忠実な友人シュヴァリエ(アーサー王の騎士)が
いつも、現実の過酷さから彼をまもってくれるのだし・・・っていう、
このあたりはヤングアダルト的でもあるけれど、ポジション的にはやっぱり青年です。

ウィルフリッドは、ケベック(たぶん)のどこかの都会に住んでいます。
フリーター的にバイトをし、行きずりに愛のないセックスを繰り返す。
セックスをした相手の顔さえ覚えていない・・・
彼の人生が決定的に孤独であるのは、そもそもの始まりにおいて、
彼が母を知らず、父を知らないから・・・
母親は彼を生んで死んでしまった。
母親が死ぬと、父親は姿を消してしまった。

ウィルフリッドは家族を持たず、母の愛も父の愛も知らない。
父も母も持たないっていうことは、この芝居的にはまた、
ウィルフリッドは、「自分のルーツをたどる」って言うときの、
そのルーツをたどるための最初の出発点を失っている、ということでもあります。
彼はこの都会の中でただ根無し草のように生き、なにも意味づけることができない。

そこに、突然、父親が死んだという知らせが届きます。
会ったこともない父親の死・・・
ウィルフリッドの人生は、父親の死にかかわることで、大きく変わっていきます。


父親は遠くからやってきた移民でした。身寄りのない異邦人・・・
ウィルフリッドは、父の葬儀に参列し、そこで、
父を母と同じ墓に埋葬することができないのだということを知ります。
ウィルフリッドの母は、息子をこの世に送り出す代償として、死ななければならなかったのです。
彼女の体は弱く、夫は、妻が出産に耐えられないことを知っていたはず・・・
母方の親戚たちにとって、彼女を殺したのは
ウィルフリッドの父親であり、またウィルフリッドにほかならない。
父を母と同じ墓に埋葬することなどありえないのです。

ウィルフリッドはまた、父親の遺品の中に、
息子に向けて書かれ、そして出されなかった幾通もの手紙を見出します。
知らなかった父のこと、知らなかった父と母のこと・・・

“禁じられた”父親の埋葬を父親のために遂行する・・・
それがウィルフリッドの人生の目的となります。
遠い父親の祖国、地中海の岸辺に、彼は父を埋葬しようと考えるのです。
父の祖国へ向かうことはまた、彼自身のルーツの探索でもあり、
父を埋葬することはまた、彼自身を受け入れることでもある・・・
というのが、まあ、だいたいの話の流れです。

題名の「リトラル」はこの地中海の岸辺のことを意味します。
そこは、ワジディ・ムアワッド自身の出身地レバノンの岸辺であるかもしれませんが、
少なくとも、芝居の中では、レバノンという名前はとくに出てきません。
むしろ、レバノンの岸辺でもあり、また同時に、レバノンという岸辺を超えた、より大きな地中海的広がりでもある、と考えるべきなのでしょう。

レバノンからパレスチナへ、地図的には北から南へと縦にのびる沿岸地域は、
長い間、そして現在いまこの時も、戦争と、破壊と、殺戮の絶えることなき土地です。
芝居の中でも、“そこ”はそのような土地として描かれています。しかし、
“中東”と呼ばれるその土地の岸辺に立ち、まぶしさに目を細めながら遠く海の彼方を眺める者が、
少しでも“西欧”文学に触れたことがあるならば、
その目には、オデュッセウスの乗った船の帆影が蜃気楼のように揺れるのが見えるにちがいない。
あの島はきっとカリプソーの島・・・
寄せる波と返す波の合間に聞こえるのは、イスラエル軍の放つ砲弾の音ではなく、
アキレスとヘクトールが交える刃の音・・・

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田野邦彦演出 『ここからは山がみえる』bis「高校生リーディング版」 [見た芝居]

8月22日に『ここからは山がみえる』というお芝居を「アトリエ春風舎」に見に行ってきました。
そのレポートのパート2。

この日は、15時からの本公演に先立って、お昼の12時から「高校生リーディング版」が上演されました。
パート2はそのレポートです。
『ここからは山がみえる』の正規版(本公演)については、パート1をお読みください。
また、パート1を踏まえてのパート2なので、やっぱり、パート1を先にお読みください。

それでは、パート2・・・

田野邦彦さんは、「青年団」系の演出家ですが、イギリス演劇、イギリス古典演劇、シェークスピア・・・とか、
そういう方向を見据えている、まあ「青年団」系では異色の演出家です。

その田野さんが、都立美原高校というところに演劇の講師として赴任して今年で4年ほどになるのだそうです。「赴任」といっても「演劇市民講師」という肩書なので、いわゆる高校の先生というのではないらしいけれども、
いずれにしても、高等学校レベルでの「演劇教育」にポジティブにかかわっている・・・

というわけで、田野邦彦さんを軸にして、
マシュー・ダンスニーの戯曲と、演劇をする日本の高校生が出会った。
その出会いがもうすでに面白い。ちょっと大袈裟に言えば、奇跡的な出会い・・・的な・・・

『ここからは山がみえる』正規版の方は太田宏さんの一人芝居ですが、
「高校生リーディング版」は、4人の高校生によるパフォーマンスです。
田野さんの授業の生徒たちの中から、男子2人女子2人が参加しています。

リーディングなので、テクストを目の前に置いて芝居をします。
芝居をするっていうのか、リーディングをする。
オペラで言えば、コンサート形式による上演みたいなことか(?)・・・
とにかく、正規版とはそのあり方が違うわけです。

正規版と「高校生リーディング版」はいろいろと違っています。
普通、「高校生リーディング版」と聞くと、
ああ、これは「ジュニア向け簡易版」なのね、みたいなことを考えますよね。
ところが、そうじゃない。

太田宏版と高校生版の違いは、正規版と簡易版といった、ランクの違いじゃなくて、
演出のバージョンの違いなんです。
「高校生リーディング版」という名を借りて、演出家は、正規版ではかえってやりにくい、
ものすごく斬新で、刺激的で、しかもかなり危険な演出を試みている・・・という感じ。
田野邦彦がやりたかったのは、ほんとうはこっちの方だったのかも・・・とさえ思わせる。

『ここからは山がみえる』のテクストは6つの章から成り立っています。
「語り」の構造を持っているので、小説的に言って6章ですが、
演劇的に言えば、6つの場とか、6つの景とか、あるいは幕とか・・・

「リーディング版」はこれを2場削ってぜんぶで4場にしています。
6場を4場にしたところは、いかにも「簡易版」に見えるんだけれども、
実は、4場は4人の高校生の数に対応しているんです。つまり、
「リーディング版」では、場が変わるとアダムを演じる役者も変わる。
ひとりのアダムを4人で演じる。あるいは、
4人のアダムが登場する、と言ってもいいんですけど・・・
だから、高校生4人で4場。

高校生のみんなひとり一人にアダムの役をやらせてあげたい、とか、
6場を4場に削っても、ひとりで4場ぜんぶやるのは高校生には大変だ、とか、
そういう配慮みたいなものもひょっとしたら働いているのかもしれない。
けれども、少なくとも結果的には、

この「4人のアダム」というアイデアが、

演出のコンセプトとか、芝居の演劇構造とか、そういうものを根本的に変えてしまった。


たとえば、
正規版の太田宏による一人芝居では、
「語り」の構造が、30代のアダムを10代のアダムに寄り添わせていました。(→ パート1 参照)
30代のアダムの「語り」が、6つの章からなる物語を、ある意味で統合していた。
10代のアダムは、初めは12歳から、最後は18歳まで、
それぞれの章で、違う年齢、違う時代を生きています。
アダムは成長していく、あるいは少なくとも変っていく。アダムは変わっていくけれども、
それはやはりひとりの同じアダムなんだっていうことを保証しているのが、
30代のアダムの「語り」なわけですよね。
語り手のアダムが「僕」っていえば、すべてのアダムはその同じひとつの「僕」に収斂していく。
30代のアダムの記憶/語りの中で、すべてのアダムがひとつになる。

「高校生リーディング版」では、この30代のアダムの「語り」がなくなります。
テクストは同じテクストだから、「語り」の構造自体はなくならないんだけれども、
演じている役者たちがみんな17歳とかなので、
「語り」とアクションの間にほとんど距離がとれなくなるわけです。
大人の「語り」がなくなる、と言ってもいい。
高校生の「語り」は、彼らが生きる彼らの「現在」の実況中継のようなものになります。

いくつもの時代のアダムをひとつにまとめる大人のアダム、
その大人のアダムがいないのなら、
それぞれの時代を生きるいくつものアダムは、
違う役者/高校生によって演じられるのがいかにも自然であるように思えてきます。
成長するアダムはスキゾ的に変化してゆき、いくつものアダムを統合する大人は存在しない。
これが「高校生リーディング版」の基本的なあり方になります。
統合するとすれば、それはすべて観客がしなければいけない・・・


「4人のアダム」によって生ずる演出上の大きな違いのもうひとつは、
「語り」がより演劇的に展開されるということです。

ひとりがアダムを演じていると、役者が3人余りますよね。
それで、この人たちがいろんな役をやります。
友人役をやったり、両親をやったり、祖父母をやったりする。これが面白い。
直接話法で語られている部分は、もちろんその人物役の人が台詞を言う。
台詞のない部分でも、ある人物についての描写があれば、その人物役が舞台に登場する。
描写にふさわしい演技をしたり、あるいは逆に、テクストにはない所作をしたりする。
テクストでは出てこない人物も登場させることができる。
「1人のアダム」の時より、演出の幅がぐんと広がるわけです。
演出によっては、アダムの語り(テクスト)を裏切ることもできる。

以前、ハインリッヒ・フォン・クライストの『O侯爵夫人』を芝居で見たことがあります。
『O侯爵夫人』はクライストの短編小説ですが、これをシナリオ化もなにもしないで
小説のテクストのまま舞台にかけたものです。
小説の登場人物の数だけ芝居の登場人物が出てきて物語を演じる。
台詞の部分はもちろんその当の人物を演じている俳優が言います。
地の文のところはどうするのかというと、これも登場人物/俳優に“適当”に割り振られていて、
そこのところはリーディング的にテクストを言い、必要ならばテクストの描写に“ふさわしい”演技をする・・・
みたいなことで、芝居としてとても面白いものでした。

田野さんが「高校生リーディング版」で採用したのは、いわばこちらの演出です。
演出的には、「1人のアダム」の場合でも、つまり正規版的なものでも、
登場人物たち(太田さんが黒板にその名前を次々と書いていく、あの何人もの登場人物たち)を、
すべて舞台上に化身させ、さまざまな演技をさせる、という選択もあるはずですよね。
もっとも、それだけの数の役者を集めるのが大変だけど・・・

「高校生リーディング版」では、そのときアダムではない3人が、音響効果なんかも担当して、
それも面白かったです。暴力的なシーンでは、拍子木の大きなやつで床をたたくとか・・・
まあ、ちょっと歌舞伎みたいですけど・・・

「リーディング版」とうたっているわけだから、舞台上でリアルな芝居が展開するわけではありません。
だから、登場人物の「からみ」っていうのも、拍子木の音のように、
かなりな部分、観客の想像力にゆだねられます。そこがまた面白い。
アダムではない役者たちは、その他の登場人物として舞台に登場するのだけれど、
演劇のあり方はリアリズムではなくて、象徴的、あるいは儀式的です。

まあ、もともと一人芝居だから、観客の想像に依っているところは大きくて、
ライブカフェみたいな“そこ”が、あるときは教室で、あるときは田園の中で、
あるときはブラックプールの養護施設で、またマンチェスターのダウンタウンで・・・
っていう、そういう意味ではシェークスピア的な演劇空間が広がります。

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田野邦彦演出 『ここからは山がみえる』 [見た芝居]

SANY0081_edited-1.jpg夏はあまりにも暑く過酷で、僕は長いあいだ死んでいました。
しかし、but…
死んでいる間にも、書くべきことは山のようにたまり、
書きたいことが山のように積もっていく・・・

というわけで、ご無沙汰しました。久方振りの演劇レポートです。
芝居のタイトルはいかにもタイムリーに『ここからは山がみえる』。
「アトリエ春風舎」というところへ見に行ってきました。

田野邦彦さんは、以前このブログで紹介した『ブラックコーヒーとワルツ』、
あの「企画構成」をした演出家です。
『ブラックコーヒーとワルツ』でもいい仕事をしていました。
今回の『ここからは山がみえる』でもいい仕事をしています。
「いやぁ、いい仕事してますねぇ」と僕は思わずつぶやきました。
熱烈的お薦めの芝居なんですが、
8月23日が最終日だったので、もう終わっています。
相変わらずの遅ればせレポートでごめんなさい。

僕が見に行ったのは22日の日曜日、ということは最終日一日前。
もともとお薦めレポートの間に合うようなスケジュールではございませんでした。
(したがって、間に合わせようという努力も、実は、していない・・・)
22日に行ったのには理由があります。
この日、15時からの本公演に先立って、
お昼の12時という、まるで文楽とか歌舞伎の時間に、この日一日だけ、
「高校生リーディング版」というのがプログラムされていました。
これが見たかったのです。
べつに親戚の高校生が出てるとか、そういう不純な理由(?)ではありません。
日本の演劇の未来は高校生が握っていると思っておるからでございます。

で、これを見ました。
なんとも、まあ、すばらしかった。

そして、15時からの本公演、これがまたまたすばらしかった・・・

というわけで、このすばらしさについて語りたいわけですが、
これをわかってもらうためには、話を順序立てて、
そもそも、『ここからは山がみえる』というのはどんな台本なのかというところから・・・

『ここからは山がみえる』は翻訳劇です。
いま現在進行形で活動中のコンテンポラリーなイギリスの演出家・劇作家
マシュー・ダンスターのYOU CAN SEE THE HILLS の日本語バージョン。

YOU CAN SEE THE HILLS は2008年にマンチェスターで初演され、
その同じ2008年の秋に、こんどはロンドンのヤング・ヴィック座にかけられて大きな評判をとました。
追加公演が2009年の5月まで続きます。
演出家の田野邦彦さんが、これをロンドンまで見に行って、
残念無念、タッチの差で見損なった。
戯曲が出版されるとすぐに手に入れ、読み、惚れ込み、
日本語バージョンを制作して、今回の公演になった・・・まあ、そういう経緯です。

今回の公演は、したがって、制作プロセスの過程が翻訳台本づくりから始まっています。
しかも演出家、翻訳者、役者のコラボレーションによって翻訳がつくられた。
これは注目すべきことです。

ひとつひとつの公演にはその制作コンセプトがあるわけですよね。
演出家のヴィジョンとか演劇観とか、まあ、哲学とか、そういうものがある。
役者の資質と性格がある。
翻訳台本というものは、そうしたもののすべてが、舞台の上で身にまとう
ラグジュアリーなドレスとして、オーダーメイドされなければならない。
それが翻訳台本の理想です。理想っていうか、むしろ常識です。
翻訳劇っていうのは初めからそういうところを目指すべきものです。
そういう意味で、田野邦彦の『ここからは山がみえる』は、
芝居として面白いというだけではない。
翻訳劇のひとつの制作モデルを提示しているわけなんです。

さて、『ここからは山がみえる』はどんな芝居なのか?
まず、そうですね、『ここからは山がみえる』は一人芝居です。
2時間50分の一人芝居です。
びっくりですよね。ひとりで3時間・・・
でもぜんぜん退屈しません。
やってる方は大変でしょうけど、観ている方はぜんぜん退屈しない。
集中力がやすやすと最後まで続いて、
それで、最後に芝居全体が、こう、ずうっと見わたせて、
自然に感動が湧き上がってくる・・・そんな感じ。

オリジナルの英語バージョンで2時間20分だったのが、
翻訳したので、3時間を大幅に超えてしまった。
しかし、3時間を超えるのは、この際やっぱりまずかろうという議論になって、
やむなくカットなどして2時間50分まで縮めた・・・
アフタートークによるとそういうことです。
だから、2時間50分の一人芝居。途中5分のトイレ休憩。

退屈しない理由はいろいろあるのだけども、一番はやはり、
きわどい話が多いから(?)・・・下ネタ・・・って言っていいのだろうか、
下ネタって言っても、オヤジ系下ネタ、みたいなのではなくて、
中学生とか高校生・・・10代の男子、ヤングアダルト・・・の下ネタ。

イギリスの田舎町に住むアダムという名前の男子、これがこの芝居の登場人物。
彼が彼自身の10代の人生を一人称で語る、その物語がこの芝居のテクスト。
(物語は、日本でいう中学あたりから高校卒業くらいまで、数年間にわたります。)

アダムの10代の頭の中はセックスでいっぱい。
それが言葉になって、頭の中から外にどんどん漏れてくる・・・
クラスの女子のおっぱいが大きいとか、あっ、こっち見てニッコリしたとか、
あっ、やべ、勃起してきたとか、この女子とやりたいとか、
肝心な時に勃起しないとか、やるまえに射精しちゃったとか・・・
まあ、そういう系の台詞がポンポン出てきます。

アダムはおバカですけど、不良なのかというと、不良というわけでもない。
フツー・・・っていうか、フツーってよくわかりませんが、
フツーっていうよりは、やっぱりおバカなヤングアダルト男子。
こういうおバカ男子に3時間ひとりで話をさせておけば、セックスの話ばかりするわけじゃないけど、
まあ、かなりな割合でセックスの話ばかりしている、みたいな・・・

僕は、イギリス人のユーモアってぜんぜんわかんないんですよ。
『シャロウ・グレイヴ』っていう映画ありますよね、ユアン・マクレガーの出ている・・・
あれを見た時にぜんぜん笑えなくて・・・イギリス人なんか、あれ、笑い転げるらしい。
ブラック・ユーモアっていうんですか?
もちろん、『シャロウ・グレイヴ』のセンスとはちょっと違うんだけど、
イギリス人だとやっぱり、アダムの台詞で笑い転げるのかな、とちょっと思いました。
日本人だと、ああいう下ネタで笑い転げるということはなくて、人によってはむしろ目を伏せたりする。

まあ、だからといって、アダムが不良というわけではない。
アダムっていう男子が、隙あらば女子を「餌食」にしようと狙っているから、
女子のみんなは気をつけなきゃだめよ・・・的な世界観はこの芝居にはないです。
アダムを動かしているのはアダムの欲望っていうよりは、
アダムっていう個別の存在、個体っていうか、そういうのを超えたもの、
もっと根源的なもの・・・芝居を見ていてそういうものが伝わってくる。
生殖と繁殖と死・・・
アダムが選択するとか、しないとか、そういうものを超えたなにか・・・

知床の川を上ってくる鮭のオスを捕まえて、下心があるとか、メスを餌食にするつもりだとか、セックスのことしか頭にない、とか言っても意味ないわけです。なんかそんな感じ。
鮭の方は、そう言われて、赤面して赤くなっているわけではない・・・

アダムがおバカで、やることしか考えていない・・・って、まあ、そういう言い方するとすれば、
女子の方もやっぱりおバカで、やることしか考えていない。

知床の川を上ってくる鮭のメスを捕まえて、あなたアダムに気をつけなきゃだめよ、とか言っても意味ないわけです。

気をつけるべきことがあるとすれば、妊娠しないことなんだけど、
それでも、妊娠してしまうのね。
おまえらさ、どうしてそうなの?コンドームだってちゃんと渡しといたじゃん。
セーフティ・セックスって、いま常識でしょう?エイズもあるし・・・
でも、妊娠しちゃう・・・

セックス、そして妊娠と中絶と・・・

時代はサッチャー政権の80年代後半くらいか?・・・
それがどういう時代だったのか、僕にはいまいちよくわからないけれども、
物語の設定的には、
セックスの解放が、新型インフルエンザ・ウィルス蔓延、パンデミック!みたいに、
イギリスの超ど田舎ロイトンの町にもどっと押し寄せ、
セックスはいまや“完全”に解放されて、もはや、
恋とか愛とか、そういうもののスペースがなくなってるのね。

でも、ヤングアダルトって、ただひたすら知床の川を遡る紅鮭団じゃないわけ。
山に囲まれた田舎町の閉塞感とか、見えなくなった夢とか、崩壊してゆく家族とか、
あと、いじめもあるし、差別もあるし、
近しい人々の、老いも、死も、見つめなければいけない。
極端に言えば、そういうもののすべてが、セックスの用語で語られる・・・

というわけで、これを一人芝居で3時間やるって、やっぱりすごいこと。

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柴幸男 『さよなら東京』 [見た芝居]

IMG_0218_edited-1.jpgENBUゼミナールの2009年度春期演劇コース劇場公演(柴幸男クラス)を見に行ってきました。柴幸男クラスの生徒さん達の「卒業公演」みたいなものです。
場所は「笹塚ファクトリー」(写真)。

岩井秀人『武蔵小金井四谷怪談』を見に行った時にもらったチラシの束の中に、
この公演のチラシがありました。

3月に田野邦彦さん企画構成の『ブラックコーヒーとワルツ』を見ました。
池袋コミュニティカレッジというところの演劇入門コース「卒業公演」的なもので、
これが面白かった(これについては3月23日のブログ記事を見てください)。
ENBUゼミナールを知っていたわけではないのですが、
『わが星』の柴幸男さんが担当しているクラスということもあって、
こちらの「卒業公演」もきっと面白いだろうと思ったわけです。
俳優、あるいはより広く、演劇人の養成とか教育というものにも興味がありました。

面白かった。でも・・・
5月の1日と2日だけの公演なので、もう終わっています。
ぜひ見に行って、とお薦めできないのが残念です。
(もっと早くレポート書けよ、ってことなんですけど・・・)

『さよなら東京』の台本は柴幸男さんが、この公演のために書き下ろしたものです。
柴さんは10年ほど前に劇作家になることを夢見て東京に出てきました。
家を離れ、土地を離れ、
未来への夢を抱えて東京行きの列車に乗った・・・
そして、時間は過ぎ、彼はいま東京を離れようとしている・・・

その自分の10年前の姿が、彼の指導している生徒たちの姿に重なって見えてくる・・・
彼らの夢。そして、彼らの・・・
彼らはまだ夢しか知らないのかもしれない・・・

『さよなら東京』は、そうした若者たちへの共感から生まれた作品です。
(と言っても、柴さん自身がぜんぜん若者で、生徒さんの中には彼よりも年上がいたりするので、現実の時間はけっこうねじれている。)

『さよなら東京』は、少なくともこの公演では、東京に別れを告げることよりも、
むしろ、東京に出て来ることをテーマにした作品であるように思えました。

夢を見て東京に出る・・・一見古びたテーマのようですが、これが、
柴幸男のリズムとムーヴメントの中で「音楽的」に展開され、すごく新鮮です。
いや実は、これはコンテンポラリーなテーマなのだけれど、
コンテンポラリーに展開できる人がいなかったので、
古びたテーマだと思われていたんだよ、っていう感じ。

「音楽的」に展開・・・っていうのは比喩的な意味です。
テクストが必ずしも“リアル”なロジックで組み立てられていない、というか、
芝居の展開が、時系列的にすっきりとまとめられるようなあらすじを持っていない、
というのか・・・

例えば、音楽だと、
モチーフを和声的に重ねるだとか、変奏するだとか、転調するだとか、
そういうものがありますよね。で、なんかそういうふうに、
この芝居は“リアル”というよりは“テクニカル”に組み立てられている。

例えば・・・

この芝居の物語的時間はめまぐるしく飛びます。
現在から未来へ、未来から現在へ、そして未来へ、また未来へ、そして過去へ・・・
やがてどれが現在なのかわからなくなる。
そのすべてが現在なのかもしれない・・・
あるいは、そのすべてが夢なのかもしれない・・・

彼女は東京行き「のぞみエクスプレス」の9号車5Bに座っている。
(柴幸男の世界では、主人公はなぜかいつも女子です。)
彼女は山手線に乗っている。
山手線がぐるぐる回っている(『わが星』にも出てきたモチーフ)。
彼女は学校の食堂で友人と話している。
彼女は合コンで自己紹介をしている。
彼女はアルバイトをしながら演劇をつづけている。
彼女は東京を離れようとしている。
彼女は故郷の無人駅で列車を待っている。
彼女はいつの間にか眠っている。
彼女は夢を抱いて東京に出ようとしている。
彼女が乗った列車は東京から離れていく・・・

柴幸男の作劇術は、前の台詞の「言葉尻」をとらえるようにして、
芝居を「転調」していきます(その意味では、とてもマリヴォー的)。

例えば・・・
「・・・行った」という台詞があると、それを「言ってない」と受けることで、
そこから別シークエンスに入る。
「・・・一人暮らし」という言葉があると、「ひぐらし」という言葉がこれを受け、
受けた途端に蝉(ひぐらし)が鳴きはじめて、
未来のこととして語られていた「一人暮らし」が、現在進行形に変わる。
手相占いに問い返す「感情線?」という台詞が
「環状線」という言葉に置き換えられて、いきなり山手線がぐるぐる回りはじめる。

「転調」によって、
芝居のリズムとムーヴメントはスムーズにつながっていくんだけれど、
物語の論理的で自然な展開とか自然な時間の流れとかいうレベルでは、
引き裂かれるような不連続性をともなってシークエンスが次々と連鎖していく。
不連続に連続していくわけです。

テーマが「音楽的」に展開される、って僕が言っているのは、こういう意味です。

比喩的じゃなくて、文字通りの音楽、っていうことでは、
「木綿のハンカチーフ」とか「なごり雪」とか・・・
そういう昭和の歌が音響としていろいろ使われています。
そうか、「東京に出る」っていうことは
こんなにも大きな昭和的テーマだったんだ、と実感します。
けれども、昭和の歌がこの芝居をノスタルジックな場所へ連れ帰るというのではなくて、
昔の歌がむしろリミックスされていまの時代に同化した、という感じ。
べつに本当に音楽的にリミックスされてるとかではないんだけれど、
演劇的にリミックスされた、って言えばいいのか・・・

結局、地方にいたって仕事ないじゃん、っていうのはノスタルジックどころか、
むちゃくちゃアクチュアルな問題なわけだし・・・

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岩井秀人 『武蔵小金井四谷怪談』 [見た芝居]

こまばアゴラ劇場に、岩井秀人作・演出の『武蔵小金井四谷怪談』を見に行ってきました。
面白い!
熱烈的お薦め!
ああ、でも、明日が最終日なんですよ。
24日の土曜日に見たんですけど、またレポートが遅くなりました。

「口語で古典」というのが全体のコンセプトらしく、
僕も、18世紀のフランス喜劇を現代の言葉に「翻訳」しようとしているので、
コンセプト的に興味を持って、見に行ったわけですが・・・

岩井秀人の「口語で古典」は、でも、「言葉」とかのレベルの問題ではなくて、
設定を現代に置き換えて古典を演じるみたいなことです。
テクストの細部と格闘する・・・みたいなことはなくて、
その意味では、ゆるーい感じで古典と付き合うっていうのか・・・

あるいは、
えーっ!あたしたち、付き合ってるとか、そういうことじゃなくて、
友人同士でしょう?ってか、ただの同僚でしょう?みたいな感じも・・・

上演パンフというか「わら半紙」みたいなのによると、
そもそも、岩井秀人は『四谷怪談』の原作を読んでいない。
ストーリーを「サンプル」の松井周から聞いただけで、
あとはネット情報で台本をつくった。
その段階で、岩井秀人が『四谷怪談』と思いこんでいたのは、
実は『牡丹灯籠』だったということが判明して、
急遽、芝居の方向性を修正した・・・

実際の舞台は、翻案というのか・・・
翻案という概念からもちょっとぶっ飛んでいます。
もとの『四谷怪談』の簡単なあらすじが・・・
これも、普通の「簡単」を通り越して、ごくごく簡単なあらすじなんですが、
場面の展開とともに、背景の壁に映し出されていきます。

「四谷怪談」っていうタイトルも大きく映し出されるので、
観客は、ああ、『四谷怪談』なのね、と思うんですけど、
「牡丹灯籠」っていうタイトルが映し出されれば、
ああ、『牡丹灯籠』なのね、と思うかもしれず、
いや、やっぱり思わないかもしれず・・・
まあ、原作と芝居は、それくらいの“薄い”付き合いです。

だいたい、武蔵小金井と四谷って、そこからもうずれてる・・・

まあ、確かに、中央線なら一本だけど・・・って、違うでしょう・・・

と、ひとりボケ・ツッコミをしてしまう自分に驚きますが、
そうさせるのが岩井秀人・・・

芝居は二部構成で、第二部はビミョーなバリエーションを加えて第一部を繰り返します。
ベケット的とか、そういうのじゃなくて、ミステリー仕立て。
第二部では、第一部の物語が別の「視点」からもう一度演じられる。
ミステリーの種明かしというか、「合理的」な説明がおこなわれる・・・というのか、

まあ、そこは、岩井秀人なので
(初めて彼の芝居を見たんですけど、なにか前から知ってる人のような気がしてしまう)、

どこが合理的やねん、

というようなことで、話はよくわかりません。

観客的には、
結局さあ、みんなさあ、何がしたかったの?
っていう、問いかけモードのまま芝居は終わるんだけれど、
面白かったからいいや、みたいな・・・

岩井秀人さんは、10年以上の「引きこもり」のキャリアを持っていて、
そういう“新たな”視点から芝居をつくっている・・・のかどうかわかりませんが、そのせいなのか、
手垢のついた演劇の約束事みたいなものから軽々と自由でいられる・・・のかもしれない。

岩井秀人の演劇を一言で言い表すと、
あなた、ちょっと、だいじょうぶ?(息子を心配する母親の口調で)
です。強靭な危うさっていうのか・・・

で、この見た目ちょっとお馬鹿コントみたいな芝居を演じる役者がいいんですよ。
「サンプル」の『あの人の世界』のホームレスの元締めをやっていた古谷隆太が
伊右衛門(伊右衛門っていう名前じゃないけど)でしょ、
お岩(お岩って名前じゃないけど)が荻野友里で、
僕が見たのでは『東京ノート』で脇田百合子(女子大生)役やっててすごいよかった。
あと、壁に映し出された字幕からすると、直助っていう男性人物に対応するらしい女性人物が、
柴幸男『わが星』の主人公ちーちゃんをやってた端田新菜。
で、お岩のお父さんが猪股俊明という、この人は初めて見た気がするんですけど・・・

「芸人」がコントをしているのではなくて、いい役者が演劇をしているわけです。
コントとして面白いんじゃなく、演劇として面白い。演劇としてのスキルが高いっていうんですか?・・・
あるいは、みんなが、岩井秀人に対して、
「あなた、ちょっと、だいじょうぶ?」っていう、そういう限りなく深い受容性を持っていて、
このフツーじゃない作家兼演出家をぴたっとサポートしているんだということかもしれない。
で、そのことが”新しい“演劇を可能にしている・・・まあ、わかんないけど・・・

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地点 『誰も、何も、どんなに巧みな物語も』 [見た芝居]

IMG_0214_edited-1.jpg「地点」の『誰も、何も、どんなに巧みな物語も』(三浦基演出)を横浜のBankART Studio NYK 3Cギャラリーというところに見に行ってきました。
先月末で、ちょっと前のことになりますが、
そのレポート。

横浜までわざわざ出かけて行った甲斐があった、というのか・・・いや、それ以上。
行ってよかった。この芝居と出会えてよかった・・・っていう、そういう感じ。

「地点」は演出家三浦基が主宰する劇団で、京都が本拠地であるらしい。
今回はコンテンポラリーダンスの山田せつ子とのコラボレーション。
「地点」に安部聡子というすばらしい女優さんがいます。
この安部聡子と山田せつ子による二人パフォーマンスでした。

テクストはジャン・ジュネ・・・というか、
ジャン・ジュネのテクストそのものではなくて、その翻訳・・・
なに言ってんの。翻訳って、あたりまえじゃん、とか言われそうなんですが、
それが、そんなにあたりまえでもなくって、むしろかなりビミョーな問題なんです、
っていうのが、三浦基/地点の活動の特長であるような気がする・・・

ジャン・ジュネは芝居も書いていますよね。
2002年に世田谷パブリックシアターで『屏風』が上演されて、衝撃だった。
フレデリック・フィスバックが演出をして、フランスから来た俳優たちと、
糸あやつりの結城座の人形たちが、一緒に芝居をしました。
こちらはジュネのテクストそのままの、原語上演字幕付き。
アルジェリアのイメージが南アフリカやジンバブエのそれと重なり、
ジュネのテクストが現代のラップとして甦った。
これって、ラップだよね。ラップってさ、これなんだよねー・・・みたいな・・・

話を戻して、今回の「地点」の公演は、ジュネの戯曲ではなく「エセー」からの抜粋・・・というか、
三浦基的には「抜粋」とは言わないんだと思うんですけど・・・むしろコラージュですね。
『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』と
『・・・・・・という奇妙な言葉』(劇場としての墓地、あるいは墓地としての劇場)、それから
『シャティーラの4時間』(虐殺されたパレスティナ人たち)という三つのテクストをコラージュ・・・
といっても、三つをぜんぶ混ぜるんではなくて、6、70分のパフォーマンスを3幕に分けて
三つのテクストをそれぞれの幕で演じる。
演じるといっても、台詞ではなくて普通の散文ですから、これをひとり芝居の台詞のように語る・・・
っていうか、やっぱり演じる。
基本的には、俳優である安部聡子さんが言葉を発するのですが、
なぜか山田せつ子さんもときどき言葉を発します。

山田さんがどういう原理・・・っていうのか、まあ、そういうものでダンスパフォーマンスを展開しているのかは、よくわかりません。テクストの「意味内容」に合わせて振り付けをしているのか、「意味内容」とは違うものによって振り付けしているのか、あるいは心の赴くままなのか、ぜんぶ即興なのか、一部即興なのか、即興なんてないのか・・・

それで、この二人が演じる、っていうかパフォームする場所なんですけど、これがすごい。
BankART Studio NYK 3Cギャラリー・・・名前だけですでにお洒落な感じがします。
これが実際“お洒落なスペース”なんです。
ニューヨークのロフトのギャラリーのヴェルニサージュとか行ったら・・・行ったことないですが・・・
まあ、行ったら、こういうスノッブな雰囲気なのかも、というようなところです。

芝居を見に来た観客も、場所のせいかみんなスノッブに見えてしまいます。
コンテンポラリーダンスっていうところがお洒落な人たちを呼び寄せたのかもしれない。
ジャン・ジュネという名前がお洒落なintelloたちを惹き付けたのかもしれない。
あるいは単に僕の気のせいかもしれない。

BankART Studio NYKは「馬車道駅」で降りて徒歩5分。
もとは倉庫だったところを現代アート空間につくり変えた。そういえば、赤レンガ倉庫も近い・・・という場所。
3Cギャラリーはものすごく広いスペースですが、昔の建築なので、天井を太い柱で支えています。
空間の中心線にぼんぼんぼんと柱が並んでいるので、ときどき役者の姿が見えなくなります。

だだっ広い空間の入口側に遠慮がちに客席を何列か並べて、
残った4分の3くらいのところが舞台になります。
役者さんが向こう側の壁にぴたっと身を寄せると、その姿は遥か遠く、
オーイと呼ぶとオーイと木霊が帰ってきそうな距離。
光と影の効果もあって、その奥行きがとても面白い(写真は柱と向こう側の壁)。

広い舞台空間を安部聡子と山田せつ子が縦横に動き回ります。
空間の中で交差もし、接触もします。けれども大抵は二人の身体は離れているので、
客席から二人を同時に視界の中にとらえることができません。
テニスの試合を見るように、右左、右左と首を動かしている人もいましたが、
それでは、見ている芝居が、なにか断片的なものになってしまうような気がしました。
どういうふうに見るのがこの芝居の“正しい”見方なのかはわかりませんが、
いずれにしても、二人の姿と、二人の動きと、それから二人の位置関係の変化を
一望するには、私たちには距離が足りないのです。

そこで、僕はひたすら安部聡子さんの姿だけを追うことにしました。
山田さんの姿は、彼女が安部さんに近づいたときだけしか僕の視界に入ってきません。
結果として、僕はほとんど山田さんを見ておらず、
従がって、ダンスパフォーマンスについてはレポートできず、
従がってまた、演劇とダンスのコラボレーションという、
この芝居のそもそものコンセプトが僕にはまったくわかっていません。
僕は安部聡子の演劇だけを見て帰ってきました。
ただし、それは安部さんの一人芝居を見てきたのとは違うような気がしています。
彼女はいつも、もうひとりの人との関係の中にいましたし、
見ている僕も、もうひとりの存在をいつも感じていました。

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田野邦彦企画構成『ブラックコーヒーとワルツ』 [見た芝居]

舞台は、カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェ・・・

いえ、舞台の上にカフェのセットがつくられているというわけではなく、

池袋コミュニティ・カレッジという本物のカルチャーセンターのロビーの一角に、小さなカフェが実際にある。
そのカフェで芝居が上演されたのです。

ところが、その芝居の舞台設定が、やはり、「カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェ」なので、
その実際のカフェのテーブルや椅子がそのまま舞台装置として使われました。

舞台は、二重の意味で、カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェなわけです。

じゃあ、観客はどこにいるのかというと・・・

奥に、こう、カフェの空間が広がっています。テーブルがあって椅子がある。で、こっち側にカウンター・・・
まあ、スタバとかを適当にイメージしてもらって・・・
コーヒーとかを注文して、それを受け取るカウンターがこっち側にある。
そのテーブル席とカウンターの間にちょっとしたスペースをつくる。エンプティ・スペース・・・
で、そこに椅子をずらっと窮屈に並べて、それが観客席になった。

観客席の間に「舞台」に通じる通路を設け、役者たちは、実際のカフェの入り口、つまり観客の後ろから入ってきて、観客の脇を通って「舞台」の方に行き、椅子に腰かけます。
店員が、つまり、店員を演じる役者がカウンターの方から来て、客・・・つまり、カフェの客を演じる役者のところへ行って注文をとったり、注文を取らずに話し込んだりします。

僕が客席に着いた時には、カフェにはすでに女性客(役者)がひとり座っていましたが、
彼女が初めからそこにいたのか、それとも、初めは誰もいなかったのか、はわかりません。
僕が観客席に着くと間もなく、もうひとりの女性が入ってきて、
すでに舞台上にいる女性客とは別なテーブルに着きました。

カフェの店員二人を含めて、役者は総勢16人。
14人の客が、入れ替わり立ち替わりカフェに入ってきて、
あちらこちらのテーブルに小さなグループをこしらえて会話をします。
一番混んでいる時には、五つか六つのテーブルが埋まります。
それから、客はひとりまたひとりとカフェを去っていく・・・

『ブラックコーヒーとワルツ』の日曜日バージョン「まわりながら」はこんなふうに展開します。

日曜日バージョンというのは、この他に月曜日バージョン「まちながら」というのがあるからです。
僕はそちらは見ていないのですが、二つの芝居はたぶん同じコンセプトでつくられている・・・

このコンセプトがなんとも面白いですよね。役者が下手でも、これだけで面白い。
しかも、役者は下手じゃない・・・

役者は下手じゃない・・・なんて、失礼な言い方に聞こえるかもしれませんが、
いえ、実は、彼らはプロの俳優さんではなく、『青年団の演劇入門・実践編』の受講生たちなんです。
その「卒業公演」的なもの・・・

『青年団の演劇入門・実践編』には日曜クラスと月曜クラスがあって、
日曜日の受講生たちがやったのが日曜日バージョンです。

『青年団の演劇入門・実践編』に先だって『青年団の演劇入門』という講座が開かれていました。
去年の夏のことです。その入門編を終了した受講生が実践編に進むことができたわけなんですが、
その入門編に、実は、僕も参加していたのです。

フランス古典劇を日本の小劇場演劇や中・高演劇部の演劇活動の中に取り込み定着させたい・・・
という「野望」を、僕はいま抱いています。
そのためにはまず、古典劇の「翻訳」というものにどのような「可能性」(オールタナティブ)があるのか?
というところから考え直さなければならないんだよ・・・
というわけで、サイトを立ち上げてフランス古典喜劇の翻訳掲載を始めました。
で、「翻訳」の「可能性」を探るには、やっぱり、芝居がいまどんなふうにつくられるのか知りたいよね、
と思っていましたから、夏休みの時期に全6回という「手ごろさ」で開かれる『青年団の演劇入門』は、
僕にはちょうど渡りに船のワークショップだったわけです。
多くのワークショップが俳優対象である中で、一般向けの「公開講座」であることもありがたかった。

『青年団の演劇入門』ですから、講師は青年団、あるいは青年団関係の人たち。
平田オリザ、柴幸男、多田淳之介、吉田小夏・・・
盛り沢山の講師陣に、講座は6回しかありませんから、なかなか深めるということはできないんですけど、
体験として面白く、またなによりも演劇に対する視界が広がります・・・

その時に全6回の講座全体のコーディネーター的存在だったのが青年団演出部の田野邦彦さんで、
今回の『ブラックコーヒーとワルツ』の企画構成&ナビゲーターです。

僕は『青年団の演劇入門・実践編』には参加しなかったのですが、
実践編参加者たちによる特別公演のお知らせが届いたので、早速見に行ったのでした。

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時間堂 『月並みなはなし』 再訪 [見た芝居]

時間堂『月並みなはなし』を、本公演の最終日(3月14日)に滑り込むように、もう一度見てきました。

プレヴュー公演で一度見ています。
その時は、
きれいな舞台なのだけれど・・・あの、なにか・・・違和感というんでしょうか・・・そういうのがあった。
歯車の噛み合わせにちょっと違和感が・・・みたいな感じ・・・

で、本公演に向けて調整がおこなわれて歯車がぴたっと噛み合った時には
どういう芝居になるんだろう・・・と気になった。
一度気になってしまうと、ずうっと気になって、そんなに気になってるんだったら、
もう一度見に行くしかないよね・・・というわけで、もう一度見に行ったわけです。

えーっ?一度見たじゃん、
という気持ちと、
いや、あの芝居、まだ本当には見ていないんだよ、
という気持ちが、僕の中で争っていたわけですが、
結論的には、もう一度見て正解。

ぜんぜん違った。
いや、ちょっとした調整なんだろうけど、それでぜんぜん違ってしまう・・・
『月並みなはなし』はそういう芝居でした。
音楽のような芝居・・・そう思います。

たとえて言えば、バッハのフーガとか・・・
対位法と和声。
右手のメロディを左手が追いかける。
右手が上昇し、左手が下降する。
計算された動きが、あくまでも自然に流れていく。
いったん動き出したら止まらない。
追いかけて、追いかけて、どこまでも・・・

俳優自身にはそれほど大きな違いがあるという意識はないのかもしれないけれども、
ほんのちょっとした違和感があっても、それがホールの空間全体に反響してしまう。
流れが何度もせき止められると、それは観客にストレスを生み、
やがて、観客は、ひとり、またひとりと集中力を失いはじめる・・・
プレヴュー公演には、ちょっと、そういうところがあったかもしれない。
少なくとも僕は途中ですこし集中力を欠いてしまった。

それが、14日の公演では、流れが面白いようにつながって・・・

ホール全体がひとつになって「音」を追いかけていく、みたいな・・・
そのコンセントレーションが、ピーンんと張り詰めた静寂を生み、
その静寂の音が、観客のひとりひとりに心地よくフィードバックされてゆく・・・

ストーリー的には、『月並みなはなし』は、
ある意味「密閉」された部屋の中で展開するグループ劇なのですが、
途中何回か、劇空間が部屋の外(テラス)にも展開します。
空間が内と外の二つになり、グループもその間だけ二つの小グループに分かれる・・・

で、ここが黒澤世莉の音楽性をよく表している場面なんです。

二つになった劇空間は分裂したのではなく、
従って、平田オリザ的「同時多発」劇とはコンセプトが違います。
二つの空間で別々の芝居をするのではなく、ひとつの劇空間の中で
ひとつのグループが二つのパートに別れる・・・
音楽などでパートに別れるという時のパートに別れる。
内と外とが、いわば右手と左手のパートに別れてフーガを演奏する・・・
そういう感じ。

誰かがためらうと、微妙な間ができて流れが止まる。
誰かに余裕がないと、間が狂って、台詞の出を間違えたように聞こえてしまう。
その代わり、うまく流れた時には、
ジャズライブで名演奏を聴いているような快感があります。

最終日の時間堂は、そういうバッハ的なジャズ的な快楽で満たしてくれました。

黒澤世莉の『月並みなはなし』がむずかしいのはそこなのかもしれない。
これは、ひとり、二人、いい役者がいたからといって成功するわけではない。
アンサンブルがそろわないとうまく回らない。
全員がいい役者でも、彼らが、演劇の、このセッション的な・・・ジャズでいうセッション的な・・・側面を理解していないと、やっぱり成功しない。

そういう意味で、『月並みなはなし』はとても繊細な芝居。
うまく流れていない時は、ひとり一人の登場人物の台詞、
ひとり一人の役者の演技にも説得力がなくなってしまう。

登場人物でひとりセガワ・ミミという「部外者」がいて、この人だけが、
ちょっとトリックスター的役なので、すこし独立性が強いかもしれません。
プレヴュー公演では、大川翔子さん演じるミミが、8人の中でとりわけ粒だって見え、
なかなかよいと感じましたが、14日の公演を見てわかったことは、
ミミが粒だって見えるということは、必ずしもいい兆候ではないということ。
芝居がぴたっとハマった時には、全員がひとり一人粒だって見えるわけだから・・・

よく晴れた日曜日の午後に、ぶらっと出かけて、こういう芝居が見られるってことは、いいよね。
こういうことが日曜日の標準になるといい。
今日、デパート行く?河川敷行く?それとも芝居行く?みたいな・・・

そうね、あとは・・・登場人物の年齢層にもっとばらつきがあるといいかも・・・
これは現実問題として、むずかしいのか?・・・

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時間堂『月並みなはなし』 [見た芝居]

時間堂の『月並みなはなし』(黒澤世莉脚本・演出)が
3月11日(今日)から14日(日曜日)まで、「座・高円寺2」というホールで上演されています。

黒澤世莉さんは、前回の時間堂公演で、マリヴォーの『奴隷の島』をとり上げてくれた演出家。
今回はオリジナル脚本で、杉並演劇祭参加です。

そのプレヴュー公演というのを10日(水曜日)に見てきました。

「座・高円寺」は杉並区立芸術会館の名前で、
「座・高円寺2」はその地下二階にあるお洒落な小ホール。
いわゆる小劇場公演のイメージからすると、ゴージャスというかデラックスというか、なかなかな快適空間。

箱としてのホールが快適なだけではなくて、舞台上の空間も快適・・・というのか、
こちらは素敵と呼んだ方がたぶん似合っている。
まあ、ぜひ見てください。絵本を開いたような、そんな感じ・・・

で、また、この公演でとにかく素晴らしいのが役者たちの衣装なんですよ。うーん、と唸ります。
普通の格好っていえば普通の格好なんですよね。それを着て街を歩いてもいい。
でも、それで、8人の登場人物たちが一人ひとりくっきりと浮き立って見える。
登場人物はみんな普通の人たちで、とりわけ強い個性を持っているわけでもないんだけれども、
それぞれがそれぞれに際立っている、っていう、そういう芝居の世界を衣装でぴたっと揃えた。
色彩もスタイルもとりどり。ただし、適当に混ぜて散らしたっていうバラエティじゃない。
ひとつひとつが全体の中でコーディネイトされている。

パフォーマンスは、役者一人ひとりの名前紹介から始まります.
登場人物は8人プラスもう一人いて、全部で9人。
全員が舞台上で椅子に腰かけ、一人が立ち上がり、残りのみんなが、
その人の名前をひとり一字(一音)ずつ言っていく。み、そ、ら、ひ、ば、り・・・
つなげると名前になる・・・あのですね、わかるかな・・・これはアドリブというのか、
一種のゲームになっていて・・・つまりですね、誰がいつどの一字を言うのかは決まっていない。
まわりの気配をうかがいつつ、ここで言おうと思った人が言う、
ただし、二人が同時に同じ一字を言ってしまったらゲームは終わり・・・みたいな・・・
ワークショップでやるかもしれない。それを観客の前でやります。
名前が通して言えたらいいんだけれども、通して言えるということが必ずしも目的ではなくて、
誰かと重なってしまうのを恐れて、黙っていてもしようがない。
あえて行動するっていうか、芝居だからアクトする。
誰かと重なってしまったらそれも芝居。
じっと耳を傾けまわりの人々の息づかいを感じ、そして潔くアクトする・・・
僕はこのプロローグが本当に気に入りました。
これは一種の劇中劇で、『月並みなはなし』っていう芝居全体をすべて物語っているような気がする。
人物たちの、役者たちの関係が問題なんだよね。
仲間たちの声に耳をすますことが大事なんだよね・・・
そう、登場人物のひとりの名前はミミ(耳)という名前なのです・・・

ストーリーは、ちょっと近未来的な話。
温暖化が進み地球の環境は悪化。人間は月に移住を開始する。
特別に訓練された人だけが宇宙に行くというのではなく、
入植者として、パン屋さんとかエレベーターガールとか、普通の人が行くんだけれども、
だからといって誰でも行けるわけじゃない。
国家的な事業なので、そういうなにか国家試験的なものに合格しないといけない。
しかも、試験はチーム単位で行われる。
チームは移住希望者の中からアトランダムにつくられる。
見ず知らずの人たちがチームになって一次試験、二次試験と勝ち抜き、
勝ち抜くごとにチームの絆は強くなって・・・
で最後の最後に、チームで合否が決められるはずが、チームの中から一人だけ月に行けることになって、
固い絆で結ばれた筈のチーム・メンバーたちは・・・
というわけで、ちょっと長くなりましたけど、芝居が始まるのはこの「最後の最後に・・・」のところからです。

平田オリザの有名な『東京ノート』が、やはりちょっとこういう近未来ものでした。
こちらは、なぜか、日本以外の国々で戦争が行われていて、
戦禍を逃れた世界の名画が唯一平和な国である日本に集められる・・・
異常な状況設定があって、そこで普通の人々がどう行動するのか、
その「人それぞれ」をリアルに描き出す・・・

黒澤世莉の『月並みなはなし』は、異常な状況設定をつくっておいて、
しかし、そういう状況での「人それぞれ」を描くのではなく、
あくまでも、ひとつの人間グループをひとつの人間グループとして追いかけます。
リアルにというよりは繊細に・・・登場人物たちのキャラが繊細というのではなく、
繊細なのは黒澤世莉。
黒澤世莉のつくりだす人間関係が繊細な歯車のように回ります・・・

プレヴュー公演では、この歯車はまだ完全にはチューンナップが終わっていなかったのかもしれません。
俳優たちはつい一昨日まで王子スタジオ1で練習していました。
『奴隷の島』をやったあの小さな劇場空間です。
その小さな空間の中で、まだ未完のまま生成を続ける彼らの芝居を観客に見てもらっていたのです。
プレヴュー公演では、「座・高円寺」というゴージャスな空間で200人もの観客の前で初めて芝居をします。
役者たちは、各自の身体の中に取り込んでしまった王子スタジオ1のアットホームな空間感覚を、
新しくて大きくてお洒落なこの空間に合わせようとして、たぶん、まだ戸惑っているようなのでした。

今日、木曜日の本公演初日では、そのあたりの再調整もできていたのでしょうね。
14日までのあいだに、ぜひもう一度見たいものです。
黒澤世莉の歯車たちがくるくると繊細にまわっているところを・・・

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劇団競泳水着 『そして彼女はいなくなった』 [見た芝居]

昨年のマリヴォー『奴隷の島』公演でイフィクラテスを演じてくれたのが伊坂沢さんです。
その伊坂沢さんが出ているというので、劇団競泳水着『そして彼女はいなくなった』をサンモールスタジオというところに見に行ってきました。
昨日が最終日だったのですが、なんとか当日券ですべり込みました。

伊坂さん自身は「東京タンバリン」という劇団の俳優さんです。

『奴隷の島』でユーフロジーナを演じてくれた大川翔子さんが、この「劇団競泳水着」に所属する女優さんですが、彼女は今回の公演には出ていません。

黒澤世莉作/演出『月並みなはなし』(「時間堂」公演)が、3月の11日から「座・高円寺2」というところで始まります。大川翔子さんはそちらに出演するので、こちらはお休み。

『奴隷の島』公演の時、クレアンティスを演じた大竹悠子さんが、大川/ユーフロジーナに向けて言う台詞に、ちょっと楽屋落ち的アドリブをつけていました。

「いまさら、わたし愛とか恋とかよく知らないから・・・みたいな顔したって似合わないわよ。愛とか恋はあなたの得意分野でしょ。劇団競泳水着で・・・」

大川さんが「そこで劇団名出すか?」と返していました。

「劇団競泳水着」に関する僕の予備知識はこれがすべてでした。

見ると、確かに「愛とか恋」の話です。ただし今回はいつもと違うミステリー仕立てということで、これまでの「劇団競泳水着」のスタイルとは少し違う、と上演パンフに書いてあります。

ミステリーということもあってか、演劇というよりもテレビドラマを見ている気がします。
あとで聞いたら、テレビドラマみたいなのは、ミステリーに限らず、この劇団のスタイルであるらしい・・・

伊坂さんは、カフェのマスター的な役どころで、ただひとりこのミステリーに直接コミットしていない。藤田まことの刑事ものでいうと、藤田まこと行きつけのバーのママ真野あずさ的な・・・って、古いですよね。いつのドラマじゃ!みたいな・・・
すいません、新しいテレビドラマはぜんぜん把握していなくて・・・

『そして彼女はいなくなった』は、フラッシュバックなんかを多用して、テレビドラマ的には凝った作りです。
先の読めないストーリー、あっ!というどんでん返しは、ミステリーとしても面白い。
ただ、基本は「テレビみたい」なので、見ていてとても複雑な気持ちになります。

この芝居は映像媒体を通して見てればいいのかな?いや、やっぱり、こういう演劇空間で見るべきものなのかな?っていう・・・

感動みたいなものはないんです。女優さんがたくさん出るんだけれども、
みんなストーリーに乗ってストーリーを展開していくっていう演劇スタンスなので、
「自分をさらけ出す」的なものはなくて、日常女子が日常女子の枠内でパフォーマンスを繰り広げる。
「彼女たちの場合」みたいな具体的な深さは追及されません。
女子の日常について、普通みんなが想像できることが芝居の「素材」です。
そのレベルでは観客の「知らないこと」というのはほとんどない。
観客が「知らないもの」はストーリーだけです。
そのストーリーのミステリー性が、芝居全体を支えています。

テレビドラマなんかだと、テレビの前を離れれば、
すべては夢のように消えて、ほとんど思い出すこともない。
それが、『そして彼女はいなくなった』の場合は、昨日の今日こうして思い出すと、
ああ、あそこに僕がいたんだ、っていう、そういう場所として、体験として、思い出せる。
夢ではなく現(うつつ)として甦ります。
で、それはすごいことなんだと思う。やっぱり、演劇という体験なんだと思う・・・

僕が初めて見たプロのお芝居は、中学生の時、『森は生きている』というロシアの児童文学作家の書いた戯曲を、東京から来たお兄さんやお姉さんたちが演じたものです。僕は田舎に住んでいました。
殺風景な学校の体育館で、ロシアの森の冬を生きている役者さんたちにびっくりしました。
体育館の床に体育座りをして、やはりロシアの冬の森にいた僕たち自身にもびっくりしました。
ああ、これが芝居なんだっていう・・・

演劇っていろんなものがあって、とにかく人々が演劇を見に来るっていうことがいいんだよ・・・って思います。

それに、舞台の真中に食卓を置かない、っていう演劇の方向性がなによりもすばらしい。

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ロメオ・カステルッチ 『神曲3部作』のうち『煉獄篇』 [見た芝居]

フェスティバル・トーキョー(F/T)のプログラムのひとつ、ロメオ・カステルッチの『神曲3部作』のうち『煉獄篇』を、世田谷パブリックシアターで見てきました。

『地獄篇』、『天国篇』と見てきた流れで、期待が大きすぎたのかもしれませんが、
『煉獄篇』にはちょっと失望しました。

振り返れば、もちろん、面白い要素がたくさんあります。
コンセプトとかアイデアとかはとても面白い・・・
ので、そのレポート。

最初にちょっと、なんで失望したのかについて簡単に・・・

『煉獄篇』は3つのパートに分かれています。
パート1が、「近代リアリズム家庭劇」的な仕立て。
パート2が、動くインスタレーション(?)的なヴィジュアル・シーン。
のぞき眼鏡、ステレオスコープ、万華鏡などなどイリュージョン系の光学装置がいろいろありますが、
そういう不思議な装置のひとつを通して見た幻想的イメージ。
パート3は、『地獄篇』を思い出させる、コンテンポラリーアートとコンテンポラリーダンスと
コンテンポラリーミュージックをミックスしたようなコンテンポラリーなパフォーマンス。

それで、パート1は、「近代リアリズム家庭劇」のパロディーとか、そういうものではなくて、むしろ「近代リアリズム家庭劇」をシリアスに徹底的に演じなければいけないパートだと思うんですが、そこのところのパフォーマンスの質がすごく低いんですよ・・・

なにかぜんぜんべつの演劇原理によってつくられているのかなとも考えてみるのですが、
やっぱり、芝居が下手・・・としか思えなくて、それで気持ちが離れてしまいました。
気持ちがついていれば、パート2やパート3は面白かったんだろうと思います・・・

芝居が下手・・・に見える・・・理由はきっといろいろあるんだと思います・・・
フェスティバル・トーキョーっていう枠とか、
トーキョーの観客のために英語上演が選択されたとか、
それで、このダイアローグ、このキャスト・・・

違う状況ではまったく違う芝居になるかもしれない・・・


それで、パブリックシアターの『煉獄篇』はどういう芝居だったかというと・・・

いわゆるドラマ的なストーリーがあります。
父親が息子(小学生くらい)を性的に虐待する話がパート1。
息子はその虐待体験を越えて幸福になれるかと見えて、やはりその記憶に悩まされつづける、
というのがパート2・・・というか、たぶんそういう話。パート2以降は、それほどはっきりとは物語が見えない。
成長した息子は、虐待の連鎖の中で、「子供」よりさらに弱い存在としての障害者を虐待する。
障害者に父親の格好をさせて・・・というのがパート3。

パート2では、大きな円形の「のぞき眼鏡」の向こうに、美しい・・・と言っていいかどうかわかりませんが、まあ、アート的な、アート的に美的な花々のイメージが展開します。
カステルッチによれば、花々は、ダンテ的煉獄の「地上の楽園」に共鳴するらしい。

さて、パート1は奇妙な二重構造になっています。

ひとつの物語が舞台上で、まあ、フツーの芝居的に展開します。
一方、舞台前面を覆う透明なスクリーンには、もうひとつの物語が
字幕テクスト(日本語)で映し出されます。
ふたつの物語は微妙に似ているのだけれども、決定的なところで異なっている。
もとは同じ物語の別バージョンというわけです。

母親が夕食の準備をしています。
子供は「あのひと」(父親)が帰ってくる時刻が近づいたので脅えはじめます。
父親の虐待を黙認している母親は、夫の共犯者でもあるので、子供の脅えに対してなにもすることができない・・・

字幕テクストは、はじめ劇の流れをなぞる形で展開しますが、
虐待シーンでは、虐待などどこにも存在していないというように、
幸福な家族の団欒を語りはじめます。
字幕はまさにスクリーンとなって虐待を覆い隠すのです。

事実を隠蔽するためのディスクール、
言葉のスクリーンとしてのもうひとつの物語・・・

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ロメオ・カステルッチ 『神曲3部作』のうち『天国篇』 [見た芝居]

IMG_0184_edited-1.jpgフェスティバル・トーキョー(F/T)のプログラムのひとつ、ロメオ・カステルッチの『神曲3部作』のうち『天国篇』を見てきました(『煉獄篇』はまだ見ていない)。

場所は西巣鴨。
廃校の中学校の一部を改造した「にしすがも創造舎」というところ。改造したと言っても建物全体には学校の雰囲気がそのまま残っているので、芝居を見に来たというよりは、ちょっと選挙の投票にでも来た感じがします。
写真は、デザインコンセプト的に明らかに周りから浮いていた当日券売り場。

『天国篇』は、パンフなどによれば、
「ライブ・インスタレーション」あるいは「展示形式のパフォーマンス」。

「ライブ・インスタレーション」ってなんだってことですよね・・・
これが、まあ、インスタレーションって言われるとインスタレーションなんだけれど、
パフォーマンスだって言われればやっぱりパフォーマンスで・・・

僕はこれを芝居として見てきました。
そして、芝居として見て、すごい。
うーん、すごいって、うなります。

これは必見。
21日(明日)までやっています。
ただのインスタレーションではないので、要予約ですが、当日券も出ています。

「鑑賞」の時間はひとり5分が「目安」・・・とされているけれども、
5分経ったら追い出されるというわけでもなく、
自分のペースで見ることができるようになっています。
芝居の長さが自分で自由に決められる芝居、と言えるかもしれない・・・

芝居の場合、じっと座っている観客の目の前で、芝居が展開されていきます。
まあ、時間的に展開されていくわけです。
観客は動かない。

インスタレーション形式の場合には、観客は空間の中を思い思いに移動しながら「鑑賞」します。
その空間移動が、時間軸上では、時間の経過として積み上げられていく。
観客によって順路は一様ではありません。歩くスピードも違う。
立ち止まって耳を傾けたり、天井を見上げたりする・・・

インスタレーションの全体像というものはすぐには見えてきません。空間はいつも断片的にしか体験できない。私は空間の全体像をとらえようとして移動しているのだ、と考えれば、すべては空間の問題であって、時間は関係ないようにも思えます・・・

カステルッチの『天国篇』では、この空間の真ん中にブラックホールのようなところがあり、
そこで「天国」のパフォーマンスが休むことなく演じつづけられています。
私がいまどこにいようと、その黒い中心で演劇が行われているわけです・・・
いまどこにいようと、私はすでに演劇の中に巻き込まれている、と言っていいかもしれません。
私のたどった順路が、私の立ち止まった時間が、私の触った白い壁が、いつの間にか、
私自身の『天国篇』をつくりあげようとしている・・・

私が移動しているという「地動説」から、空間が移動しているという「天動説」へ、
自分のポジションをスライドさせれば、インスタレーション全体が一瞬にして舞台に変容します。

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ロメオ・カステルッチ『神曲3部作』のうち『地獄篇』 [見た芝居]

演劇祭フェスティヴァル・トーキョー(F/T)のプログラムのひとつ、
ロメオ・カステルッチの『地獄篇』を、池袋の芸術劇場(中ホール)で見てきました。

悲しく、そして美しく、
涙がほろほろと頬を伝い、
僕の鼻炎的鼻はまたぐずぐずとむずかるのでしたが・・・
いえ、鼻水くらいなんのその、
すばらしい芝居だったのです。

そのすばらしい芝居の、遅ればせレポート。
「遅ればせ」というのは、『地獄篇』はこの14日でとっくに終わっているので・・・
でも、『煉獄篇』と『天国篇』はまだこれから、
そっちも、きっとすばらしいと思う。

IMG_0183_edited-1.jpgカステルッチの『地獄篇』は、ダンテの『地獄篇』を劇化したというよりは、そこからインスピレーションを受けてつくられた新しい舞台劇。オリジナルとはぜんぜん違う世界をつくりあげながら、なお、これってやっぱりダンテの『地獄篇』だよね、と思わせる、不思議な説得力を持っています。

ダンテの『地獄篇』は、ダンテ(作者兼主人公)が、
古代ローマの詩人ウェルギリウスに助けられながら、地獄めぐりをするという話。
カステルッチの『地獄篇』では、
ロメオ・カステルッチ(作者兼演出家兼俳優)が、あるミッションを自らに課します。
それは、新時代のダンテとなること。
現代の地獄を生きなおし、描きなおすこと。
ミッション・インポッシブル・・・

カステルッチが舞台上に現れ、「私はカステルッチです」と日本語で言います。それが開始の合図。
間もなく、恐ろしい森の獣たちがダンテの前に現れたように、
3匹のシェパードがカステルッチに襲いかかり、噛みつき・・・
はい、ほんとうに噛みつきます(ただし、カステルッチは訓練用の防護服を着ているので、怪我はしない)。

カステルッチの『地獄篇』で、ウェルギリウスの役を任されるのは
ポップアートのカリスマ、アンディ・ウォーホール。

コンテンポラリー・アートとコンテンポラリー・ミュージックとコンテンポラリー・ダンスをミックスしたような思いっきりコンテンポラリーな演劇パフォーマンスです(初演は2008年のアヴィニョン演劇祭)。


観客というINFERNO
開演前の舞台には白い煙が立ち込め、舞台前面横一列に並べられたアルファベットの文字が、
電気的ノイズとともに、壊れたネオンのように点滅します(写真)。
文字は裏返しの“INFERNO”(「地獄」)。
裏返し、つまり、舞台側から見るのが「正しい」向き。
観客に見えるのは文字の裏側。文字の側面が点滅するので光っているとわかります。
舞台上に役者がいて(まだいないのだけれど)、客席側を見れば、
“INFERNO”という文字の向こうに観客が座っていることになる。

これは・・・

芝居が始まって、かなり早い段階で舞台上に大きな鏡が持ち込まれます。
短い時間ですが、そこに観客の姿が映し出される。
観客が「地獄」という文字の向こうに自らの姿を見る、というのが、
たぶんこの「裏返し」の意味。

現代の「地獄」とはなにかと問えば、それはもうダンテの時代とは違って、
中世キリスト教世界観に「安住」しているわけにもいかないわけで、
「地獄」とはまさに私たちが生きているこの世界・・・と答える以外にほとんど選択肢はなく・・・
従って、“INFERNO”というタイトルのもとで、これから舞台上に展開されるのは、
舞台の外でいま私たちが生きているまさにこの世界の演劇的イリュージョン。
舞台は世界の鏡・・・ということになります。

実は、この鏡のシーンでは、もうINFERNOの文字は舞台上にはありません。
今回僕が見た演出では(パンフレットの写真を見ると、いろんな演出パターンがあるようです)、
開演前にスタッフが文字を片づけてしまうので、鏡のシーンでは、私たちは、
すでに存在しないINFERNOという文字の記憶に頼るしかないのですけど、
舞台上にはコーテーションマーク“ ”だけが片づけられず残されていて、
こちらは最初から客席側を向いて光っているということもあり、
不在の文字の存在をいつも観客に思い出させます。

私たちがつくりあげる私たちの地獄、
私たちが破壊しつづけるこの世界という地獄・・・

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リュック・ボンディの『恋のサプライズ2』 [見た芝居]

思うに、『チャイニーズスープ』を見に行ったのがとても寒い日だった、
というのがそもそもの始まりです。
風邪をひきました。
一度風邪をひくと、ずるずるといつまでも長引くというのが
(「ずるずると」は鼻水の擬音とかかっている)、
ほぼ一年中なにかの花粉症に苦しんでいるこのあわれな鼻炎的人間の宿命で、
ブログの更新もできずにおりました。
カムバックです。

カムバック第一弾は、
ストレーレルの『奴隷の島』とならんでわが記憶に残るマリヴォー劇もうひとつ、
リュック・ボンディの『恋のサプライズ2』。
その回想レポートです。

IMG_0315_edited-1.jpgリュック・ボンディの『恋のサプライズ2』については以前にも少し触れました(「マリヴォー『奴隷の島』3」)。2007-2008 のシーズンにテアトル・デ・ザマンディエでかかって、大人気を取り、2008-2009 のシーズンには、ピーター・ブルックの劇場ブッフ・デュ・ノールで再演された、とその時にご紹介しました(写真はテアトル・デ・ザマンディエのエントランス・ホール)。

で、その時、リュック・ボンディをドイツ人と書いてしまいましたが、
間違いです。すいません。
『恋のサプライズ2』の上演パンフなどを見返したら、
スイスのチューリッヒ生まれと書いてありました。
ドイツ語圏の人間であることには違いないのですが、スイス人。
しかも演劇教育はフランスで受けている(ジャック・ルコックの演劇学校)ので、
フランス語もかなりできるかもしれない。
ただ、20歳を過ぎて演出家としての本格的キャリアが始まるのはドイツです・・・
というわけで、僕はどこかでドイツ人と思いこんでしまったようです。

あっ、それから、今年パリのオペラ座で上演されたモーツアルトの『イドメネオ』は、
2006年パリ・オペラ座初演のものの再演らしい、という情報も追加。
『イドメネオ』は、さらに来年の1月から2月にかけて、パリ・オペラ座で再再演される予定。

オペラと言えば、さらには、
今年の9月に、ボンディはニューヨークのメトロポリタンで
『トスカ』を演出して、大変なブーイングを浴びたとのこと。
もっとも、メトロポリタンの初日ギャラに集まる観客というのはそうとうな「アホ」らしいということで、この問題は片付けていいようです。
『トスカ』はミラノのスカラ座で再演されるとのこと・・・

さて、話をもどして・・・

『恋のサプライズ2』の二人の主役は、夫を亡くしたばかりの侯爵夫人と、恋人を失くしたばかりのシュヴァリエ(騎士)。二人ともまだ若いのに、残りの人生をひたすら、失った愛の悲しみのうちに生きようと決心している。
侯爵夫人とシュヴァリエはいかにもお似合いのカップルのようだけれど、二人とも愛だの恋だのとはすでに縁を切ったつもりになっているから、両者の間には、原則的に、愛が生まれるはずはない。
ああ、でも、お互いの悲しみのことを語り合うにはちょうどよいお相手・・・
と考えているところから友情のようなものが生まれ、
やがてそれが愛情のようなものに変わっていく。

あるいは、これは男女の友情が徐々に愛に変わっていくプロセスというよりも、
二人とも最初から互いに愛を抱いているのに、二人とも絶対それを友情としか認めようとしないんだよ・・・というふうにも読むことができて、
リュック・ボンディの演出はむしろそちらのようだったような気がします。

さて、侯爵夫人にはリゼットという小間使いが、シュヴァリエにはリュバンという従僕がいます。
この二人は互いに惹かれ合っている。
シュヴァリエが、田舎で隠遁生活をおくるつもりだなどと言っているから、
そんなことをされたんじゃ、俺たちもう会えなくなるよというので、
なんとか侯爵夫人とシュヴァリエをくっつけちゃおうと、いろいろ画策します。

さらに侯爵夫人とシュヴァリエの間に伯爵が割り込んできます。
俺さ、侯爵夫人を愛してるから・・・シュヴァリエ君はさ、友情しか感じてないんだろ。
だったら俺の愛の成就のために協力してくれ・・・みたいなことになって、話がややこしくなる。

さらにさらに、オルタンシウスという偽学者兼偽詩人が、侯爵夫人の家庭教師兼カウンセラー的なポジションにいて、侯爵夫人の悲しみをいわば食い物にしている。
こちらは、侯爵夫人がいつまでも喪に服していてくれれば好都合ということで、
彼の怪しい利害関係を主人公たちの感情問題の中に持ち込みます。

キリスト教的シチュエーションだと、この役どころは、
タルチュフみたいな偽善的な宗教家といったことになるのでしょうが、
マリヴォー的世界には、そういう宗教性はぜんぜんなく、
オルタンシウスのカウンセリングのベースはもっぱら古典古代の書物。
侯爵夫人も、従って、信仰心の篤い未亡人といった、わりとありがちのキャラクターではなくて、
なんと、彼女は、彼女の抑圧された「欲望」を「理性」でコントロールしようとするのです・・・
まあ、リゼットも観客もそんなことは初めから無理だと思っているのだけれど・・・

というわけで、18世紀の喜劇ですから、そういう18世紀的枠組みはあるのだけれども、
演劇としての「現代性」みたいなものは、この簡単な紹介からもすでにさまざまに感じられるのではないかと思います。

リュック・ボンディが、舞台の上に繰り広げて見せてくれるものも、
18世紀的「時代劇」ではもちろんありません。
それはいま生きているもの・・・

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柴幸男演出 『チャイニーズスープ』 [見た芝居]

アゴラ劇場に『チャイニーズスープ』という芝居を見に行ってきました。
平田オリザ作、柴幸男演出です。

11月10日にベルリンの壁崩壊から20年をむかえたばかり。
ちょうどその旬の素材を使って美味しく・・・みたいな軽い作品。

ベルリンの壁崩壊で職を失った東西ドイツのスパイ二人。
あれから20年後、二人はチャイニーズスープをつくりながら、
思い出を語ったり、古い秘密を暴露したり、スパイの現在を嘆いたり・・・

元東ドイツスパイを演じる土井通肇さん(現在70歳だそうです)が、
なんとも言えないいい味のスープをつくっている。

台本は平田オリザ。
テーマが微妙ではあるんですが、
『ヤルタ会談』のように、才に走って野暮になるというところはまぬがれて・・・

これを『わが星』の柴幸男が演出しています。
パンフレットによると、二人でスープをつくるというのは彼の演出らしくて、
イスタンブールの海辺のテラスっていう場面設定とは完全にちぐはぐなんですけど、
これがすばらしい。

舞台の上でジャガイモを切って、玉ねぎを刻んで、人参の皮をむいて、
卓上コンロに火をつけて、大鍋をのせて、
その中に、ジャガイモを入れて、人参を入れて、玉ねぎを入れて、
それから、ジャガイモの皮と人参の皮と玉ねぎの皮を入れて、
それから、まな板と包丁とフライパンも放りこんでしまう。
さて、なにができるやら・・・

けれど、柴幸男演出の最大のポイントは、ひょっとすると、
開演前にあるのかもしれない。

彼は開演前に舞台に現れ、携帯電話を切ってください、などなど、一通りのルーティーンを述べたあと、
自己紹介をして(ここで拍手がわきます)、それから、あそこに座っているおじさんは・・・と、
登場人物から、シチュエーションまで、すべて説明してしまうのです。

言い忘れましたが、二人の元スパイのうち元東ドイツのスパイの方は、
芝居が始まる前から舞台上の椅子に腰かけてパイプを吸っています。

で、これは・・・
状況は絶対説明しない、話のラインは台詞の端々から少しずつ描き出されてゆくのだ、っていう
平田オリザの「リアル」な作劇術を最初からぶち壊しにしているわけです。

面白いでしょう?

あと、50歳と70歳の俳優に27歳の演出家っていう、これが魅力的です。
若者たちでつくる芝居も魅力的だけど、こういうミックス感がなんとも新鮮。

夜の8時に始まって9時に終わる、
「ほのぼの」と形容していいのかわからないけれども、
まあ、寒い夜に温かいチャイニーズスープもいいよ、っていう芝居でした。

IMG_0175_edited-1.jpgというわけで、写真はストーブの炎にぽかぽかしている、アゴラ劇場の待合室。

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「サンプル」 の 『あの人の世界』 [見た芝居]

09-11-08_003.jpgいま、「フェスティヴァル・トーキョー」、略してF/Tという演劇祭が開かれています。そのプログラムのひとつ、「サンプル」の『あの人の世界』(作・演出:松井周)を、池袋の芸術劇場小ホール1に見に行ってきました。(写真は芸術劇場の入り口にあったF/Tのマーク)

僕としては、見終わった時点ではビミョーな感じだったのですが、振り返ってみれば魅力的なシーンも少なくなかったような気もします。その僕なりのレポート・・・

松井周という人は「青年団」出身の劇作家・演出家で、平田演劇の世界とはまた違った方向にその演劇活動を展開する新世代のひとりらしいです。なので、俳優さんたちもアゴラ劇場で見かける人たちがたくさん出ています。

「青年団」系新世代というと、最近、柴幸男『わが星』を見て、その強烈な記憶が残っているので、なにか自然と比較して見てしまうのですけれど、
『わが星』が計算されたリズムとムーヴメントの中に展開されていたとすると、
『あの人の世界』は美しい静止画で組み立てられた世界という印象です。

多用な要素をわっと放り込んであるので、舞台はちょっとカオス的な感じにも見えるのですが、
また、役者たちは舞台上を派手に動き回り、大声で叫んだりもするのですが、
芝居を小さなセクションに区切って見れば、セクションの中ではいつもどこかで、
とても美しい図柄が出来上がっている。
これをひとつずつ写真にとって並べれば、きっと魅力的なアルバムが出来上がるに違いない。
もちろん芝居だから、完全な静止画ではなくて・・・
デジカメだと10秒とか20秒の動画が取れるから、むしろそっちの方だろうか。
台詞と動きがついて、歌舞伎の「ミエ」みたいにそこでいったん静止するわけではないけれど、
ああ、きれいにまとまった、ああ、またきれいにまとまった、っていう、
そういうシーンがつぎつぎとつくられているのです。

どのような要素が、そういう美しい図柄を舞台上につくるのかというと・・・

チラシには散らかった室内の写真とかが載っていますが、チラシの写真はすべてなぜか『あの人の世界』とはまったく関係のない、たぶんぜんぜん別の芝居らしい。

『あの人の世界』の舞台は2層構造になっています。
上の層は、客席から見上げるくらいの高さに、渡り廊下風の空間が舞台を横切っている。
そこでペットの犬が死んで以来うまくいかなくなった夫婦が食卓を挟んで、
そのいかにもうまくいってない感じのやり取りをします。
犬が死んで以来うまくいかなくなった・・・は台詞の中に出て来ます。
いや、どう見ても、犬が死ぬ前から君たちうまくいってなかったでしょう、っていう夫婦なんですけど・・・

食卓・・・新世代の演劇に、食卓はやっぱり必須アイテムなのでしょうか?

あっ、芝居のプロローグ部分では、まだ食卓ではなくて、墓地のシーンです。
夫婦は客席側を見て手を合わせたりするので、
ここでは観客が死んだペットとして、芝居の片棒を担がされます。
僕はいきなりだったので、死んだペットを演じ切れませんでした。

で、2重になった下の層では、ペットつながりで、いろんな「動物」が登場します。
「動物」といってもそれぞれ犬やウサギの耳をつけた人間・・・なのか、
擬人化された動物なのか・・・あるいは、同時に人間で動物なのか・・・
いずれにしても、イメージ的には、松本大洋の『鉄コン筋クリート』(漫画です)、
あれは「鳥人間」ですけど、まあ、ああいう感じ。

その「動物人間」が、時には、ホームレスに展開したり、
ダンスに青春を賭ける若者になったり、
実験動物になったり、捨てられたり殺されたり・・・
(上に不仲の夫婦がいて、下に「動物人間」がいるから、ちょっと『真夏の夜の夢』的な感じもする。)

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黒澤世莉『スモールワールズエンド』 [見た芝居]

09-10-26_004.jpg「時間堂」公演smallworld’send(黒澤世莉演出)の本番を、この月曜日ようやく見ることができました。と言っても、18時から始まる第1部には間に合わず、第1部が終わったところからの観劇でしたが・・・

この公演は3部に分かれていて、
第1部『星々を恐れよ』(アゴタ・クリストフ、60分)、
第2部『工場のもめごと』(ハロルド・ピンター、5分)、『熊』(チェーホフ、35分)、『かんしゃく玉』(岸田國士、15分)、
第3部『奴隷の島』(マリヴォー、70分)、
途中15分ほどの休憩を2回はさみます・・・

と、これはBプロの方で、Aプロだと、上演順序がこれと正反対になります(第2部の中でも順番が逆になる)。月曜日はBプロだったので、第1部に遅れた僕は『星々を恐れよ』を見逃したことになりますが、これは、あらためて見に行くことにします。

見逃しちゃもったいないでしょう・・・って、普通ならそうなんですが、実は、この公演については、むしろこういう見方が公演コンセプトの中に組み込まれています。

短いとはいえ5篇の芝居、休憩を含めて4時間かかります。いっぺんに見ようとすればそれはなかなか大変。
そういうプログラムをわざわざ組むというのには、
好きなときに来て、その時やってる芝居を見て、また好きなときに帰る、
見なかったところは、またこんど来た時に見ればいいよ・・・っていう、
そういう芝居のあり方もいいんじゃない?
そういう芝居の見方もありなんじゃない?
というコンセプトが基本にあるからです。
好きな時と言っても、まあ、実際には、最初からじゃなければ、途中2回の休憩の間なんですけど・・・

芝居を見たいなと思ったときに、ふらっと出かけていく場所。
行くたびに、いくつもの芝居たちが、あたたかく、人なつっこくむかえてくれる場所。
それが『スモールワールズエンド』。小さな世界の果て・・・

そういうコンセプトですから、料金の方も、2回目以降は1000円という割引料金が設定してあります(1回目の切符を持っていってください)。毎日のように顔を見せる「常連さん」もいるらしい・・・

「小さな世界」の「人なつっこさ」をとりわけ感じさせてくれるのが、休憩時間。
一幕というのか、ひとつの部(1部、2部)が終わると、舞台の上にふたつの大きな衣装スタンドがごろごろごろっと登場します。カラフルな衣装がずらりと並んでいる。俳優たちはそこから、次の芝居の舞台衣装を選んでざわざわと着替えを始めます。キャンディとビスケットの籠をもって客席を回っているスタッフ。長丁場なのでどうぞ、甘いものを・・・
トイレに行きたい観客は、トイレが舞台の向こう側にあるので、動き回る役者たちとクロスする・・・

上演中は飲み食い自由で、キーワードはリラックス。
舞台は平土間、床にブルーのテープで境界線が引かれている。その境界の内側でやがて静かに劇が始まる。境界の外はすぐに現実空間。出番を待つ役者たち、舞台から「下りた」俳優たちが、色とりどりのクッションの上に座っている。

客席は平土間から3、4段の階段をつくって上っていきます。振り返れば王子の街が見える。会場の「王子スタジオ1」はガラス張り(写真)。行き交う車の音と、人の声が、役者たちの声と重なる・・・小さかった頃のお祭りを思い出す・・・

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ストレーレルの『奴隷の島』 [見た芝居]

ストレーレルの『奴隷の島』を見たのは、いまからもう10年以上も前、1995年のことです。
パリのオデオン座という劇場でした。

写真に写っているのがそのオデオン座ですが、
この写真は2年ほど前に撮ったもので、当時のものではありません。
1995年当時といえば、まだデジカメもない時代で、カメラを持って歩くという習慣もありませんでした。
デジカメがなかったなんて・・・やはり、ずいぶん昔のことですよね。
IMG_0227_edited-1.jpg
ストレーレルの『奴隷の島』はイタリア語で上演されました。

ストレーレルは、ご存知の方も多いと思いますが、
イタリア人の演出家で、ミラノ・ピッコロ座の主宰。
1997年に亡くなっています。
僕が『奴隷の島』を見た2年後ということになります。

亡くなっていますが、ゴルドーニの
『アルレッキーノ――二人の主人を一度に持つと』の演出などは、「定番」として残されていて、この夏に世田谷のパブリックシアターでも上演されました。
ご覧になった方もおられるでしょう。

パブリックシアターの公演では字幕が付いていましたが、
オデオン座の『奴隷の島』には字幕がありませんでした。
だから、ストレーレルの『奴隷の島』がどこまで「わかった」のかはわかりません。
でも、それは素晴らしかったのです。

あまりに素晴らしかったので、もう一度見に行きました。
どうしてそれが可能だったのかはよく覚えていません。
芝居は大人気を集め、僕が一回目に行ったときに、すでに、
劇場が用意したパンフレットがもうなくなっていたくらいでしたから・・・

あのイタリア語の『奴隷の島』との出会いがなければ、
このフランス古典喜劇を日本語に訳そうなどと思うこともなかったはずです。
ストレーレルの演出のどこがそれほど素晴らしかったのか?
それを思い出そうとしますが、
10年以上の時が経って、記憶はあまりはっきりしません・・・

舞台は質素なものでした。舞台装置というようなものはなかったと思います。
衣装も地味なものだったと思う。昔の川久保玲くらいの地味さ加減だった・・・ような・・・

衣装それ自体より、舞台の上で衣装を取り替えることが演出の大きなポイントで・・・

この芝居では、主人と召使いというペアが、男子ペア、女子ペアのふた組でてきます。
乗っていた船が難破して、4人は「奴隷の島」に流れ着く。そして、
島のルールにより、それぞれ、主人と召使いという権力関係が逆転することになる・・・というのがストーリー。
権力の逆転は、主人と召使いが来ている服を取り替えるということで明確に視覚化されるわけなんです。

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柴幸男 『わが星』 [見た芝居]

日曜日に、青年団リンク「ままごと」の『わが星』を三鷹の芸術文化センターというところへ見に行ってきました。
09-10-11_002.jpgこれ、ものすごく面白かった。絶対おすすめ・・・って、12日でもう終わってるんだけど・・・ごめん・・・
作・演出、柴幸男さん。
青年団関連の芝居で、久しぶりに熱くなったかも。世田谷パブリックシアターで、フィスバック(フランスの演出家)が演出した『ソウル市民』(平田オリザ)を見たとき以来のような気がする・・・

写真は、芝居が始まる前の場内。なんか宇宙的に見えないですか?って、ちょっと無理やり・・・
でも、宇宙的な芝居だったんですよ。
舞台はなくて、劇場空間を観客がぐるっと取り囲む感じ。
その真ん中で役者さんたちが惑星みたいにぐるぐるぐるぐる回りつづける芝居。


僕はいま、演劇の翻訳をやってるので、芝居づくりのことなど知りたいと思って、
夏休みに、池袋のコミ・カレというところで演劇のワークショップに参加しました。
その時の講師の一人が柴幸男さん。すごい感じのいい人で、
こんな才能ある人とは知らなかった。
いや、これら二つって、べつに相反するものではないんだけど・・・すいません・・・

その時ワークショップでやったのは、舞台上を二人の人間がずうっと歩きつづけるというパフォーマンス。
先頭を歩いている人が舞台から消えると、反対側からべつの人が入ってくる。
いま舞台から消えた人と、いま入ってきた人は、もちろん違う人だけれど、芝居的には同じ役を演じている。
いま前を歩いている人は、いま入ってきた人の後ろを歩いているという趣・・・
わかる?・・・

で、いま前を歩いている人が舞台から消えると、反対側から、またべつの人が入ってくる。
いま舞台から消えた人と、いま入ってきた人は、同じ役を演じている。
いい?・・・

というわけで、舞台上では、同じ二人の人物(役)が、いつまでも歩きつづけながら二人でずうっと話しつづける・・・

ところが、僕には何回やってもこれがうまくできなかった。
僕が普通に持っている「演劇」のイメージとはなにか異質のものなんですよ。
やってることの意味がぜんぜんわからない、みたいな・・・

その時に、柴さんがこの『わが星』の宣伝をしていたので、
やってることの意味がぜんぜんわからないなりに、
面白そうだったので、見に行ってみることにしたのです。

その『わが星』レポート・・・

カウントダウン
最初にステージマネージャーみたいな人が登場して、
「芝居は、途中4秒の休憩をはさんで80分。では、あと4秒で明かりが消え、芝居が始まります」
みたいなことを言います。
そして、4秒のカウントダウン・・・そして、真っ暗になる。

闇から生まれたように現れる8人の役者たち
(7人だったかも・・・そこんとこ重要なんだけど、数えてなかった)。
芝居の始まりは、宇宙の誕生。ビッグバン・・・

というよりも、この芝居、基本的に天動説を採用しているので、
宇宙の誕生とは地球の誕生。
4秒のカウントダウンののちに宇宙(地球)が生まれ、
生まれると同時に、消滅(芝居の終わり)に向かって
80分のカウントダウンが始まる。

時を刻むのはリズム。音楽の早いリズム。
時には時報の音になり、時には心臓の音になる。

円環の時間と直線の時間
役者たちは地上に描かれた円のまわりを回りはじめます。
物理的法則に従って回る惑星のように、
ラッシュアワーの山手線のように。

二人が輪を抜けて中心に近付く、彼らと入れ違いに、
べつの二人が輪を抜けて輪の中心に近付き、
中心から離れた二人は、回りつづける輪の中に戻る。
その完璧なタイミング。シンクロ・・・
『青木さん家の奥さん』に欠如していたスキル。高い高いスキル。
これだけで芝居終わっちゃっても、かなり満足して帰っちゃうぞ、くらいのパフォーマンス。

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ポール・クローデル『パルタージュ・ド・ミディ』 [見た芝居]

ワイル/ブレヒトのオペラ『七つの大罪』につづいて、この夏に見てきた芝居のレポートです

パリの演劇シーズンは9月下旬あたりから本格的に始まります。それにはビミョーに間に合わずの帰国・・・ただ、マリニー座で、一足早く、ポール・クローデルの『パルタージュ・ド・ミディ』(『真昼の分嶺』)がかかって、これを見てくることができました。
IMG_0120_edited-1.jpg写真はマリニー座入り口横の垂れ幕。『パルタージュ・ド・ミディ』の舞台写真が、ちょっと見にくいけれど・・・第1幕の舞台です。右端の赤いドレスの女性がマリナ・ハンズ。

2007年のコメディー・フランセーズのプログラムの再演。映画『レディ・チャタレー』でタイトル・ロールを演じたマリナ・ハンズがイゼという登場人物の役で出ています(女性の登場人物はこの一人だけ)。そして、このマリナ・ハンズがすごかった・・・(ちなみに、上演台本は1905年バージョンとプログラムにあります。)

個人的には、ポール・クローデルにはほとんど興味がなく、『パルタージュ・ド・ミディ』もテクストは読むには呼んだのだけれど、なんか「カト」(フランス語で「カトリック」の悪口を言うときの言い方)で抹香くさいし、台詞も、台詞だかお経だかわからんし、みたいなことで・・・
(お経じゃなくて詩ですか?すいません。)

じゃあ、なんでおまえ見に行ったんだという話なんですが、
近年クローデルの芝居の新演出がよくかかって、見た人が、
面白い、面白い、えっ、クローデル面白いですよ、と言うので、気になってました。

2008年の『スワッピング』という芝居が、『パルタージュ』と同じ演出家イヴ・ボネーヌで面白かったらしいし、それから『サテンの靴』という長い長いクローデルの戯曲があるのだけれど、
やはり去年(今年になって再演もあった)、いまのオデオン座の芸術監督でなにかと話題の
オリヴィエ・ピーという人が、昼過ぎに始めて夜中までというほとんど歌舞伎の通し狂言一挙上演みたいなことをやって、これがおそろしく面白くもまた美しかったらしい。

というわけで、『パルタージュ・ド・ミディ』を見たらこれが素晴らしかった。
面白かったというだけではなくて、きわめてレベルの高いパフォーマンスを目の当たりにした時の
熱い高揚感・・・っていうんでしょうか・・・

マリナ・ハンズはもう「コメディー・フランセーズ」の団員ではないのですが、
マリニー座は民間の劇場なので、それで、逆に、2007年の「コメディー・フランセーズ」の
新演出初演時のメンバーがそっくりそろうことができたということでなのでしょう。

配役は
メザ役がエリック・ルフ
ド・シーズ役がクリスチャン・ゴノン
アマルリック役がエルヴェ・ピエール
で、この3人は「コメディー・フランセーズ」のメンバー。

これにマリナ・ハンズです。


舞台は、写真でわかるように(・・・って、ちょっとビミョーですが)、非常にシンプルなつくりです。
第1幕は南の海上を進む客船の上。甲板から斜めに伸びるロープが象徴的な舞台装置。

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『青木さん家の奥さん』 [見た芝居]

SANY0070_edited-1.jpg昨日、駒場の「アゴラ劇場」で『青木さん家の奥さん』という芝居を見てきました。
平田オリザ演出、劇団「青年団」の公演です。
(写真は「こまばアゴラ劇場」。ちょっとピンぼけ。)

平田オリザという人は劇作家なので、基本的には自作の演出をします。
ただし、今回は、大阪の「南河内万歳一座」という劇団の出し物で、
その主宰である内藤裕敬という人の戯曲を平田風に演出して見せるという企画です。

これは、企画としては、実は、もう少し大きな企画の一部で、
平田オリザの演出で「青年団」が内藤裕敬の戯曲を演じ、
内藤裕敬の演出で「南河内万歳一座」が平田オリザの戯曲を演じる、
これを大阪と東京でいっぺんにやる、というのがその企画の全体であったようです。
大阪公演は「精華小劇場」というところ、東京公演が「こまばアゴラ劇場」です。

「南河内万歳一座」がやったのは、『S高原から』という戯曲で、
これは見そこないました。(平田自身の『S高原から』は何度か見ていますけど。)

僕は、日本の演劇事情、演劇シーンというものにあまり詳しくはないので、
というか、ほとんどよく知らないので、
「南河内万歳一座」の芝居は見たことがなく、いえ、名前も知りませんでした(すいません)。
いまは、「南河内万歳一座」の『青木さん家の奥さん』をぜひ見てみたいと切望しています。

企画ということでいえば、この企画が成功するしない以前に、
この企画を実現するということがかなり意味深いものである・・・らしい・・・
ということを、日本の演劇事情をよく知らない人間なりに、感じとることはできました。

僕はいま、18世紀フランス古典喜劇を翻訳して、これを日本の普通の領域というか、
日常レベルというか、そういうところに広めようと考えている。
で、実際の芝居作りのことについても知らなければならないと思い、ワークショップに参加したり、
演劇をやっている人たちの話を聞いたりします。

その時の僕の基本的な「問い」みたいなものがあって、それは、

1) 例えばフランスで芝居を見に行くと、若い人、若くない人、家族連れ、仲間同士、
カップル、ひとり者、僕のような外人、エトセトラ、エトセトラ・・・とにかくいろんな人が
一つの劇場に集まってくる。日本ではなぜ、ある種の年齢層とか、ある種の人々しか
劇場の客席にいないのか?

2) 日本の若い人たちの芝居は、なぜ新作オリジナル中心なのか?
どうして、スタンダード・ナンバーのような戯曲群(たとえば「フランスの古典」とか)をフレッシュな新演出で
舞台にかける、というようなことがあまり行われないのか?というか、ほとんどないのか?

で、いろいろ話を聞いたりして、まあ、まだよくはわかりませんが、これはどうも、
日本のいわゆる「小劇場」的な演劇の在り方、演劇の歴史というほどの長い歴史ではないんだけれども、
そういう「歴史」と関係があるらしい。

ひとつの劇団が生まれ、それぞれの演劇スタイルというもの作り上げようとする。
劇団がその一生を終えると、その作り上げられた演劇スタイルも一緒に消滅する。
劇団はそれぞれ小宇宙のように閉じて、彼らの演劇もそれぞれが小宇宙のように閉じている。
たがいに交流もなく、伝えられることもなく、残されることもなく受け継がれることもない。
劇団の命は一般的にそう長くない。
観客は、そういう小宇宙を好んでやってくる、いわゆるコアな客によって構成されるので、
多様なものとはなりにくい・・・

すごく、すごく図式的に言うと、まあ、こういうようなことかなと・・・

もちろんこれが、いま変わりつつあるんじゃないの、
そういう変革の流れが、今回の「平田/青年団vs内藤/南河内万歳一座」企画に
具体化されているんじゃないの・・・と、そういう意味で、
この企画の実現がかなり意味深いに違いないと思ったわけです。

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