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ピーター・ブルック 『ザ・スーツ』 [見た芝居]

11月8日にパルコ劇場でピーター・ブルックの『ザ・スーツ』というお芝居を見てきました。
とても面白かったので、その遅ればせレポート。

『ザ・スーツ』は南アフリカのお話。
原作は、キャン・センバという黒人作家が1950年代に書いた短編小説です。

1950年代の南アフリカと言えば、アパルトヘイトの時代。
独裁政権の弾圧政策は黒人たち全体にとって過酷なものだったわけですが、
黒人作家たちは、その中で、ついにすべての著作の出版を禁じられることになります。
キャン・センバの小説も発禁処分になりました。
“語る”ことを禁じられた作家キャン・センバは祖国を捨てて亡命しますが、
失意と貧困のうちにアルコール依存症となり、亡命先でなくなります。
キャン・センバの幻の小説が人々の目に耳に届くには
長い長い歳月が必要でした・・・

ピーター・ブルックの『ザ・スーツ』はこの小説をもとにつくられた芝居です。
ピーター・ブルックの・・・というよりは、
ピーター・ブルックのチームの『ザ・スーツ』というべきなのでしょうか。
パンフレットには、演出・翻案・音楽というひとくくりで、
ピーター・ブルック、
マリー=エレーヌ・エティエンヌ、
フランク・クラウクチェックという3つの名前が挙がっています。

3番目のフランク・クラウクチェックはおもに音楽の担当のようですが、
この芝居では、ミュージシャンたちは俳優と同じように舞台に上がり、
俳優と同じように“プレイ”しますから、
劇のコンセプトとして、演出と翻案と音楽は同じひとつのレベルにあり、
3人のコラボレーションが融合的にひとつの劇をつくりあげている、
ということなのでしょう・・・

もともとが短編小説だということもあって、
物語は“語り手”による語りから始まります。
俳優が舞台上に現れて語り手を演じます。

むかし、南アフリカはヨハネスブルグの近郊にソフィアタウンという街がありました。
ソフィアタウンは黒人居住地区。そこではいつも雨が降っていて、
人々はボール紙でできたような粗末な小屋に住んでいました・・・

ピーター・ブルックの『ザ・スーツ』は、ある意味、とてもシェークスピア的な芝居です。
語り手は、そうですね、『冬物語』の“時”のような役割・・・
劇の節目に現れて物語を進めます。
語り手を演じる俳優は、そのままの格好で他の登場人物も演じますから、
観客は、想像力の翼を広げて、舞台という“なにもない空間”の上に
異次元の演劇空間を想像し、また創造しなければならない。
パフォーマンスの質の高さが、そういう想像/創造を可能にしている・・・

舞台上にあるのは、いろんな色に塗られた木の椅子が7つ、8つ、
スチールパイプ製の洋服掛けが2つ・・・
椅子を2つ正面向きに並べ、フィレモン(夫)とマチルダ(妻)が並んで座り、
ブランケットを掛けて目を閉じれば、それはベッドになります。
フィレモンとマフィケラ(フィレモンの友人)が洋服掛けのスチールパイプの下に並び、
片手を伸ばしてぶら下がるような身振りをすると、そこは乗合バスの中・・・
そういう椅子とか洋服掛けとかが、
ピーター・ブルックの例の“カーペット”の上に置かれるわけです。
必要に応じて、配置が変わっていろんなものになる・・・

こういう芝居っていいですねえ。私はもうほんとうに大好きです。

シェークスピアの『リア王』っていう芝居があるじゃないですか。
あれで、
盲目になったグロスターがエドガーに手を引かれて、目もくらむような白亜の絶壁に立ち、
そこから身を投げる・・・っていう場面がある。
実際には絶壁でもなんでもない平坦な野原なのだけど、シェークスピアの舞台では、
“現実”の平坦な野原がそもそも観客の想像力によってしか生まれないものだから、観客は、
平坦な野原じゃなくて目もくらむ絶壁の方を想像してしまうことも“簡単に”できるわけです。
・・・
話についてきてもらえてるかな?
・・・
それで、『ザ・スーツ』にも、そういう場面があるんです。
妻のマチルダが愛する人の残していったスーツを愛情をこめて抱きしめるところ・・・
タイトルの『ザ・スーツ』はこのスーツからきてるんですけど・・・
マチルダが愛する人って、夫のフィレモンじゃないんですよ。そこがこの物語の複雑なところで、
KKというべつな男です。芝居には登場しません。
で、マチルダが軽く横向きになって、ハンガーにかかった状態のスーツを
自分の右横に柔らかく抱きます。
つまり、スーツは観客からは横向き。マチルダの方を向いている。
マチルダは左手でスーツの右肩(観客側の肩)を触っている。
それで、ここがポイントなんですけど、
マチルダは、右手を上着の中へ入れスーツの右袖・・・右袖っていうのは、観客側ね・・・
その右袖に通し、その手で自分自身の肩から首を愛撫します。そうすると、
スーツがマチルダを“ほんとうに”愛撫しているように見えるんです。これすごいです。
それでですね、このスーツが、つまり、さっきのグロスターの白亜の絶壁と同じなのね。
“現実”には、スーツはスーツにしか過ぎないんだけど、観客の想像力は、
椅子をベッドだと思ったように、そのスーツをKKだと思うことができる。
完全にマチルダの幻想というか“夢”を共有できるんです。
・・・
・・・
話についてきてもらえてるかな?
・・・
とにかく、ピーター・ブルックの『ザ・スーツ』はそういうお芝居です。
夢のような“演劇体験”を理屈抜きで体験させてくれる。

もちろん、ストーリーも重要・・・

1950年代の南アフリカの黒人居住区に住む若いカップルの話・・・
えぇっと、物語的には、アパルトヘイトを直接テーマにしたものではないです。
政治的とか思想的とかいうものではない。
男女の愛がテーマです。愛と裏切りと憎しみと許しと・・・
けれども、夫フィレモンと妻マチルダの関係を・・・そうですねえ・・・
夫と妻の、男と女の“権力関係”として見てみると、そこには
当時の独裁権力の圧政と暴力と虐待が反映しているとも感じられるし、
また、語ることを禁じられた黒人作家の姿が
歌うことを禁じられたナイチンゲール(マチルダ)の悲しみに重なりもします。

ソフィアタウンに暮らす黒人青年フィレモンにとって、黒人の置かれた悲惨な状況はあまり苦にならないかのようにさえ見えます。彼には魅力的な妻マチルダがいたから。愛する妻はフィレモンにとってプリンセスのような存在であり、実際彼は妻をプリンセスのようにあつかっていた・・・

しかし、マチルダにとって、プリンセスであることは“囚われの女”であることにほかならなかった。彼女の夢は歌を歌うこと。フィレモンのプリンセスであることは、歌手としてのキャリアをあきらめること。籠の鳥でしかないナイチンゲールは、自分の自由を奪っているフィレモンをほんとうには愛することができず、夫が仕事に出ている昼の間、夫のいない家でKKとの逢瀬を重ねた・・・

ある日、妻の“浮気”を知ったフィレモンが突然家に帰ってきます。驚いたKKは慌てて逃げていく。
あとにはハンガーに掛けられたままのスーツが一着・・・

自分を裏切った妻に対し、フィレモンはおごそかに罰を課すのですが、
その罰の唐突さというか異様さというか・・・が、裏切られた夫の狂気を思わせて、
このありふれたカップルのありふれたエピソードを一気に神話の高みへと引き上げます。

お客様じゃないか、とフィレモンは言います。手厚くもてなしなさい。決して落ち度のないように。なにか間違いがあったら、私はあなたを殺しますよ。

裏切られた夫が妻に課す滑稽で恐ろしい罰。
マチルダは、これからずうっと、愛人のスーツを客人としてもてなさなければならない。

愛が人間の永遠のテーマなら、裏切りと憎しみもまた人間の永遠のテーマ・・・

私がすぐに思い浮かべたのは『千一夜物語』・・・
妻に裏切られたシャハリヤール王は、妻を殺すだけでは満足しなかった。
その絶対権力を背景に、すべての女への復讐を誓うのです。
王は、毎日新しい妻をめとり、婚礼の夜に新妻を処刑します。
そうすれば妻は決して夫を裏切ることはない・・・
ひとりの女に裏切られたために、女というものすべてを憎む・・・
これはもう病気。でも、病気ならば治すことができるはず・・・
というわけで、気が遠くなるほどの殺戮のあとに、
新たにシャハリヤールの妻となったシャハラザードは
千と一夜の間、物語を語りつづけ、一日また一日と処刑を免れ、
3年がかりでついにシャハリヤール王の“病”を癒すのです。

黒人居住地区ソフィアタウンに暮らす黒人青年フィレモンが、自分の妻マチルダに対してはシャハリヤール王のごとき絶対権力を“享受”しているのが興味深い。独裁権力に虐げられている黒人カップルが、そのカップルの中側でミクロ的に同じ権力構造を繰り返している・・・

マチルダをプリンセスとしてあつかっていたフィレモンはすでに病んでいたのかもしれません。
いずれにせよ、彼はある時自分の病に気づきます。
いつまでその奇妙な罰をつづけるつもりなのか、と友人のマフィケラはフィレモンに言います。
彼女を許し、すべてを水に流さなければいけない。forgive and forget・・・
狂気から救われたフィレモンは、妻を許しもう一度やり直そうと家に急ぎますが、
マチルダはすでに死んでいました。罰のあまりの過酷さに耐えかねて・・・
許しの言葉が語られることはない・・・
フィレモンもまた、語ることを禁じられた者のひとり・・・

ハッピー・エンディングではありませんが、その代りここには古典悲劇の崇高さがある・・・
と言ったら言い過ぎでしょうか?フィレモンとマチルダは悲劇の英雄たちのように、
その運命を受け入れなければならないのだ、と・・・
そう言えば、マチルダは、お芝居の中で「カタルシス」という言葉を口にしていましたが、
あれは・・・

マチルダは、夫の“圧政”に苦しむ日々の中で、ポジティブに生きなきゃ・・・と思い、
町の婦人クラブに通いはじめます。そこで彼女はいろんなことを学んできます。
一夫多妻制の問題とか、セクシャルハラスメントの問題とか・・・
このあたりは「女子教育の権利」みたいなテーマとつながりますけど・・・
で、もちろん、学んできたことの中には文学的なこともあって、
「カタルシス」もそのひとつ・・・「カタルシス」という言葉は、
一種のキーワードとしてそこに挿入されているのかもしれないです・・・

ハッピー・エンディングではないですが、『ザ・スーツ』は楽しいお芝居です。
ちょっとミュージカル仕立て的なところもあって楽しいです。
マチルダは、歌手になるのが夢だったくらいですから、お芝居の中でいろいろと歌を歌います。
芝居だけではなく、歌もすばらしいパフォーマンスなんです。
例えば「奇妙な果実」・・・ビリー・ホリデイで有名な歌ですよね。
これはアメリカの黒人差別の歌ですけど・・・
マチルダの歌の中で、黒人差別と女性差別という二つの問題が微妙に重なります。
あと、アフリカの歌も・・・タンザニアの歌とか・・・
アフリカの言葉で歌われてすばらしいかったです。

このお芝居の楽しさは、もうひとつ、観客がお芝居に参加すること。
特にパーティーのシーンがそうなんですけど・・・
役者たちが客席に下りてきて、何人かを舞台に上げます。
即興の招待客・・・食べ物がいいですか、それとも飲み物がいい?って聞いて、お客がそれに答える・・・
あと、パーティーには婦人会の人たちも招待されていて、
マチルダがその人たちに感謝の言葉を述べます。
私にいろんなことを教えてくれてありがとう、って・・・
で、その婦人会の人たちは、実は舞台上だけじゃなくて、客席の最前列にもいたんです。
つまり、最前列の客たちは、これも即興で、マチルダの“先生”にされてお礼を言われる。
私はたまたま最前列に座っていたので、マチルダにお礼を言われました。
確か私はマチルダに編み物を教えたのだったか・・・

というわけで、1時間15分のお芝居。珠玉の小品です。








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