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ロメオ・カステルッチ 『神曲3部作』のうち『天国篇』 [見た芝居]

IMG_0184_edited-1.jpgフェスティバル・トーキョー(F/T)のプログラムのひとつ、ロメオ・カステルッチの『神曲3部作』のうち『天国篇』を見てきました(『煉獄篇』はまだ見ていない)。

場所は西巣鴨。
廃校の中学校の一部を改造した「にしすがも創造舎」というところ。改造したと言っても建物全体には学校の雰囲気がそのまま残っているので、芝居を見に来たというよりは、ちょっと選挙の投票にでも来た感じがします。
写真は、デザインコンセプト的に明らかに周りから浮いていた当日券売り場。

『天国篇』は、パンフなどによれば、
「ライブ・インスタレーション」あるいは「展示形式のパフォーマンス」。

「ライブ・インスタレーション」ってなんだってことですよね・・・
これが、まあ、インスタレーションって言われるとインスタレーションなんだけれど、
パフォーマンスだって言われればやっぱりパフォーマンスで・・・

僕はこれを芝居として見てきました。
そして、芝居として見て、すごい。
うーん、すごいって、うなります。

これは必見。
21日(明日)までやっています。
ただのインスタレーションではないので、要予約ですが、当日券も出ています。

「鑑賞」の時間はひとり5分が「目安」・・・とされているけれども、
5分経ったら追い出されるというわけでもなく、
自分のペースで見ることができるようになっています。
芝居の長さが自分で自由に決められる芝居、と言えるかもしれない・・・

芝居の場合、じっと座っている観客の目の前で、芝居が展開されていきます。
まあ、時間的に展開されていくわけです。
観客は動かない。

インスタレーション形式の場合には、観客は空間の中を思い思いに移動しながら「鑑賞」します。
その空間移動が、時間軸上では、時間の経過として積み上げられていく。
観客によって順路は一様ではありません。歩くスピードも違う。
立ち止まって耳を傾けたり、天井を見上げたりする・・・

インスタレーションの全体像というものはすぐには見えてきません。空間はいつも断片的にしか体験できない。私は空間の全体像をとらえようとして移動しているのだ、と考えれば、すべては空間の問題であって、時間は関係ないようにも思えます・・・

カステルッチの『天国篇』では、この空間の真ん中にブラックホールのようなところがあり、
そこで「天国」のパフォーマンスが休むことなく演じつづけられています。
私がいまどこにいようと、その黒い中心で演劇が行われているわけです・・・
いまどこにいようと、私はすでに演劇の中に巻き込まれている、と言っていいかもしれません。
私のたどった順路が、私の立ち止まった時間が、私の触った白い壁が、いつの間にか、
私自身の『天国篇』をつくりあげようとしている・・・

私が移動しているという「地動説」から、空間が移動しているという「天動説」へ、
自分のポジションをスライドさせれば、インスタレーション全体が一瞬にして舞台に変容します。

舞台を構成するのは、白い2つの立体。

大きな直方体(2階建の家ほど)と、
小さな直方体。
2つが共鳴し合います。
小さな箱は、人の高さぐらいの不透明な箱。
箱全体が白く冷たく発光しています。

そして、白い2つの空虚。

小さな箱が置かれた側、大きな直方体の左下隅に、よく見ると穴があいている。
その穴のサイズがその前に置かれている小さな箱と同じなので、
小さな箱(光る石)を切り出した穴ということかもしれない。
その白い穴をくぐると、中は白い直方体の部屋。
小さな白い空虚(光る石を切り取った穴)と
大きな白い空虚(白い部屋)。
2つが共鳴し合います。

白い部屋を照らすのは入り口の前に置かれた光る石だけなので、
人が白い部屋に入ってくるたびに、光がさえぎられて部屋はゆらゆらと陰ります。
それだけでも面白くて、いつまでいても飽きない。

ばしゃばしゃと水の降る音が聞こえます。白い部屋は高湿度でマイナスイオンがあふれている。冬の晴れた寒い日にやってきた鼻炎的人間には、それでもう天国のように思えるのだけれど、カステルッチの「天国」はそれとはまったく関係ありません。

そして、ブラックホール。

白い部屋に入って右手の壁、床近くに黒い円形が見えます。
黒い穴・・・これが「天国」に通じている。

水の降る音は絶えず変化し、人の呻きが聞こえてくる。
けれど、ブラックホールの中に入っても、それがなんなのかはなかなか見えてきません。
目が少しずつ慣れてきて、おそるおそる水しぶきに近づくと、
正面の壁、見上げる位置に、
人間の白い肌が不意に出現して、思わずおっと声を出してしまいます。

彼は黒い壁の穴から裸体の半身のぞかせて、なんとか抜け出そうと、激しく身もだえしています。
もだえる体の動きに従って、穴から流れ落ちる水が、その方向と勢いを変化させます。

いや、もう、これがすごい。
「鑑賞」の時間5分はどう考えても無理です。いつまで見ていても飽きない。
魅せられたように釘づけ・・・状態・・・
穴から抜けられないという不条理な状況(あるいは天国的状況?)と
格闘する男の身体の激しい動き・・・
光源は白い部屋の外側の光る石だけなので、かろうじて男とわかる程度の明かり。
そのかわりというか、肌はものすごく白い・・・
観客が白い部屋から黒い部屋に入ってくるたびに、明かりがさえぎられます。

展示は午後と夕方、それぞれ2時間30分つづきます。その2時間30分を、ずっとそうやって格闘している。

昔、ロンドンでティルダ・スウィントン(女優の)がギャラリーのショーケースで7日間ずうっと寝ているという「展示パフォーマンス」を見たことがありますが、あれもそうとう過酷ですけど、これもかなり過酷。『天国篇』の場合は、2時間30分を2人交代でやるようなのですが、それでもやっぱり過酷・・・

『天国篇』は、演出的にはどういうふうにつくられているのか興味深いところです。
俳優がとるポーズはどの程度演出家の指示なのか、どの程度アドリブなのか・・・

ポーズの方向性としては、やっぱり
ミケランジェロの《最後の審判》とか、そういう図像的方向でしょうか・・・
とにかく身体をひねって無理なポーズをとるので基本的にマニエリスム的です。
一瞬、《最後の審判》に描かれたミケランジェロ自身の姿(ぬけがらの姿)を認めたような気もするのですが、
なにせ暗いもので・・・

ノートルダム寺院とか、ああいう中世ゴチックのカテドラルの雨どいに「ガルグイユ」というのがあります。
怪獣の恰好をした突き出た雨どい・・・ああいうポーズをとったりもします。
あと、動物園の動物のように、わざと観客に水をかけるような位置取りをしたりもする。

いずれにしても、この『天国篇』を決定的に支配している図像はミケランジェロではなく、
ヒエロニムス・ボッシュの《祝福されたものの楽園への上昇》・・・

最後の審判の後、選ばれた者たちが天使たちに付き添われて天国へ向かう、その天国に通じる長いトンネルが描かれている板絵で、天国はそのトンネルの向こうに小さく円形に切り取られているだけ。しかも明るすぎるため、露出オーバー状態でただ白く光っている。天国のことは一切わからない・・・
ヴィンチェンゾ・ナタリの映画『キューブ』の最後のところみたいな感じ。

それで、カステルッチの『天国篇』では、穴にはまった男が彼の方から「外界」を見ると、
ちょうど観客の入ってきた円形の穴がボッシュの天国の入り口のように見える・・・たぶん・・・
いや、俯瞰になるけれど・・・

観客の方からだと、天国の入り口がボッシュと逆になっている。
えっ、俺たち、天国からブラックホールに入って来たのか?と、ちょっと混乱する。
そうすると、このまま帰ると、天国に出ることになるわけ?と一層混乱する・・・

逆説的な天国・・・みたいなこと?・・・

ごめんなさい、僕はダンテの『天国篇』は初めのちょっとしか読んでないのです。
『地獄篇』と『煉獄篇』は面白くて夢中で読んだんですけど、
『天国篇』の方はちょっと退屈で、途中から読めなくなって、そのままになっています。

IMG_0187_edited-2.jpg
写真は、もと中学校の体育館「にしすがも創造舎」。
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