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ロメオ・カステルッチ 『神曲3部作』のうち『煉獄篇』 [見た芝居]

フェスティバル・トーキョー(F/T)のプログラムのひとつ、ロメオ・カステルッチの『神曲3部作』のうち『煉獄篇』を、世田谷パブリックシアターで見てきました。

『地獄篇』、『天国篇』と見てきた流れで、期待が大きすぎたのかもしれませんが、
『煉獄篇』にはちょっと失望しました。

振り返れば、もちろん、面白い要素がたくさんあります。
コンセプトとかアイデアとかはとても面白い・・・
ので、そのレポート。

最初にちょっと、なんで失望したのかについて簡単に・・・

『煉獄篇』は3つのパートに分かれています。
パート1が、「近代リアリズム家庭劇」的な仕立て。
パート2が、動くインスタレーション(?)的なヴィジュアル・シーン。
のぞき眼鏡、ステレオスコープ、万華鏡などなどイリュージョン系の光学装置がいろいろありますが、
そういう不思議な装置のひとつを通して見た幻想的イメージ。
パート3は、『地獄篇』を思い出させる、コンテンポラリーアートとコンテンポラリーダンスと
コンテンポラリーミュージックをミックスしたようなコンテンポラリーなパフォーマンス。

それで、パート1は、「近代リアリズム家庭劇」のパロディーとか、そういうものではなくて、むしろ「近代リアリズム家庭劇」をシリアスに徹底的に演じなければいけないパートだと思うんですが、そこのところのパフォーマンスの質がすごく低いんですよ・・・

なにかぜんぜんべつの演劇原理によってつくられているのかなとも考えてみるのですが、
やっぱり、芝居が下手・・・としか思えなくて、それで気持ちが離れてしまいました。
気持ちがついていれば、パート2やパート3は面白かったんだろうと思います・・・

芝居が下手・・・に見える・・・理由はきっといろいろあるんだと思います・・・
フェスティバル・トーキョーっていう枠とか、
トーキョーの観客のために英語上演が選択されたとか、
それで、このダイアローグ、このキャスト・・・

違う状況ではまったく違う芝居になるかもしれない・・・


それで、パブリックシアターの『煉獄篇』はどういう芝居だったかというと・・・

いわゆるドラマ的なストーリーがあります。
父親が息子(小学生くらい)を性的に虐待する話がパート1。
息子はその虐待体験を越えて幸福になれるかと見えて、やはりその記憶に悩まされつづける、
というのがパート2・・・というか、たぶんそういう話。パート2以降は、それほどはっきりとは物語が見えない。
成長した息子は、虐待の連鎖の中で、「子供」よりさらに弱い存在としての障害者を虐待する。
障害者に父親の格好をさせて・・・というのがパート3。

パート2では、大きな円形の「のぞき眼鏡」の向こうに、美しい・・・と言っていいかどうかわかりませんが、まあ、アート的な、アート的に美的な花々のイメージが展開します。
カステルッチによれば、花々は、ダンテ的煉獄の「地上の楽園」に共鳴するらしい。

さて、パート1は奇妙な二重構造になっています。

ひとつの物語が舞台上で、まあ、フツーの芝居的に展開します。
一方、舞台前面を覆う透明なスクリーンには、もうひとつの物語が
字幕テクスト(日本語)で映し出されます。
ふたつの物語は微妙に似ているのだけれども、決定的なところで異なっている。
もとは同じ物語の別バージョンというわけです。

母親が夕食の準備をしています。
子供は「あのひと」(父親)が帰ってくる時刻が近づいたので脅えはじめます。
父親の虐待を黙認している母親は、夫の共犯者でもあるので、子供の脅えに対してなにもすることができない・・・

字幕テクストは、はじめ劇の流れをなぞる形で展開しますが、
虐待シーンでは、虐待などどこにも存在していないというように、
幸福な家族の団欒を語りはじめます。
字幕はまさにスクリーンとなって虐待を覆い隠すのです。

事実を隠蔽するためのディスクール、
言葉のスクリーンとしてのもうひとつの物語・・・
もっとも、字/幕で覆われた舞台の上でリアルな虐待シーンが繰り広げられるのかというと、
そういうわけでもありません。

暴力シーンに関するカステルッチの選択・・・

古典劇的には暴力シーンの表現法には対照的な二種類のやり方があるように思えます。
シェークスピアは、舞台上でグロスターの眼玉を平気でえぐり出します。
シェークスピアと同時代のマーローは、舞台上にならず者を放ち、
エドワード2世を残虐なやり方で殺しました。
フランス17世紀悲劇では、暴力シーンは舞台上から遠ざけるのが礼節にかなうとされました。
舞台上では、殺人はつねに報告されるだけです。
これは当時の貴族層というよりも
ブルジョワ層の好みであったとも言われていますが・・・

カステルッチは、『煉獄篇』において、
ブルジョワ的礼節を選んだのだと言えるかもしれません。
虐待は、長い階段を上った二階の寝室の中で行われ、観客の目には触れないからです。

カステルッチにおいては、従って、暴力は二重に覆い隠されることになります。
古典劇的礼節によって空っぽになった舞台を字幕というディスクールが覆い隠す・・・
ちょっとトートロジックな感じもしますが、これはこれで面白いものです。

問題は、この二重の隠蔽も、舞台上の空虚も、またそれらを告発するはずの音も(虐待を証言する悲痛な呻き声が舞台外から聞こえてくる)、観客に強いインパクトを与えられないということ・・・
アマチュア的演技が芝居を絵空事にしか見せないからです・・・

俳優は母国語で芝居をするべきです。彼らは、英語で普通にコミュニケーションがとれる人たちなのでしょうが、英語でコミュニケーションがとれることと、英語で演技ができることは同じではありません。
『煉獄篇』の台詞は、『地獄篇』の「私はカステルッチです」とか「どこにいるの、お願い」とか、そういう意味が通じればいいという台詞ではありません。

さらに事態を悪化させたのは、英語のダイアローグです。
中学校の英語の教科書にでも出てくるようなおよそリアリティのない言葉たち・・・

あなたはひとりの少年ですか?
はい、わたしは、虐待されたひとりの少年です・・・

いえ、べつに、こういう台詞が出てくるわけではないのだけれど、リアリティのなさではこんな感じ。だれとでもコミュニケーションをとれるグローバル・イングリッシュでダイアローグをつくればこうなるしかない・・・

これを、英語非ネイティヴ俳優が演じれば、緊張感も密度も生まれえないわけです。
言葉は完全に身体から離れている・・・

『地獄篇』『天国篇』(これらを、まあ、アート・パフォーマンスと呼ぶとすると)においてすぐれた才能を見せつけたカステルッチが、『煉獄篇』(シアター・パフォーマンスっていうかいわゆる芝居)に関してはすぐれた演出家ではないのかもしれないと考えるのは残念なことです。

そこで、僕はこう考えてみました、
俳優たちはアマチュアなのだと・・・

確かに、彼らはメガホンで支持を受けたエキストラのように不用意な動きをします。
父親は何度も溜息をつきますが、思いつきのようにつかれるその溜息はまったくコントロールされたものではありません。俳優たちはみな身に付けた小さなマイクを通して台詞を言います・・・

彼らは素人なのでしょうか?
パンフレットにはそうした情報はありませんが、
彼らが素人である可能性はおおいにあるような気がするのです。

この演劇全体が、
虐待を現実に生きた者たち、生きつづける者たち、虐待した者たち、受けた者たちの、
受容、贖罪、克服、浄化、救済のために構想された
プルガトリオ(煉獄)だったとしたら・・・

虐待をめぐる大きなワークショップ・プロジェクトが『煉獄篇』なのだとしたら・・・

確かに、パート3で、虐待を受ける障害者を障害者が演じていたということは、『煉獄篇』という演劇に新たな地平を開くヒントであるような気がしてきます・・・

こうして、僕は、カステルッチ『神曲3部作』のレポートを、
ヴィーヴァ・カステルッチ!と叫んで閉じることにいたしましょう。

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