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ロメオ・カステルッチ『神曲3部作』のうち『地獄篇』 [見た芝居]

演劇祭フェスティヴァル・トーキョー(F/T)のプログラムのひとつ、
ロメオ・カステルッチの『地獄篇』を、池袋の芸術劇場(中ホール)で見てきました。

悲しく、そして美しく、
涙がほろほろと頬を伝い、
僕の鼻炎的鼻はまたぐずぐずとむずかるのでしたが・・・
いえ、鼻水くらいなんのその、
すばらしい芝居だったのです。

そのすばらしい芝居の、遅ればせレポート。
「遅ればせ」というのは、『地獄篇』はこの14日でとっくに終わっているので・・・
でも、『煉獄篇』と『天国篇』はまだこれから、
そっちも、きっとすばらしいと思う。

IMG_0183_edited-1.jpgカステルッチの『地獄篇』は、ダンテの『地獄篇』を劇化したというよりは、そこからインスピレーションを受けてつくられた新しい舞台劇。オリジナルとはぜんぜん違う世界をつくりあげながら、なお、これってやっぱりダンテの『地獄篇』だよね、と思わせる、不思議な説得力を持っています。

ダンテの『地獄篇』は、ダンテ(作者兼主人公)が、
古代ローマの詩人ウェルギリウスに助けられながら、地獄めぐりをするという話。
カステルッチの『地獄篇』では、
ロメオ・カステルッチ(作者兼演出家兼俳優)が、あるミッションを自らに課します。
それは、新時代のダンテとなること。
現代の地獄を生きなおし、描きなおすこと。
ミッション・インポッシブル・・・

カステルッチが舞台上に現れ、「私はカステルッチです」と日本語で言います。それが開始の合図。
間もなく、恐ろしい森の獣たちがダンテの前に現れたように、
3匹のシェパードがカステルッチに襲いかかり、噛みつき・・・
はい、ほんとうに噛みつきます(ただし、カステルッチは訓練用の防護服を着ているので、怪我はしない)。

カステルッチの『地獄篇』で、ウェルギリウスの役を任されるのは
ポップアートのカリスマ、アンディ・ウォーホール。

コンテンポラリー・アートとコンテンポラリー・ミュージックとコンテンポラリー・ダンスをミックスしたような思いっきりコンテンポラリーな演劇パフォーマンスです(初演は2008年のアヴィニョン演劇祭)。


観客というINFERNO
開演前の舞台には白い煙が立ち込め、舞台前面横一列に並べられたアルファベットの文字が、
電気的ノイズとともに、壊れたネオンのように点滅します(写真)。
文字は裏返しの“INFERNO”(「地獄」)。
裏返し、つまり、舞台側から見るのが「正しい」向き。
観客に見えるのは文字の裏側。文字の側面が点滅するので光っているとわかります。
舞台上に役者がいて(まだいないのだけれど)、客席側を見れば、
“INFERNO”という文字の向こうに観客が座っていることになる。

これは・・・

芝居が始まって、かなり早い段階で舞台上に大きな鏡が持ち込まれます。
短い時間ですが、そこに観客の姿が映し出される。
観客が「地獄」という文字の向こうに自らの姿を見る、というのが、
たぶんこの「裏返し」の意味。

現代の「地獄」とはなにかと問えば、それはもうダンテの時代とは違って、
中世キリスト教世界観に「安住」しているわけにもいかないわけで、
「地獄」とはまさに私たちが生きているこの世界・・・と答える以外にほとんど選択肢はなく・・・
従って、“INFERNO”というタイトルのもとで、これから舞台上に展開されるのは、
舞台の外でいま私たちが生きているまさにこの世界の演劇的イリュージョン。
舞台は世界の鏡・・・ということになります。

実は、この鏡のシーンでは、もうINFERNOの文字は舞台上にはありません。
今回僕が見た演出では(パンフレットの写真を見ると、いろんな演出パターンがあるようです)、
開演前にスタッフが文字を片づけてしまうので、鏡のシーンでは、私たちは、
すでに存在しないINFERNOという文字の記憶に頼るしかないのですけど、
舞台上にはコーテーションマーク“ ”だけが片づけられず残されていて、
こちらは最初から客席側を向いて光っているということもあり、
不在の文字の存在をいつも観客に思い出させます。

私たちがつくりあげる私たちの地獄、
私たちが破壊しつづけるこの世界という地獄・・・

現代と古典
ウェルギリウス/ウォーホールに導かれるカステルッチがモダン・アート、そしてコンテンポラリー・アートへ向かっているのは当然のことですが(『天国篇』は演劇ではなくインスタレーションらしい)、
そこは、やはりイタリアのアーティスト・・・彼の「現代」はいかにも自然に「古典」と共存しています。

俳優たちの見せるさまざまな身振りが、不意に古典絵画の美しき図像を舞台上に描きだすのです・・・

《ゲッセマネの園》
自らの死の近いことを知って苦悶するイエスと、
師イエスの苦しみを知らず寝呆ける3人の弟子たち・・・ペテロ、ヤコブ、ヨハネ・・・
カステルッチの興味を引くのは、その宗教的側面であるよりも、その芸術的側面。
図像と登場人物。それぞれの身ぶりの演劇的可能性・・・
危機的な状況に感応することもなく眠りつづける者たち。
ひとり離れて自らの死と対峙する者。
その人間的な孤独と苦しみ。

《ノリメ・タン・ゲレ》
われに触れることなかれ・・・
復活したイエスの足もとに跪き、その身体に触れようとするマグダラのマリア。
拒絶するイエス。
愛あるいは敬愛の身振りと拒絶の身振り。

《不信のトマス》
相手の身体に触れることによってしか相手を信じられない者の身振り。
しかし、マリアに拒絶したものをなぜイエスはトマスに認めるのか・・・
ああ、確かに、トマスに触れることを許したのは、
マリアにそれを拒んだのとはべつな俳優なのだった・・・

カステルッチが向かうのは、もちろん、ひとつひとつの身振りに図像的名前を与えることではなく、
図像的身振りからその図像的名前を奪うこと。
やがて舞台は、名もなき者たちの名もなき身振りで埋め尽くされる・・・

抱擁、愛情、嫉妬、憎しみ、暴力、苦痛、孤独、不安、自殺、破壊、殺人、殺戮・・・

イエス(ついさっき図像的にイエスであった俳優)が
マグダラのマリア(ついさっき図像的にマリアであった女優)の首を絞めて殺すとき、
彼女の発する叫びが赤ん坊の泣き声であること・・・その恐ろしいまでの美しさ・・・
ただその美しさのためだけに、この芝居を見る価値はあったと思う・・・


カラヴァッジョの闇と光
カステルッチの血の中に流れているイタリア古典美術・・・
それを最も強く感じさせるのは、彼の舞台を支配する闇と光であるような気がします。

「闇と光」を絵画の表現原理として確立した最初の画家がカラヴァッジョ。
画面を支配する人工的な闇。
スポットライトのように人物を照らす、やはりきわめて人工的な光・・・
カラヴァッジョの「闇と光」は、人間の深い精神性の唯一可能な表現法として、
あっという間にイタリア中で流行し、
「カラヴァッジェスキ」と呼ばれる「カラヴァッジョな画家たち」を多く生み出します。
流行はアルプス山脈を越えて北方へと広がり、やがて
レンブラントの「明暗法」(キアロスクーロ)につながる・・・

現代のカラヴァッジェスキ、カステルッチ、
その中でも、もっともカラヴァッジョ的なシーンは、
本来もっともポップアート的である筈のウォーホール・シークエンス。

群衆に囲まれた大きなブラック・キューブの上に、
人がひとりずつ上ってゆき、
人がひとりずつキューブの向こう側に身を投げる。
またひとり、またひとり・・・
連続する自殺。自殺者の列・・・

自殺はキリスト教では罪悪なので、自殺者は例外なく地獄へ堕ちます。
ダンテの『地獄篇』では、彼らは(彼らの魂は)傷つけるべき肉体を奪われ、
棘のある大樹の幹に閉じ込められています。
枝にぶら下がっているのは、彼らが捨てた彼らの肉体。

さて、舞台の方では・・・
スクリーンに映し出されるウォーホールの作品名と制作年代。
キャンベル・スープ、キャンベル・スープ II、マリリン・モンロー、毛沢東・・・
(って、実はここでどんな作品名が映し出されたかよく覚えていない・・・)

ひとつの作品につきひとりの自殺者が、
スクリーンを背景に客席側を向いて後ろ向きに身を躍らせてゆきます。
スポットライトを浴びて闇の中に浮かび上がる白い自殺者の姿。
水泳の飛込競技を見ているように美しい「自殺」というムーヴメント・・・
カラヴァッジョの闇に浮かぶ自殺する身体・・・
それは、ウォーホールの《自殺》(1963)という作品名がスクリーンに映し出されるまで続きます。

カステルッチはパンフレットのインタヴューの中で、
ウォーホールについて「表層」という言葉を使っています。
ウォーホールは「表層」という無名性と記号性のうちに芸術を解き放った・・・

しかし、カステルッチの「自殺」は、それが何人もの俳優によって繰り返し「複製」されていくのだとしても、
演劇的身振りでありつづけることによって、
「キャンベル・スープ」のような記号になることを免れています。そして、
そのことは、この「自殺」をめぐるウォーホール・シークエンスの大きなパラドックスであるような気がします。

カラヴァッジョの「闇と光」とウォーホールの「表層」との予期せぬ出会いが、
限りなく美しいシークエンスを生み出した・・・僕にはそのように思えるのです。


ボールを受け継ぐ動物
ひとつのボールを、年齢も性別も違う俳優たちが順に受け継いでいく。
ボールを受け取った俳優は、しばらく舞台の中央に立ち、やがて近づいてきた別の俳優にボールを渡す。
ボールを受け継ぐ者たちの背後では、世界が破壊されつづけてゆく音・・・

俳優が次々とボールを受け渡していくこと。それはいかにもワークショップで行われそうなプログラムです。
しかし、カステルッチは、ワークショップ的試みをそのまま舞台の上で見せるわけではありません。
ボールを受け継ぐという単純な動作が、
人間にとってきわめて重要な行為なのだということを見る者に納得させてしまうまでに、
そのパフォーマンスの質を高めるのです。
ああ、そうだったのだ、人間とはボールを受け継ぐ動物だったのだと・・・

二足歩行する動物がヒトであるように、
言語を使う動物がヒトであるように、
埋葬を行う動物がヒトであるように、
殺し合う動物がヒトであるように、
自殺する動物がヒトであるように、
ボールを受け継ぐ動物がヒトだったのだと・・・
いや、それはきっと、ボールでなくてもいいのかもしれない、
ボールでなくてもいいけれど、とにかくなにかを受け継いでゆく者がヒトなのだ、
世界が破壊されつづけても、ヒトである限り、
受け継ぐという身振りを絶えさせてはいけないのだと・・・

『地獄篇』はダンス・パフォーマンスに近いと言えるのかもしれない。
実際、この芝居にはほとんど台詞がありません。

台詞は二か所だけ。
最初のカステルッチ自身の「私はカステルッチです」と、
もう一か所は、地上にただひとり残された老人が言う言葉・・・
「だれかお願いです」(確かそんな台詞。これも日本語)
意味的には、だれか私を殺して下さいという意味。

これは、ひとりずつ誰かが誰かの喉を裂く、というシークエンス。
女が男の、男が女の、子供が大人の、大人が子供の喉を切り、
切られた者はその場に倒れ、切った者は、背後から近づく者にその喉を切られる。
次々と人々が倒れていったあとに、どうしてもひとり残ってしまう計算で、
その最後に残った老人が、誰か私の喉を切ってください、と絶望的に懇願するわけです。

カステルッチは、この「殺人」のこともたぶん「表層のイメージ」と呼ぶのでしょうが、
しかし、ここでもまた、「殺人」は記号であることを超えて、見る者の心を揺り動かします。

だれも、殺したくなどないのに殺さなければいけないということ。
だれも、死にたくなどないのに、殺してくれる人がいなくなれば、
やはりもう生きてはいけないのだということ。
殺したくなくても殺さなければいけないのだということ。
殺すことがヒトの宿命なのだということ・・・
宿命を受け入れることが生であり死であるのだということ・・・

名もなき群衆の単調に繰り返される同一の身振りが、一瞬、古典悲劇の崇高さを身にまといます。
またしても、現代と古典の驚くべき邂逅・・・

死を求める老人の願いは、ひとりの子供の出現によってかなえられます。
子供って、ニーチェ的超人とか?・・・

いずれにせよ、カステルッチの『地獄篇』は、蒼ざめた馬と黒い太陽によって、
黙示録的な終末をむかえるのでしたが・・・

IMG_0177_edited-1.jpg写真は池袋芸術劇場の前にF/Tのイベントとしてつくられた「おやじカフェ」です。


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