SSブログ

『妻は女優』 [映画とマリヴォー]

東京ではなかなかマリヴォーの芝居は見られないんですけども、
フランス映画を見ていると、意外なところにマリヴォー劇が登場してびっくりします。

『僕の妻はシャルロット・ゲンズブール』は題名(邦題)からもわかるように、
シャルロット・ゲンズブールが出ている映画・・・というか、
シャルロット・ゲンズブールがシャルロット・ゲンズブールの役で出ている映画です。

原題は『僕の妻は女優』。
ただの「女優」ではなくて、「シャルロット・ゲンズブール」という名前を
タイトルに出した方が、日本では集客力があるということでしょうか。

(ちなみに、というか、ご存知のように、というか・・・
シャルロット・ゲンズブールはセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの娘です。
とてもチャーミングな女優。)

まあ、シャルロット・ゲンズブールが登場人物でもあるわけなので、
無理やりの邦題というほどでもないけれど、
邦題だけ見ると、やはりどこか無理やり感が漂うことも否めない・・・

シャルロット・ゲンズブールの夫(タイトルで「僕の妻」と言っている「僕」)を演じているのは、
イヴァン・アタルという人。この映画の監督でもあります。
この二人は実生活でも一緒に暮らしているらしく、
イヴァンは映画の中でもイヴァンとして出てきます。

といっても、
自らの「夫婦生活」を撮った赤裸々なドキュメンタリー映画というのではありません。
フィクションです。
テレンス・スタンプがイギリス人俳優の役で出てきますが、名前はジョン・・・

イヴァン(役の方の)は俳優ではなく、スポーツ記者。
俳優の仕事、あるいは業界についてはよく知らない。

俳優が映画でやっていることは、ぜんぶ嘘、虚構、フィクション。
現実とはなんの関係もない・・・くらいのところで
「妻が女優である」という事実は特に問題なく頭の中で整理されていました。

それが、ある時・・・

妻が女優っていうのも大変じゃない?他の男とキスしたり、ベッドシーンもあるし・・・などと言われ、
なに言ってんの、ぜんぶ映画の話。フィクション。
ピストルで撃って人が死んでも、本当に死んだわけじゃないんだから・・・と反論しますが、
死ぬのはもちろん本当じゃないけども、キスは実際にしてるわけだろ?
とさらに反論され・・・

この「心無い」指摘が妙に気になりはじめたイヴァン。
あれやこれやと想像は膨らみ、
現実とフィクションの境界は限りなく曖昧になり、
ついに妻の撮影現場まで乗り込んで・・・というストーリー。

さて、妻のこと、俳優のこと、を理解しようとするイヴァンは、
演劇学校に登録をして、自らも俳優というものを体験してみることにします。
で、その演劇学校のシーンで演じられているのがマリヴォーの芝居。
『善意の俳優たち』(Les Acteurs de bonne foi)。

映画のこのシーンは1分足らずのごく短いもので、
べつにマリヴォーでなくても、コルネイユでもラシーヌでも、
とにかく舞台練習風景の映像であればいいのかな、
映画的にはさして重要な意味を持つわけではないのかな、みたいにも
一見思えるのですが、いや、いや、それがなかなかあなどれない。

1分の短い場面の中に、実は、『善意の俳優たち』の第4景と第12景がうまくモンタージュして入れ込んであります(『善意の俳優たち』は1幕物の芝居で、全13景)。わざわざモンタージュするくらいだから、監督はこの芝居を意図的に選択し、編集し、挿入したに違いありません。芝居の演出自体は、マリヴォーとしては少し乱暴な感じなんですが・・・

20世紀の終わり頃に、マリヴォーを、乱暴に、というか「残酷に」演出することが流行りました。
「残酷性」こそがマリヴォーの「現代性」だと思われたのです。
パトリス・シェローという演出家が、シャルロット・ゲンズブールのお母さんの
ジェーン・バーキンを主役(タイトルロール)にして
マリヴォーの『偽の侍女』という芝居を演出していますが、これが大変に乱暴です。
喜劇の筈なのに、見ている方は、頬がこわばって笑うどころの騒ぎじゃない・・・

というわけで、
ゲンズブール家つながりで、ちょっと乱暴な演出になったのかもしれません・・・

『善意の俳優たち』は「劇中劇」の芝居です。奥様方の余興のために、
従僕メルラン、小間使いリゼット、小作人の息子ブレーズ、庭師の娘コレット、
の四人が「即興劇」をやることになります。

「劇中劇」の作者兼演出家メルランが劇のシチュエーションだけをあらかじめ設定し、
そのシチュエーションに従って、
「俳優たち」は、自分たちのキャラクターはそのままに、
その場その場で台詞を「即興的」につくっていく・・・
というのがこの「即興劇」。

現実には・・・と言っても、劇の中(マリヴォーの劇の中)のことですが・・・
メルランとリゼットは恋人同士、ブレーズとコレットは婚約者同士。
それが、メルランによる「劇中劇」では、
メルランとコレットが互いに愛情を抱き合って、
それぞれの恋人/婚約者を捨てることになる・・・

メルランとコレットが愛情を抱くといっても、
芝居(「劇中劇」)の中のことなのだから、
べつに芝居として演じるなり見るなりしていればいいのだけれど、
これが「善意の俳優たち」にはなかなか簡単なことではありません。

彼らは「現実」と「芝居」をはっきり区別できないのです・・・

リゼットとブレーズには、そもそもこのシチュエーションが受け入れがたい。

さらに事態を複雑にするのは、演劇に対するコレットのスタンス。
芝居の中でメルランに愛情を感じなければいけないのだから、
やはり実際に愛情を感じなければいけないのよ・・・という
スーパー・リアリズム。

愛している振りをするのが芝居、と言うメルランに対し、
愛している振りをする振りをしている、と返すブレーズ・・・

「現実」と「演技」の境界は限りなく曖昧になり・・・

と、ここまで見てくれば・・・そうなんです、
『善意の俳優たち』が演劇的に繰り広げるこのテーマ、そっくりそのまま、
映画『僕の妻はシャルロット・ゲンズブール』のテーマなのです。

そういう意味では、『僕の妻はシャルロット・ゲンズブール』はきわめてマリヴォー的な映画。1分足らずの舞台場面はこの映画に押されたマリヴォー的刻印なのだと言えるかもしれません。

『僕の妻はシャルロット・ゲンズブール』は2001年のフランス映画。
音楽がブラッド・メルドーというのも魅力です。
ツタヤで借りて見てみてください。

コメント(0) 
共通テーマ:演劇

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。