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『青木さん家の奥さん』 [見た芝居]

SANY0070_edited-1.jpg昨日、駒場の「アゴラ劇場」で『青木さん家の奥さん』という芝居を見てきました。
平田オリザ演出、劇団「青年団」の公演です。
(写真は「こまばアゴラ劇場」。ちょっとピンぼけ。)

平田オリザという人は劇作家なので、基本的には自作の演出をします。
ただし、今回は、大阪の「南河内万歳一座」という劇団の出し物で、
その主宰である内藤裕敬という人の戯曲を平田風に演出して見せるという企画です。

これは、企画としては、実は、もう少し大きな企画の一部で、
平田オリザの演出で「青年団」が内藤裕敬の戯曲を演じ、
内藤裕敬の演出で「南河内万歳一座」が平田オリザの戯曲を演じる、
これを大阪と東京でいっぺんにやる、というのがその企画の全体であったようです。
大阪公演は「精華小劇場」というところ、東京公演が「こまばアゴラ劇場」です。

「南河内万歳一座」がやったのは、『S高原から』という戯曲で、
これは見そこないました。(平田自身の『S高原から』は何度か見ていますけど。)

僕は、日本の演劇事情、演劇シーンというものにあまり詳しくはないので、
というか、ほとんどよく知らないので、
「南河内万歳一座」の芝居は見たことがなく、いえ、名前も知りませんでした(すいません)。
いまは、「南河内万歳一座」の『青木さん家の奥さん』をぜひ見てみたいと切望しています。

企画ということでいえば、この企画が成功するしない以前に、
この企画を実現するということがかなり意味深いものである・・・らしい・・・
ということを、日本の演劇事情をよく知らない人間なりに、感じとることはできました。

僕はいま、18世紀フランス古典喜劇を翻訳して、これを日本の普通の領域というか、
日常レベルというか、そういうところに広めようと考えている。
で、実際の芝居作りのことについても知らなければならないと思い、ワークショップに参加したり、
演劇をやっている人たちの話を聞いたりします。

その時の僕の基本的な「問い」みたいなものがあって、それは、

1) 例えばフランスで芝居を見に行くと、若い人、若くない人、家族連れ、仲間同士、
カップル、ひとり者、僕のような外人、エトセトラ、エトセトラ・・・とにかくいろんな人が
一つの劇場に集まってくる。日本ではなぜ、ある種の年齢層とか、ある種の人々しか
劇場の客席にいないのか?

2) 日本の若い人たちの芝居は、なぜ新作オリジナル中心なのか?
どうして、スタンダード・ナンバーのような戯曲群(たとえば「フランスの古典」とか)をフレッシュな新演出で
舞台にかける、というようなことがあまり行われないのか?というか、ほとんどないのか?

で、いろいろ話を聞いたりして、まあ、まだよくはわかりませんが、これはどうも、
日本のいわゆる「小劇場」的な演劇の在り方、演劇の歴史というほどの長い歴史ではないんだけれども、
そういう「歴史」と関係があるらしい。

ひとつの劇団が生まれ、それぞれの演劇スタイルというもの作り上げようとする。
劇団がその一生を終えると、その作り上げられた演劇スタイルも一緒に消滅する。
劇団はそれぞれ小宇宙のように閉じて、彼らの演劇もそれぞれが小宇宙のように閉じている。
たがいに交流もなく、伝えられることもなく、残されることもなく受け継がれることもない。
劇団の命は一般的にそう長くない。
観客は、そういう小宇宙を好んでやってくる、いわゆるコアな客によって構成されるので、
多様なものとはなりにくい・・・

すごく、すごく図式的に言うと、まあ、こういうようなことかなと・・・

もちろんこれが、いま変わりつつあるんじゃないの、
そういう変革の流れが、今回の「平田/青年団vs内藤/南河内万歳一座」企画に
具体化されているんじゃないの・・・と、そういう意味で、
この企画の実現がかなり意味深いに違いないと思ったわけです。

企画は成功したのかな?
これはちょっとビミョーな感じもします。

「南河内万歳一座」の『青木さん家の奥さん』を見たことがすでにあって、これと比較などして見ることができれば興味深いに違いない。
内藤演出の『S高原から』を見ていて、これと比較などして見ることができれば興味深いに違いない。

平田演出の『青木さん家の奥さん』を見だけだと、あっ、これどうなの?・・・と思っているうちに芝居が終わって、
見終わった後の感想が「ああ、困ったなあ・・・」みたいなことで、
見終わって「困ったなあ」と思った芝居は初めてです。

平田演出では、話自体も少し原作と変わっているらしく
(たとえば、原作には青木さんの「奥さん」はぜんぜん登場しないらしいのだけれども、
平田版には、偽物とはいえ一応奥さんが登場するとか・・・)、
どこまでが演出で、どこからが翻案なのかわからないところもあって、これもビミョーな気がする。

舞台は酒屋の裏。ビール・ケース(壜ビールのケース)が山のように積んである。酒屋というよりは「ビール屋」さんなのか、ビール・ケースしかない。舞台も、ビール・ケースを並べた上に板を敷いて作ってあるから、ビール・ケースが現実と虚構の世界で鏡のように向き合っている・・・と言えなくもない。

このビール・ケースの上の酒屋の裏の、山のようなビール・ケースの前で、
バイトの若い男4人と酒屋の娘が、配達をめぐって、ひたすら配達をめぐって
延々と”ぐだぐだ”芝居をする。
さらに、それに怪しい女の客3人が絡み、話的には、最初に提示された謎(青木さんの奥さんという謎)を
解き明かす方向に進むのかと見えて、ただ、どんどん、わけがわからなくなっていくばかり。
見ていても、ほとんどポイントが見えない。

平田演劇といえば「リアル」が代名詞じゃないですか。
それが、ぜんぜんいつもの「リアル」じゃない。
取っ組み合いの喧嘩はする、大声でどなりあう、
一番前の席に座ってしまった僕にとってはかなりうるさい芝居で・・・
べつに、取っ組みあわなくても、どならなくても、芝居は展開できるような気がして、
その方が逆に面白かったのかなという・・・

シチュエーションとかはもちろんリアルである必要はないんですけど・・・

だいたい、いまどき酒屋が配達人4人もかかえてビールを配達するってことがもう普通じゃないでしょう、
って、これはセリフの中にも出てくる。
しかも配達先は「団地」で・・・
登場人物たちはいまどきの若者だけど、シチュエーションは思いっきり「昭和」。

開演前から、「ザ・ピーナッツ」の歌が聞こえているし、怪しい女3人のうちの二人は双子で(偽だけど)、
「ザ・ピーナッツ」の歌を振りつきで歌うし、あとのひとりは「ピンクレディー」の歌をやはり振りつきで、
3人が合流すると当然のように「キャンディーズ」・・・

で、僕は、テーマがそこまで「昭和」なのなら、パフォーマンス自体が「昭和」としてあるべきなんじゃないのか、と思ったりしました。

「コント55号」・・・
ジローさんがパイロットになって飛行訓練をする。
指で飛行機の翼をつくり、「飛びます。飛びます」と言いながら離陸する。
キンちゃんが、これに延々とダメ出しをして、
ジローさんは、「飛びます。飛びます」と言いながら、何度も何度も同じことを繰り返し、舞台の上をぐるぐるぐるぐるとまわりつづけます。

『青木さん家の奥さん』を「ぐだぐだ」と展開させているのは、この果てしない「ダメ出しと繰り返し」という
「昭和的構造」なのではないのかと思ったのです。
そして、たぶん、それを「成功」させるには、全盛期の「コント55号」がもっていた
あの完璧が「スキル」が求められるのではないかと思ったりもしたのでした。


内藤裕敬版『青木さん家の奥さん』は即興的性格もった演劇だと、もらったパンフレットに書いてありました。
即興性といっても、僕の理解したところでは、まったく自由にその場で思いついたことをやるというのではなく、むしろジャズの即興性に近いような、コード進行なりモードなり、とにかくあるルールにのっかって、そこでバリエーションを展開するといったものであるらしい。

これはとても興味深いものです。というのも、こうした即興性は18世紀のイタリア演劇を通してマリヴォー劇に流れ込んでいるものだからです。こうした即興は、また、きわめて高度な「スキル」を求められるものです。
はやく「南河内万歳一座」の『青木さん』を見てみたいと思いました。

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