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田野邦彦演出 『ここからは山がみえる』 [見た芝居]

SANY0081_edited-1.jpg夏はあまりにも暑く過酷で、僕は長いあいだ死んでいました。
しかし、but…
死んでいる間にも、書くべきことは山のようにたまり、
書きたいことが山のように積もっていく・・・

というわけで、ご無沙汰しました。久方振りの演劇レポートです。
芝居のタイトルはいかにもタイムリーに『ここからは山がみえる』。
「アトリエ春風舎」というところへ見に行ってきました。

田野邦彦さんは、以前このブログで紹介した『ブラックコーヒーとワルツ』、
あの「企画構成」をした演出家です。
『ブラックコーヒーとワルツ』でもいい仕事をしていました。
今回の『ここからは山がみえる』でもいい仕事をしています。
「いやぁ、いい仕事してますねぇ」と僕は思わずつぶやきました。
熱烈的お薦めの芝居なんですが、
8月23日が最終日だったので、もう終わっています。
相変わらずの遅ればせレポートでごめんなさい。

僕が見に行ったのは22日の日曜日、ということは最終日一日前。
もともとお薦めレポートの間に合うようなスケジュールではございませんでした。
(したがって、間に合わせようという努力も、実は、していない・・・)
22日に行ったのには理由があります。
この日、15時からの本公演に先立って、
お昼の12時という、まるで文楽とか歌舞伎の時間に、この日一日だけ、
「高校生リーディング版」というのがプログラムされていました。
これが見たかったのです。
べつに親戚の高校生が出てるとか、そういう不純な理由(?)ではありません。
日本の演劇の未来は高校生が握っていると思っておるからでございます。

で、これを見ました。
なんとも、まあ、すばらしかった。

そして、15時からの本公演、これがまたまたすばらしかった・・・

というわけで、このすばらしさについて語りたいわけですが、
これをわかってもらうためには、話を順序立てて、
そもそも、『ここからは山がみえる』というのはどんな台本なのかというところから・・・

『ここからは山がみえる』は翻訳劇です。
いま現在進行形で活動中のコンテンポラリーなイギリスの演出家・劇作家
マシュー・ダンスターのYOU CAN SEE THE HILLS の日本語バージョン。

YOU CAN SEE THE HILLS は2008年にマンチェスターで初演され、
その同じ2008年の秋に、こんどはロンドンのヤング・ヴィック座にかけられて大きな評判をとました。
追加公演が2009年の5月まで続きます。
演出家の田野邦彦さんが、これをロンドンまで見に行って、
残念無念、タッチの差で見損なった。
戯曲が出版されるとすぐに手に入れ、読み、惚れ込み、
日本語バージョンを制作して、今回の公演になった・・・まあ、そういう経緯です。

今回の公演は、したがって、制作プロセスの過程が翻訳台本づくりから始まっています。
しかも演出家、翻訳者、役者のコラボレーションによって翻訳がつくられた。
これは注目すべきことです。

ひとつひとつの公演にはその制作コンセプトがあるわけですよね。
演出家のヴィジョンとか演劇観とか、まあ、哲学とか、そういうものがある。
役者の資質と性格がある。
翻訳台本というものは、そうしたもののすべてが、舞台の上で身にまとう
ラグジュアリーなドレスとして、オーダーメイドされなければならない。
それが翻訳台本の理想です。理想っていうか、むしろ常識です。
翻訳劇っていうのは初めからそういうところを目指すべきものです。
そういう意味で、田野邦彦の『ここからは山がみえる』は、
芝居として面白いというだけではない。
翻訳劇のひとつの制作モデルを提示しているわけなんです。

さて、『ここからは山がみえる』はどんな芝居なのか?
まず、そうですね、『ここからは山がみえる』は一人芝居です。
2時間50分の一人芝居です。
びっくりですよね。ひとりで3時間・・・
でもぜんぜん退屈しません。
やってる方は大変でしょうけど、観ている方はぜんぜん退屈しない。
集中力がやすやすと最後まで続いて、
それで、最後に芝居全体が、こう、ずうっと見わたせて、
自然に感動が湧き上がってくる・・・そんな感じ。

オリジナルの英語バージョンで2時間20分だったのが、
翻訳したので、3時間を大幅に超えてしまった。
しかし、3時間を超えるのは、この際やっぱりまずかろうという議論になって、
やむなくカットなどして2時間50分まで縮めた・・・
アフタートークによるとそういうことです。
だから、2時間50分の一人芝居。途中5分のトイレ休憩。

退屈しない理由はいろいろあるのだけども、一番はやはり、
きわどい話が多いから(?)・・・下ネタ・・・って言っていいのだろうか、
下ネタって言っても、オヤジ系下ネタ、みたいなのではなくて、
中学生とか高校生・・・10代の男子、ヤングアダルト・・・の下ネタ。

イギリスの田舎町に住むアダムという名前の男子、これがこの芝居の登場人物。
彼が彼自身の10代の人生を一人称で語る、その物語がこの芝居のテクスト。
(物語は、日本でいう中学あたりから高校卒業くらいまで、数年間にわたります。)

アダムの10代の頭の中はセックスでいっぱい。
それが言葉になって、頭の中から外にどんどん漏れてくる・・・
クラスの女子のおっぱいが大きいとか、あっ、こっち見てニッコリしたとか、
あっ、やべ、勃起してきたとか、この女子とやりたいとか、
肝心な時に勃起しないとか、やるまえに射精しちゃったとか・・・
まあ、そういう系の台詞がポンポン出てきます。

アダムはおバカですけど、不良なのかというと、不良というわけでもない。
フツー・・・っていうか、フツーってよくわかりませんが、
フツーっていうよりは、やっぱりおバカなヤングアダルト男子。
こういうおバカ男子に3時間ひとりで話をさせておけば、セックスの話ばかりするわけじゃないけど、
まあ、かなりな割合でセックスの話ばかりしている、みたいな・・・

僕は、イギリス人のユーモアってぜんぜんわかんないんですよ。
『シャロウ・グレイヴ』っていう映画ありますよね、ユアン・マクレガーの出ている・・・
あれを見た時にぜんぜん笑えなくて・・・イギリス人なんか、あれ、笑い転げるらしい。
ブラック・ユーモアっていうんですか?
もちろん、『シャロウ・グレイヴ』のセンスとはちょっと違うんだけど、
イギリス人だとやっぱり、アダムの台詞で笑い転げるのかな、とちょっと思いました。
日本人だと、ああいう下ネタで笑い転げるということはなくて、人によってはむしろ目を伏せたりする。

まあ、だからといって、アダムが不良というわけではない。
アダムっていう男子が、隙あらば女子を「餌食」にしようと狙っているから、
女子のみんなは気をつけなきゃだめよ・・・的な世界観はこの芝居にはないです。
アダムを動かしているのはアダムの欲望っていうよりは、
アダムっていう個別の存在、個体っていうか、そういうのを超えたもの、
もっと根源的なもの・・・芝居を見ていてそういうものが伝わってくる。
生殖と繁殖と死・・・
アダムが選択するとか、しないとか、そういうものを超えたなにか・・・

知床の川を上ってくる鮭のオスを捕まえて、下心があるとか、メスを餌食にするつもりだとか、セックスのことしか頭にない、とか言っても意味ないわけです。なんかそんな感じ。
鮭の方は、そう言われて、赤面して赤くなっているわけではない・・・

アダムがおバカで、やることしか考えていない・・・って、まあ、そういう言い方するとすれば、
女子の方もやっぱりおバカで、やることしか考えていない。

知床の川を上ってくる鮭のメスを捕まえて、あなたアダムに気をつけなきゃだめよ、とか言っても意味ないわけです。

気をつけるべきことがあるとすれば、妊娠しないことなんだけど、
それでも、妊娠してしまうのね。
おまえらさ、どうしてそうなの?コンドームだってちゃんと渡しといたじゃん。
セーフティ・セックスって、いま常識でしょう?エイズもあるし・・・
でも、妊娠しちゃう・・・

セックス、そして妊娠と中絶と・・・

時代はサッチャー政権の80年代後半くらいか?・・・
それがどういう時代だったのか、僕にはいまいちよくわからないけれども、
物語の設定的には、
セックスの解放が、新型インフルエンザ・ウィルス蔓延、パンデミック!みたいに、
イギリスの超ど田舎ロイトンの町にもどっと押し寄せ、
セックスはいまや“完全”に解放されて、もはや、
恋とか愛とか、そういうもののスペースがなくなってるのね。

でも、ヤングアダルトって、ただひたすら知床の川を遡る紅鮭団じゃないわけ。
山に囲まれた田舎町の閉塞感とか、見えなくなった夢とか、崩壊してゆく家族とか、
あと、いじめもあるし、差別もあるし、
近しい人々の、老いも、死も、見つめなければいけない。
極端に言えば、そういうもののすべてが、セックスの用語で語られる・・・

というわけで、これを一人芝居で3時間やるって、やっぱりすごいこと。


アダムを演じているのは、いまが旬の太田宏さん。
現在、スイス、ローザンヌの劇団と、マルグリット・デュラスの『ヒロシマ・モナムール』で世界を回っている。
『ヒロシマ・モナムール』の映画バージョンでいうと、もちろん、
岡田英次の役を太田さんがやっている。
(えっ、ひょっとしてきみ、映画観てない?それ、ありえないんだけど・・・)
ニューヨーク公演が終わって、この秋からロシア公演。2010年の4月からフランス公演。
その合間を縫い、池袋の三つ先の小竹向原(コタケムカイハラ 「アトリエ春風舎」がある)に来て、
あっという間に3時間の一人芝居の台詞を頭に入れた。
ちなみに、今回の公演は『太田宏生誕40周年・俳優生活20周年記念公演』と、上演パンフに小さく謳ってあります。

太田宏、40歳・・・さて、このあたりから話が込み入ってきます。
アダムは10代です。イギリスのオリジナルの公演でも、アダム役は30代かな?くらいの俳優がやったそうなので、この年齢ギャップはむしろ意図されている、と考えられます。
たとえばハリー・ポッターみたいなのが出てきてアダムを演じるというコンセプトではもともとないらしい。

そうすると、この年齢ギャップはなに?どんな意味?って思いますよね。
アダム/太田宏はいま、その大人の身体/声で、25年前の自分の物語を語っているのだろうか?・・・
たとえば、ちょっと、そんなふうに考えてみたくなる。

太田宏は10代のアダムを演じている。
でも、「語り」という性格を強く持った演劇の在り方が、その「語り」のうちに、
30代のアダムを絶えず寄り添わせているような気がしてくる。
太田宏は10代のアダムと、それから30代のアダムを同時に演じているのかもしれない。

2008年初演の芝居で、物語を語ってるのが30代のアダムだと考えれば、
10代のアダムってのは、時代的にはサッチャー政権の1980年代?なんて想像されたりもする。
まあ、このへんは、「二人のアダム」という前提に立って、
ぜんぜんアキュレートじゃない計算をしているに過ぎないわけ・・・
もっとも、パソコンがないとか、携帯持ってないとか、そういうところで、
これが2008年の話じゃないということはわかる。
ちなみに、エイズの話が出てくるから1980年代以降だということもわかる。
ほかにもいろいろサインがあって、わかる人にはそこから正確な数字がはじき出せるのかもしれない・・・

それはともかく、もし、30代の誰かが、10代の頃の自分を物語るとすれば、
その物語って,絶対ニュートラルではありえない。少なくとも感情的に・・・
たとえば懐かしさ・・・懐かしい人々。逆に、いまでも許せない人々。解けない感情のわだかまり。
自らが犯した数々の愚かしい行為への反省と後悔。
失われた時。失われた未来。
あの頃の僕はなにも知らず、罠に捕らえられた小動物のようにもがいていた、とか・・・
あるいは、あの頃の僕はなんの屈託もなく永遠のいまを夢中で生きていた。
今日という日が、明日もまたずっとつづくのだと思っていた・・・
あるいは・・・そう、いま思えば、あの出来事が、その後の僕の方向を大きく変えたのだった・・・とか・・・

二人のアダムの間に経過した時間が、いまここに展開するこの演劇空間の中に、
波のように押し寄せてはまた引き返してゆく・・・

もちろん、二人のアダムなど存在しないのだとも考えられます。
太田宏は10代のアダムをダイレクトに演じるだけなのだと。
太田宏の現実の身体は問題ではなく、彼はアダムの10代の身体をただ演じるのだと。
たとえば、文楽で、40歳の人形遣いが15歳の娘の人形を使うように・・・

イギリスの演劇って、もともと、そういう「演じる身体」みたいなものを楽しむ傾向が強いみたいな気がする。
シェークスピアの時代は、芝居はぜんぶ男優がやっていたわけですよね。
そういうところで演劇というものをつくってきた。
いまでも、シェークスピアだと、男優が女役をしたり、女優が男役をしたりするのは普通なわけです。
わりと最近、池袋の芸術劇場にかかったエドワード・ホールの『ベニスの商人』(「プロペラ」)。
ポーシャとか、そういう女役もぜんぶ男優だけでやって面白かった。
僕は実際には見られなくて、NHKのテレビで見たんですけど、テレビで見てもめちゃめちゃ面白かった。
実際に見たのでは、『お気に召すまま』で、ロザリンド(男装する女役)をエイドリアン・レスター(男優)がやってるのを見たことがあります。すばらしかったですよ。
ロザリンドの女性の身体っていうのは、文楽の場合なんかと同じで、エイドリアン・レスターの所作(演技)によって、はじめて生じるもので、演じられる身体と演じる身体がどれほど違っていても、つまり、生物的に、社会的に、文化的に、民族的に・・・違っていても、それはまあ関係ない。

それで、エイドリアン・レスターがロザリンドをダイレクトに演じているのであれば、
それと同じことで、太田宏は10代のアダムをダイレクトに演じているのであって、
べつにそこに30代のアダムが同時に存在しているわけではない、とも言えるわけです。

なんか、うまく説明できてるかな?

で、その場合、この芝居、つまりこの『ここからは山がみえる』のことね、
この芝居の「語り」は30代のアダムの存在を指し示すしるしではなくて、
10代のアダムのいまを表現するための有効な手段なんだ、
「台詞」以上に有効な手段なんだっていうふうに、たとえば考えられる。
「語り」は、小説的な「語り」ではなくて、
「独白」とか「傍白」とかと同じような演劇的手法なんだ、というふうに・・・

僕の話についてきてくれてる?ここで読むのやめたりしないでね。

で、どっちなの?30代のアダムは存在するの、しないの?っていうことについて言えば、
どっちかっていうことはわかんないんだけども、しかし、どっちかっていうことが重要なのではなくて、
そういういろんな可能性を秘めたものすごく演劇的な世界の中を
太田宏がものすごい勢いで動き回っているっていうことが、この芝居の面白さなんだよ。

アダムの語る物語の中にローナっていう人物が出てくる。アダムが妊娠させる女子。
ローナから何度も電話がかかってくるんだけど、
そのローナの台詞部分については、太田宏はローナを演じるわけ・・・
ああ、ところが、ほんとうにローナを演じているのかはよくわからない。
ローナの台詞を直接話法で語っている10代のアダムを演じているのかもしれないし、
その10代のアダムを演じている30代のアダムを演じているのかもしれない・・・っていう・・・
これが演劇の面白さ、っていうか、すごく演劇的な面白さだと思う。

話の展開だけに頼り切って、ひたすらネタバレを恐れている、オリジナル脚本ベース日本の小劇場演劇の流れに決定的に欠けている演劇的豊饒さ・・・って、
これ、ちょっと言い過ぎてるよね。ごめんなさい・・・

というわけで、3時間の一人芝居がぜんぜん飽きないのは、スリリングな芝居だから。
もちろん語彙(下ネタ)的にもスリリングなんだけど、
なによりも演劇的にスリリングで、退屈してる暇なんかないわけです。

さて、太田宏は、演劇という可能性の世界をものすごい勢いで動き回るだけではなく、
客席の中もすごい勢いで動き回ります。
太田宏の存在そのものがスリリングともいえる。

客席はカフェのようにつくられています。
テーブルと椅子があって、ワンドリンク付きで、小さなライブハウスの雰囲気。
一人芝居なので、舞台はあることはあるけれども、ライブハウスでいえば、
ドラムスを置いたらそれでいっぱいになって、もうベースとかの場所はありません、みたいな、小さなもの。
太田宏は、そんな小さな舞台の上にとどまっていたりはしなくて、そこいら中を縦横に歩き回ります。
テーブルの間をするするとすり抜け、ぼうっとしていると一瞬どこに行ったかわからなくなる。
観客はあわてて目で追いかけ、頭をめぐらせ、間に合わなくてこんどは体をぐるりとまわします。

語り形式のテクストだから、呼びかけがあります。

わかるよね?僕の言ってることわかるよね?

太田宏は、通りがかりに観客の視線をとらえて呼びかけます。

わかるよね?僕の言ってることわかるよね?

えっ?ええ・・・たぶん・・・

アダムが講演会を聞きに行く場面では、太田宏は、客席の空いた椅子に腰掛け、
観客と一緒に講演を聞き、手を挙げて発言をします。
僕たちはそこではアダム同様エジンバラのパブの二階に集まった観客となり、
手を挙げて発言したアダムの勇気を称賛するのです。

3時間にわたる一人語りを通じて、太田宏は、どれくらいの数だけ観客とコンタクトをとるのでしょう?
たぶん驚異的な数です。
しかも、観客は毎回異なり、観客の数も、その座る席の位置も違う。空いている椅子も違う。
絶え間ないアドリブの中で、彼は観客を劇の世界に巻き込んでゆく、
それは、やっぱりとてもスリリングな魅力です。

アダムの物語には、ほかの登場人物もたくさん出てきます。
芝居の登場人物はアダムひとりだけ。けれど、物語の登場人物は歴史小説みたいに次々と現れる。
舞台の背後と、客席の左右の壁にパネル型の黒板がいくつもはめ込まれていて、
新しい登場人物が現れるたびにアダム/太田宏は、白いチョークで黒板にその名前を書いていきます。
(写真は舞台後ろの黒板)

ジル、サミー、アレックス、ローナ、トレーシー・デイ、キャロライン、ショーイ・・・

白いカタカナ文字が壁を埋めていきます。増殖する奇妙な登場人物リスト・・・
芝居が終わってあたりを見まわした僕たちは、登場人物の多さに今更のようにびっくりします。
これさぁ、登場人物、チェーホフより多くない?


というわけで、さあ、これを踏まえて、
次は「高校生リーディング版」のすばらしさについて語りたいのですが、
ちょっとこのブログ記事、長くなりすぎましたね。
いったん休憩して、「高校生リーディング版」はまたあらためて別ブログ記事を立てます。


では5分休憩。

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