SSブログ

田野邦彦演出 『ここからは山がみえる』bis「高校生リーディング版」 [見た芝居]

8月22日に『ここからは山がみえる』というお芝居を「アトリエ春風舎」に見に行ってきました。
そのレポートのパート2。

この日は、15時からの本公演に先立って、お昼の12時から「高校生リーディング版」が上演されました。
パート2はそのレポートです。
『ここからは山がみえる』の正規版(本公演)については、パート1をお読みください。
また、パート1を踏まえてのパート2なので、やっぱり、パート1を先にお読みください。

それでは、パート2・・・

田野邦彦さんは、「青年団」系の演出家ですが、イギリス演劇、イギリス古典演劇、シェークスピア・・・とか、
そういう方向を見据えている、まあ「青年団」系では異色の演出家です。

その田野さんが、都立美原高校というところに演劇の講師として赴任して今年で4年ほどになるのだそうです。「赴任」といっても「演劇市民講師」という肩書なので、いわゆる高校の先生というのではないらしいけれども、
いずれにしても、高等学校レベルでの「演劇教育」にポジティブにかかわっている・・・

というわけで、田野邦彦さんを軸にして、
マシュー・ダンスニーの戯曲と、演劇をする日本の高校生が出会った。
その出会いがもうすでに面白い。ちょっと大袈裟に言えば、奇跡的な出会い・・・的な・・・

『ここからは山がみえる』正規版の方は太田宏さんの一人芝居ですが、
「高校生リーディング版」は、4人の高校生によるパフォーマンスです。
田野さんの授業の生徒たちの中から、男子2人女子2人が参加しています。

リーディングなので、テクストを目の前に置いて芝居をします。
芝居をするっていうのか、リーディングをする。
オペラで言えば、コンサート形式による上演みたいなことか(?)・・・
とにかく、正規版とはそのあり方が違うわけです。

正規版と「高校生リーディング版」はいろいろと違っています。
普通、「高校生リーディング版」と聞くと、
ああ、これは「ジュニア向け簡易版」なのね、みたいなことを考えますよね。
ところが、そうじゃない。

太田宏版と高校生版の違いは、正規版と簡易版といった、ランクの違いじゃなくて、
演出のバージョンの違いなんです。
「高校生リーディング版」という名を借りて、演出家は、正規版ではかえってやりにくい、
ものすごく斬新で、刺激的で、しかもかなり危険な演出を試みている・・・という感じ。
田野邦彦がやりたかったのは、ほんとうはこっちの方だったのかも・・・とさえ思わせる。

『ここからは山がみえる』のテクストは6つの章から成り立っています。
「語り」の構造を持っているので、小説的に言って6章ですが、
演劇的に言えば、6つの場とか、6つの景とか、あるいは幕とか・・・

「リーディング版」はこれを2場削ってぜんぶで4場にしています。
6場を4場にしたところは、いかにも「簡易版」に見えるんだけれども、
実は、4場は4人の高校生の数に対応しているんです。つまり、
「リーディング版」では、場が変わるとアダムを演じる役者も変わる。
ひとりのアダムを4人で演じる。あるいは、
4人のアダムが登場する、と言ってもいいんですけど・・・
だから、高校生4人で4場。

高校生のみんなひとり一人にアダムの役をやらせてあげたい、とか、
6場を4場に削っても、ひとりで4場ぜんぶやるのは高校生には大変だ、とか、
そういう配慮みたいなものもひょっとしたら働いているのかもしれない。
けれども、少なくとも結果的には、

この「4人のアダム」というアイデアが、

演出のコンセプトとか、芝居の演劇構造とか、そういうものを根本的に変えてしまった。


たとえば、
正規版の太田宏による一人芝居では、
「語り」の構造が、30代のアダムを10代のアダムに寄り添わせていました。(→ パート1 参照)
30代のアダムの「語り」が、6つの章からなる物語を、ある意味で統合していた。
10代のアダムは、初めは12歳から、最後は18歳まで、
それぞれの章で、違う年齢、違う時代を生きています。
アダムは成長していく、あるいは少なくとも変っていく。アダムは変わっていくけれども、
それはやはりひとりの同じアダムなんだっていうことを保証しているのが、
30代のアダムの「語り」なわけですよね。
語り手のアダムが「僕」っていえば、すべてのアダムはその同じひとつの「僕」に収斂していく。
30代のアダムの記憶/語りの中で、すべてのアダムがひとつになる。

「高校生リーディング版」では、この30代のアダムの「語り」がなくなります。
テクストは同じテクストだから、「語り」の構造自体はなくならないんだけれども、
演じている役者たちがみんな17歳とかなので、
「語り」とアクションの間にほとんど距離がとれなくなるわけです。
大人の「語り」がなくなる、と言ってもいい。
高校生の「語り」は、彼らが生きる彼らの「現在」の実況中継のようなものになります。

いくつもの時代のアダムをひとつにまとめる大人のアダム、
その大人のアダムがいないのなら、
それぞれの時代を生きるいくつものアダムは、
違う役者/高校生によって演じられるのがいかにも自然であるように思えてきます。
成長するアダムはスキゾ的に変化してゆき、いくつものアダムを統合する大人は存在しない。
これが「高校生リーディング版」の基本的なあり方になります。
統合するとすれば、それはすべて観客がしなければいけない・・・


「4人のアダム」によって生ずる演出上の大きな違いのもうひとつは、
「語り」がより演劇的に展開されるということです。

ひとりがアダムを演じていると、役者が3人余りますよね。
それで、この人たちがいろんな役をやります。
友人役をやったり、両親をやったり、祖父母をやったりする。これが面白い。
直接話法で語られている部分は、もちろんその人物役の人が台詞を言う。
台詞のない部分でも、ある人物についての描写があれば、その人物役が舞台に登場する。
描写にふさわしい演技をしたり、あるいは逆に、テクストにはない所作をしたりする。
テクストでは出てこない人物も登場させることができる。
「1人のアダム」の時より、演出の幅がぐんと広がるわけです。
演出によっては、アダムの語り(テクスト)を裏切ることもできる。

以前、ハインリッヒ・フォン・クライストの『O侯爵夫人』を芝居で見たことがあります。
『O侯爵夫人』はクライストの短編小説ですが、これをシナリオ化もなにもしないで
小説のテクストのまま舞台にかけたものです。
小説の登場人物の数だけ芝居の登場人物が出てきて物語を演じる。
台詞の部分はもちろんその当の人物を演じている俳優が言います。
地の文のところはどうするのかというと、これも登場人物/俳優に“適当”に割り振られていて、
そこのところはリーディング的にテクストを言い、必要ならばテクストの描写に“ふさわしい”演技をする・・・
みたいなことで、芝居としてとても面白いものでした。

田野さんが「高校生リーディング版」で採用したのは、いわばこちらの演出です。
演出的には、「1人のアダム」の場合でも、つまり正規版的なものでも、
登場人物たち(太田さんが黒板にその名前を次々と書いていく、あの何人もの登場人物たち)を、
すべて舞台上に化身させ、さまざまな演技をさせる、という選択もあるはずですよね。
もっとも、それだけの数の役者を集めるのが大変だけど・・・

「高校生リーディング版」では、そのときアダムではない3人が、音響効果なんかも担当して、
それも面白かったです。暴力的なシーンでは、拍子木の大きなやつで床をたたくとか・・・
まあ、ちょっと歌舞伎みたいですけど・・・

「リーディング版」とうたっているわけだから、舞台上でリアルな芝居が展開するわけではありません。
だから、登場人物の「からみ」っていうのも、拍子木の音のように、
かなりな部分、観客の想像力にゆだねられます。そこがまた面白い。
アダムではない役者たちは、その他の登場人物として舞台に登場するのだけれど、
演劇のあり方はリアリズムではなくて、象徴的、あるいは儀式的です。

まあ、もともと一人芝居だから、観客の想像に依っているところは大きくて、
ライブカフェみたいな“そこ”が、あるときは教室で、あるときは田園の中で、
あるときはブラックプールの養護施設で、またマンチェスターのダウンタウンで・・・
っていう、そういう意味ではシェークスピア的な演劇空間が広がります。

しかし、「高校生リーディング版」の極め付きは、なんといっても、
セックスの混淆、あるいはジェンダーの混乱。

高校生4人っていっても、そのうち2人は女子ですから、
4人のアダムのうち2人は女子によって演じられる。

アダムは、彼の10代の人生をセックスの用語で物語る、って、前回書きましたけど、
まあ、そういう言い方をするとすれば、その「セックスの用語」っていうのは、
10代の男子の「セックスの用語」なわけです。
そうすると、その場合、女子の「セックスの用語」っていうのはべつにあるのかな?
女子が、彼女の10代を「セックスの用語」で語ると、それはやっぱりこんなふうなのかな?
それともどうなの?・・・という“素朴”な疑問がわいてくる。

アダムのようなヤングアダルトがセックスについて語る、っていう、
こういう芝居を演ずる/観る場合、
潜在的には、最初からこうした疑問がそこにあるんだけれど、
でも、触れずにすまそうと思えば、触れずにすますこともできるわけです。演出的に・・・

それが、女子がアダムを演ずることによって、一気に問題が顕在化する。
しかもかなり鋭く顕在化します。
男子の語るセックスを、この女子高生はどのように受けとめどのように表現しているのか?
どのように理解し、どのように演じているのか?

これは、イギリス演劇的には、ある意味、めずらしい事柄ではなくて、
女子だろうが、男子だろうが、ここは10代の男子の身体を演じるということが問題なので、
男優がロザリンドやポーシャの身体を演じるように、
女子高生は、男子高生の身体を演劇的に演じればよいのだという、ただそれだけのこと・・・

でも、女子高生って、いま勉強中なわけなんだから、
そんな、求められるスキルみたいなものがはじめからあるわけでもない。
アダムを演じる彼女の身体は女子高生の身体でありつづけようとする。

これが、逆に、演劇的にものすごく面白い。
ぜんぶで4場あるうちの、第3場で、女子がアダムを演じます。
アダムがローナと“楽園の夏”を過ごした後、あろうことかローナが妊娠してしまうという物語・・・
ここでローナを演じるのはもうひとりの女子です。
宝塚みたいに扮装しているわけでもないから、
2人の女子は、それぞれ、男子と女子を演じない限り、
ただ2人の女子としてそこに立っていることになります。

2人の女子は、演じることによって、一対の男子と女子をつくりあげていく。
ローナに妊娠“させた”アダムと、アダムに妊娠“させられた”ローナをつくりあげていく。
演じることをやめれば、ただ2人の女子高生に戻ってしまいます。

アダムを演じる女子は、無条件に男子の身体をつくり出せたりはせず、
私たちはしばしばそこにアダムという“女子の身体”を見出すのです。
アダムの物語は、そのとき、
男根を持たない女子の身体が、 
男根を持たない女子の身体に、妊娠“させた”物語へと変貌します。

男性の支配とか、男根主義とか、そういう系のディスクールは、
男根の不在によって、ここでは意味を持たなくなる。
妊娠と中絶が、ぜんぜん違う切り口で見えてくる・・・

しかし、もっと驚かされるのは、
アダムを演じる女子が、女子の身体のまま、
アダムを理解し、アダムのセックスを受け入れ、そして、それを、
ただそのものとして表現しようとしている・・・そのように感じられることです。

彼女の身体は、完全に男子の身体を演じてはいないけれども、
それは、すでにいわゆる女子の身体でもない。
彼女は、それまでの彼女の身体表現を離れ、
あらたな演劇的身体を創造しようとしている。
女子の身体であると同時に男子の身体でもあるような、新しい身体・・・

その意味では、第4場の「セックスシーン」をカットしてしまったのは少し残念。
第4場でも女子がアダムを演じているのだけれど、
「セックスシーン」がカットされてしまったので、彼女は、たぶん、
彼女のそれまでの身体表現で、第4場のアダムを表現できてしまったような気がします。
それは、それで、よくまとまって説得力はあるのだけれど・・・

上演パンフには、“過激”な性的表現は、高校生ということもあってカットしました、
みたいな内容のことが書いてあります。
その選択はそれなりに正しい選択だったのだと僕も思います。

今回は1回だけの公演です。慣れるということもむずかしいでしょう。
“穏やか”なものに書き換えられた性的表現の周辺でさえ、
まるで嘘発見器の前で嘘をつくときのように、
役者たちのテンションは明らかに上がっていましたから・・・

けれども、その危うさのようなものが、この「高校生リーディング版」を
目を見張るほどにみずみずしいものにしていた、とも言えそうです。

たとえて言えば、朝露にぬれたバラの花を摘むような・・・

コメント(0) 
共通テーマ:演劇

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。