田野邦彦企画構成『ブラックコーヒーとワルツ』 [見た芝居]
舞台は、カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェ・・・
いえ、舞台の上にカフェのセットがつくられているというわけではなく、
池袋コミュニティ・カレッジという本物のカルチャーセンターのロビーの一角に、小さなカフェが実際にある。
そのカフェで芝居が上演されたのです。
ところが、その芝居の舞台設定が、やはり、「カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェ」なので、
その実際のカフェのテーブルや椅子がそのまま舞台装置として使われました。
舞台は、二重の意味で、カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェなわけです。
じゃあ、観客はどこにいるのかというと・・・
奥に、こう、カフェの空間が広がっています。テーブルがあって椅子がある。で、こっち側にカウンター・・・
まあ、スタバとかを適当にイメージしてもらって・・・
コーヒーとかを注文して、それを受け取るカウンターがこっち側にある。
そのテーブル席とカウンターの間にちょっとしたスペースをつくる。エンプティ・スペース・・・
で、そこに椅子をずらっと窮屈に並べて、それが観客席になった。
観客席の間に「舞台」に通じる通路を設け、役者たちは、実際のカフェの入り口、つまり観客の後ろから入ってきて、観客の脇を通って「舞台」の方に行き、椅子に腰かけます。
店員が、つまり、店員を演じる役者がカウンターの方から来て、客・・・つまり、カフェの客を演じる役者のところへ行って注文をとったり、注文を取らずに話し込んだりします。
僕が客席に着いた時には、カフェにはすでに女性客(役者)がひとり座っていましたが、
彼女が初めからそこにいたのか、それとも、初めは誰もいなかったのか、はわかりません。
僕が観客席に着くと間もなく、もうひとりの女性が入ってきて、
すでに舞台上にいる女性客とは別なテーブルに着きました。
カフェの店員二人を含めて、役者は総勢16人。
14人の客が、入れ替わり立ち替わりカフェに入ってきて、
あちらこちらのテーブルに小さなグループをこしらえて会話をします。
一番混んでいる時には、五つか六つのテーブルが埋まります。
それから、客はひとりまたひとりとカフェを去っていく・・・
『ブラックコーヒーとワルツ』の日曜日バージョン「まわりながら」はこんなふうに展開します。
日曜日バージョンというのは、この他に月曜日バージョン「まちながら」というのがあるからです。
僕はそちらは見ていないのですが、二つの芝居はたぶん同じコンセプトでつくられている・・・
このコンセプトがなんとも面白いですよね。役者が下手でも、これだけで面白い。
しかも、役者は下手じゃない・・・
役者は下手じゃない・・・なんて、失礼な言い方に聞こえるかもしれませんが、
いえ、実は、彼らはプロの俳優さんではなく、『青年団の演劇入門・実践編』の受講生たちなんです。
その「卒業公演」的なもの・・・
『青年団の演劇入門・実践編』には日曜クラスと月曜クラスがあって、
日曜日の受講生たちがやったのが日曜日バージョンです。
『青年団の演劇入門・実践編』に先だって『青年団の演劇入門』という講座が開かれていました。
去年の夏のことです。その入門編を終了した受講生が実践編に進むことができたわけなんですが、
その入門編に、実は、僕も参加していたのです。
フランス古典劇を日本の小劇場演劇や中・高演劇部の演劇活動の中に取り込み定着させたい・・・
という「野望」を、僕はいま抱いています。
そのためにはまず、古典劇の「翻訳」というものにどのような「可能性」(オールタナティブ)があるのか?
というところから考え直さなければならないんだよ・・・
というわけで、サイトを立ち上げてフランス古典喜劇の翻訳掲載を始めました。
で、「翻訳」の「可能性」を探るには、やっぱり、芝居がいまどんなふうにつくられるのか知りたいよね、
と思っていましたから、夏休みの時期に全6回という「手ごろさ」で開かれる『青年団の演劇入門』は、
僕にはちょうど渡りに船のワークショップだったわけです。
多くのワークショップが俳優対象である中で、一般向けの「公開講座」であることもありがたかった。
『青年団の演劇入門』ですから、講師は青年団、あるいは青年団関係の人たち。
平田オリザ、柴幸男、多田淳之介、吉田小夏・・・
盛り沢山の講師陣に、講座は6回しかありませんから、なかなか深めるということはできないんですけど、
体験として面白く、またなによりも演劇に対する視界が広がります・・・
その時に全6回の講座全体のコーディネーター的存在だったのが青年団演出部の田野邦彦さんで、
今回の『ブラックコーヒーとワルツ』の企画構成&ナビゲーターです。
僕は『青年団の演劇入門・実践編』には参加しなかったのですが、
実践編参加者たちによる特別公演のお知らせが届いたので、早速見に行ったのでした。
上演テクストは、実践編講座の中での参加者たちと田野さんとのやり取りをベースに、
最終的に田野さんがまとめたということのようです。
参加者たちの「大切な想いや、アイディアや、イメージの数々を、できる限り否定せずに掬い取るよう心がけ」たと、田野さんは上演パンフの中に書いています。
実際、見ていると、役者たちは舞台の上でそれぞれが自分自身を演じているかのように思えてきます。
これが、まず、この芝居のすごいところ・・・
自分自身であることと自分自身を演じることはぜんぜん違う。
ただ素のままでそこにいるのとはぜんぜん違う。
15歳の少女は、テーブルを挟んで60歳の女性と向き合い、彼女自身の15歳を演じ、
女性は15歳の少女を前にした自分の老いを穏やかに演じてゆく。
現実のカフェがそのまま劇空間に変容したように、役者たちの人生が、人生の一コマが、演劇に変容する。
現実のカフェと舞台のカフェがダブり、役者の現実と役者の芝居がダブっていく・・・
カフェ店員を除く登場人物14人は、カルチャーセンターのさまざまな講座の受講者たちです。
14人は、五つの違った講座を受けている五つのグループに分かれており、
この五つのグループが舞台上の五つのグループに対応します。
ひとつのグループはテーブルを囲んで、それぞれ独立した島のようなものを舞台上に構成し、
グループ同士が接点を持つことはあまりありません。
時折、あるグープがカフェ全体の注意をひいたり、
グループのメンバーが他のグループのメンバーに話しかけたり・・・ということが起こりますが、
基本的には、グループはそれぞれのグループとしてそれぞれのダイアローグを展開します。
で、この芝居のもうひとつすごいところは、彼らが同時にしゃべるということ。
台詞が必ずしもグループ間でまわっていくのではなく、ほんとうに同時に、同時多発的に発せられること。
これは、もちろん、平田オリザの「同時多発演劇」の流れにつながるのだろうけれど、
平田オリザの「同時多発」もここまで「テロリスト的」ではなかったと思われます。
台詞はかなりの部分聞き取れない。
観客が意識的にどこかのグループにフォーカスすれば、ようやくそのグループの台詞が聞き取れるかな、
というくらい・・・
沈黙が訪れたり、あるグループだけが話しているので観客全員がそこにフォーカスするというような場面もあって、そういうところと同時発話部分との関係がいまいちよく見えないんだけれど・・・
いずれにせよ、この芝居で重要なのは、個々のテーブルで展開されるストーリーであるよりも、
人々の流れなのかなという気もします。
舞台は、3月の終わりのカルチャーセンターのロビーのカフェ。
講座を受講するためにここにやって来た人々がまたそれぞれの方向に別れていく。
この場に集まり、またこの場から散っていく。
その動き、あるいは、その流れ。
私たちはどこから来て、そしてどこに行くのか・・・
ひとりまたひとりとカフェに集まって来た人々が、
ひとりまたひとりと姿を消していく。
その流れ・・・
芝居の最後では、店員がただひとり舞台の上に残されます。
彼は椅子に腰を下ろし、魂が抜けたかのようにじっと動かなくなる。
長い沈黙。そして幕・・・
田野さんは、上演パンフの中でこうも言っています。
「桜の咲く」この時期に「私たちが必ず抱いてしまうような相反するいくつかの想いと“こそばゆさ”みたいなもの」を描いてみたかった。
ただし「桜という言葉を使わずに」・・・
確かに、桜という言葉は芝居の中に一度も出てきません。
でも、それは芝居の蔭にこっそりと隠されているのです。
『ブラックコーヒーとワルツ』の日曜日バージョン「まわりながら」は、
どう考えても、チェーホフの『桜の園』が終わるように終わるからです。
いえ、舞台の上にカフェのセットがつくられているというわけではなく、
池袋コミュニティ・カレッジという本物のカルチャーセンターのロビーの一角に、小さなカフェが実際にある。
そのカフェで芝居が上演されたのです。
ところが、その芝居の舞台設定が、やはり、「カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェ」なので、
その実際のカフェのテーブルや椅子がそのまま舞台装置として使われました。
舞台は、二重の意味で、カルチャーセンターのロビーにある小さなカフェなわけです。
じゃあ、観客はどこにいるのかというと・・・
奥に、こう、カフェの空間が広がっています。テーブルがあって椅子がある。で、こっち側にカウンター・・・
まあ、スタバとかを適当にイメージしてもらって・・・
コーヒーとかを注文して、それを受け取るカウンターがこっち側にある。
そのテーブル席とカウンターの間にちょっとしたスペースをつくる。エンプティ・スペース・・・
で、そこに椅子をずらっと窮屈に並べて、それが観客席になった。
観客席の間に「舞台」に通じる通路を設け、役者たちは、実際のカフェの入り口、つまり観客の後ろから入ってきて、観客の脇を通って「舞台」の方に行き、椅子に腰かけます。
店員が、つまり、店員を演じる役者がカウンターの方から来て、客・・・つまり、カフェの客を演じる役者のところへ行って注文をとったり、注文を取らずに話し込んだりします。
僕が客席に着いた時には、カフェにはすでに女性客(役者)がひとり座っていましたが、
彼女が初めからそこにいたのか、それとも、初めは誰もいなかったのか、はわかりません。
僕が観客席に着くと間もなく、もうひとりの女性が入ってきて、
すでに舞台上にいる女性客とは別なテーブルに着きました。
カフェの店員二人を含めて、役者は総勢16人。
14人の客が、入れ替わり立ち替わりカフェに入ってきて、
あちらこちらのテーブルに小さなグループをこしらえて会話をします。
一番混んでいる時には、五つか六つのテーブルが埋まります。
それから、客はひとりまたひとりとカフェを去っていく・・・
『ブラックコーヒーとワルツ』の日曜日バージョン「まわりながら」はこんなふうに展開します。
日曜日バージョンというのは、この他に月曜日バージョン「まちながら」というのがあるからです。
僕はそちらは見ていないのですが、二つの芝居はたぶん同じコンセプトでつくられている・・・
このコンセプトがなんとも面白いですよね。役者が下手でも、これだけで面白い。
しかも、役者は下手じゃない・・・
役者は下手じゃない・・・なんて、失礼な言い方に聞こえるかもしれませんが、
いえ、実は、彼らはプロの俳優さんではなく、『青年団の演劇入門・実践編』の受講生たちなんです。
その「卒業公演」的なもの・・・
『青年団の演劇入門・実践編』には日曜クラスと月曜クラスがあって、
日曜日の受講生たちがやったのが日曜日バージョンです。
『青年団の演劇入門・実践編』に先だって『青年団の演劇入門』という講座が開かれていました。
去年の夏のことです。その入門編を終了した受講生が実践編に進むことができたわけなんですが、
その入門編に、実は、僕も参加していたのです。
フランス古典劇を日本の小劇場演劇や中・高演劇部の演劇活動の中に取り込み定着させたい・・・
という「野望」を、僕はいま抱いています。
そのためにはまず、古典劇の「翻訳」というものにどのような「可能性」(オールタナティブ)があるのか?
というところから考え直さなければならないんだよ・・・
というわけで、サイトを立ち上げてフランス古典喜劇の翻訳掲載を始めました。
で、「翻訳」の「可能性」を探るには、やっぱり、芝居がいまどんなふうにつくられるのか知りたいよね、
と思っていましたから、夏休みの時期に全6回という「手ごろさ」で開かれる『青年団の演劇入門』は、
僕にはちょうど渡りに船のワークショップだったわけです。
多くのワークショップが俳優対象である中で、一般向けの「公開講座」であることもありがたかった。
『青年団の演劇入門』ですから、講師は青年団、あるいは青年団関係の人たち。
平田オリザ、柴幸男、多田淳之介、吉田小夏・・・
盛り沢山の講師陣に、講座は6回しかありませんから、なかなか深めるということはできないんですけど、
体験として面白く、またなによりも演劇に対する視界が広がります・・・
その時に全6回の講座全体のコーディネーター的存在だったのが青年団演出部の田野邦彦さんで、
今回の『ブラックコーヒーとワルツ』の企画構成&ナビゲーターです。
僕は『青年団の演劇入門・実践編』には参加しなかったのですが、
実践編参加者たちによる特別公演のお知らせが届いたので、早速見に行ったのでした。
上演テクストは、実践編講座の中での参加者たちと田野さんとのやり取りをベースに、
最終的に田野さんがまとめたということのようです。
参加者たちの「大切な想いや、アイディアや、イメージの数々を、できる限り否定せずに掬い取るよう心がけ」たと、田野さんは上演パンフの中に書いています。
実際、見ていると、役者たちは舞台の上でそれぞれが自分自身を演じているかのように思えてきます。
これが、まず、この芝居のすごいところ・・・
自分自身であることと自分自身を演じることはぜんぜん違う。
ただ素のままでそこにいるのとはぜんぜん違う。
15歳の少女は、テーブルを挟んで60歳の女性と向き合い、彼女自身の15歳を演じ、
女性は15歳の少女を前にした自分の老いを穏やかに演じてゆく。
現実のカフェがそのまま劇空間に変容したように、役者たちの人生が、人生の一コマが、演劇に変容する。
現実のカフェと舞台のカフェがダブり、役者の現実と役者の芝居がダブっていく・・・
カフェ店員を除く登場人物14人は、カルチャーセンターのさまざまな講座の受講者たちです。
14人は、五つの違った講座を受けている五つのグループに分かれており、
この五つのグループが舞台上の五つのグループに対応します。
ひとつのグループはテーブルを囲んで、それぞれ独立した島のようなものを舞台上に構成し、
グループ同士が接点を持つことはあまりありません。
時折、あるグープがカフェ全体の注意をひいたり、
グループのメンバーが他のグループのメンバーに話しかけたり・・・ということが起こりますが、
基本的には、グループはそれぞれのグループとしてそれぞれのダイアローグを展開します。
で、この芝居のもうひとつすごいところは、彼らが同時にしゃべるということ。
台詞が必ずしもグループ間でまわっていくのではなく、ほんとうに同時に、同時多発的に発せられること。
これは、もちろん、平田オリザの「同時多発演劇」の流れにつながるのだろうけれど、
平田オリザの「同時多発」もここまで「テロリスト的」ではなかったと思われます。
台詞はかなりの部分聞き取れない。
観客が意識的にどこかのグループにフォーカスすれば、ようやくそのグループの台詞が聞き取れるかな、
というくらい・・・
沈黙が訪れたり、あるグループだけが話しているので観客全員がそこにフォーカスするというような場面もあって、そういうところと同時発話部分との関係がいまいちよく見えないんだけれど・・・
いずれにせよ、この芝居で重要なのは、個々のテーブルで展開されるストーリーであるよりも、
人々の流れなのかなという気もします。
舞台は、3月の終わりのカルチャーセンターのロビーのカフェ。
講座を受講するためにここにやって来た人々がまたそれぞれの方向に別れていく。
この場に集まり、またこの場から散っていく。
その動き、あるいは、その流れ。
私たちはどこから来て、そしてどこに行くのか・・・
ひとりまたひとりとカフェに集まって来た人々が、
ひとりまたひとりと姿を消していく。
その流れ・・・
芝居の最後では、店員がただひとり舞台の上に残されます。
彼は椅子に腰を下ろし、魂が抜けたかのようにじっと動かなくなる。
長い沈黙。そして幕・・・
田野さんは、上演パンフの中でこうも言っています。
「桜の咲く」この時期に「私たちが必ず抱いてしまうような相反するいくつかの想いと“こそばゆさ”みたいなもの」を描いてみたかった。
ただし「桜という言葉を使わずに」・・・
確かに、桜という言葉は芝居の中に一度も出てきません。
でも、それは芝居の蔭にこっそりと隠されているのです。
『ブラックコーヒーとワルツ』の日曜日バージョン「まわりながら」は、
どう考えても、チェーホフの『桜の園』が終わるように終わるからです。
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