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ワジディ・ムアワッド作・演出 『頼むから静かに死んでくれ(リトラル)』 [見た芝居]

マシュー・ダンスターの『ここからは山がみえる』のレポートをしたので、
その勢いで、たぶんダンスターと同世代くらいのカナダの演出家・劇作家
ワジディ・ムアワッドの『頼むから静かに死んでくれ』のレポートをします。

「Shizuoka 春の芸術祭2010」というので見て、
だから、だいぶ前の話なんですけど、
感涙しました。
生きていくのっていろいろ大変・・・
でも、こういう芝居に出会えるんだよね・・・的な、
それくらいのテンションで、レポートするぞ!と思いつつ
そのままになっていた・・・

ワジディ・ムアワッドはカナダの人なんですけど、名前から想像できるように、
フツーのカナダの人ではありません・・・って、
カナダに行ったこともなく、
どういうのが「フツーのカナダ人」なのかもわからず、
「フツーのカナダ人」なんているのかどうかもわからず、
まあ、ちょっと、適当に言っていますが・・・

上演パンフによると、1968年レバノンのベイルート生まれで、
8歳のとき家族とともにフランスに亡命。その後、
滞在許可証の更新が拒否されてカナダのケベック州に移住した。それが1983年。
15歳くらい・・・というわけで、まあ、カナダ人といってもいろいろあります。
それから、ケベック州ですから、カナダといってもフランス語圏です。
それで、今回は日本語字幕付きフランス語上演。

『頼むから静かに死んでくれ』は日本語のタイトルで、原題は『リトラル (Littoral)』。
「リトラル」は「海と陸が接している地域」というような意味ですから、
日本語タイトルとは無関係です。
原題とぜんぜん違うタイトルをつけるのは、ちょっと映画みたいですが、
芝居でどうして映画みたいなことをしたのか、その理由はわかりません。
映画と同じ理由なんでしょうか・・・

『リトラル』は1999年のアヴィニョン演劇祭で上演されています。
上演パンフによると、その後に書かれた3編とともに『約束の血』4部作を構成し、
2009年のアヴィニョン演劇祭では『約束の血』4部作の第1部として再演された・・・ということです。

実は、今月中旬に、パリの国立シャイヨ劇場で、『リトラル』を含む
ワジディ・ムアワッドの“通し狂言”一挙上演があるんですけど(上演時間11時間30)、
その予告プログラムによると、『リトラル』『火』『森』の3部仕立てになっているので、
その後また少し構成上の修正が入ったのかもしれません。
一応『火』『森』を観てくるつもりなので、またレポートします。
(「火」とか「森」は、内容がわからないので適当に訳してます。)


それで、『リトラル』に話を戻して・・・

『リトラル』の主人公ウィルフリッドは青年です。
ヤングアダルトとかではなくて、青年・・・
父と母をめぐる物語でもあるし、
イニシエーション的な要素もあり、
物語とともに主人公は成長もする。
ウィルフリッドは、その決定的に(と思える)孤独な人生の中で、長い間、
ファンタジックな空想の世界を一種のシェルターとして生きていくのだし、
その空想の世界に住む彼の絶対的に忠実な友人シュヴァリエ(アーサー王の騎士)が
いつも、現実の過酷さから彼をまもってくれるのだし・・・っていう、
このあたりはヤングアダルト的でもあるけれど、ポジション的にはやっぱり青年です。

ウィルフリッドは、ケベック(たぶん)のどこかの都会に住んでいます。
フリーター的にバイトをし、行きずりに愛のないセックスを繰り返す。
セックスをした相手の顔さえ覚えていない・・・
彼の人生が決定的に孤独であるのは、そもそもの始まりにおいて、
彼が母を知らず、父を知らないから・・・
母親は彼を生んで死んでしまった。
母親が死ぬと、父親は姿を消してしまった。

ウィルフリッドは家族を持たず、母の愛も父の愛も知らない。
父も母も持たないっていうことは、この芝居的にはまた、
ウィルフリッドは、「自分のルーツをたどる」って言うときの、
そのルーツをたどるための最初の出発点を失っている、ということでもあります。
彼はこの都会の中でただ根無し草のように生き、なにも意味づけることができない。

そこに、突然、父親が死んだという知らせが届きます。
会ったこともない父親の死・・・
ウィルフリッドの人生は、父親の死にかかわることで、大きく変わっていきます。


父親は遠くからやってきた移民でした。身寄りのない異邦人・・・
ウィルフリッドは、父の葬儀に参列し、そこで、
父を母と同じ墓に埋葬することができないのだということを知ります。
ウィルフリッドの母は、息子をこの世に送り出す代償として、死ななければならなかったのです。
彼女の体は弱く、夫は、妻が出産に耐えられないことを知っていたはず・・・
母方の親戚たちにとって、彼女を殺したのは
ウィルフリッドの父親であり、またウィルフリッドにほかならない。
父を母と同じ墓に埋葬することなどありえないのです。

ウィルフリッドはまた、父親の遺品の中に、
息子に向けて書かれ、そして出されなかった幾通もの手紙を見出します。
知らなかった父のこと、知らなかった父と母のこと・・・

“禁じられた”父親の埋葬を父親のために遂行する・・・
それがウィルフリッドの人生の目的となります。
遠い父親の祖国、地中海の岸辺に、彼は父を埋葬しようと考えるのです。
父の祖国へ向かうことはまた、彼自身のルーツの探索でもあり、
父を埋葬することはまた、彼自身を受け入れることでもある・・・
というのが、まあ、だいたいの話の流れです。

題名の「リトラル」はこの地中海の岸辺のことを意味します。
そこは、ワジディ・ムアワッド自身の出身地レバノンの岸辺であるかもしれませんが、
少なくとも、芝居の中では、レバノンという名前はとくに出てきません。
むしろ、レバノンの岸辺でもあり、また同時に、レバノンという岸辺を超えた、より大きな地中海的広がりでもある、と考えるべきなのでしょう。

レバノンからパレスチナへ、地図的には北から南へと縦にのびる沿岸地域は、
長い間、そして現在いまこの時も、戦争と、破壊と、殺戮の絶えることなき土地です。
芝居の中でも、“そこ”はそのような土地として描かれています。しかし、
“中東”と呼ばれるその土地の岸辺に立ち、まぶしさに目を細めながら遠く海の彼方を眺める者が、
少しでも“西欧”文学に触れたことがあるならば、
その目には、オデュッセウスの乗った船の帆影が蜃気楼のように揺れるのが見えるにちがいない。
あの島はきっとカリプソーの島・・・
寄せる波と返す波の合間に聞こえるのは、イスラエル軍の放つ砲弾の音ではなく、
アキレスとヘクトールが交える刃の音・・・


8歳でベイルートを立ち去ったワジディ・ムアワッドが、彼の“祖国”を描こうとするとき、
彼の持っている「表現ツール」(というような言い方をするとして)が西欧演劇・・・
あるいは西欧文学・・・あるいはむしろ、そもそも文学とはもともとが演劇的パフォーマンスであったことを考えれば、やっぱり西欧演劇・・・であることは面白いことです。

ワジディ・ムアワッドには、また、そのことを隠そうとするつもりもありません。
芝居は大きく2部仕立てになっていて、第2部は、ウィルフリッドが父の祖国で
父の埋葬場所を探してさ迷う、その“旅”の話になるのですが、
その第2部は、土地の年老いた語り部によるギリシャ悲劇の朗誦で始まります。
盲目であるこの老人は、正確に言うと、「語り部」ではなくて、
開いた本の点字を指でたどりながら“朗読”をしているのですけれど・・・

第2部では、いくつかの“ギリシャ的”名前が引用されます。
カリプソーも引用されますが、とくに重要なのはアンチゴーネ・・・
アンチゴーネは、兄の亡骸を埋葬しようとしました。
埋葬は王によって禁じられ、禁を破る者は死をもってそれを贖わなければならない。
それでもなお、アンチゴーネは兄の亡骸を埋葬しようとします・・・

ウィルフリッドの父の埋葬が、ここで、アンチゴーネの兄の埋葬とリンクします。
ケベックの都市に埋もれるように暮らしていたフリーターの人生が、
叙事詩的な、あるいは古典悲劇的な重層性を帯びて地中海の岸辺に広がります。


『リトラル』の面白さは、その物語内容である以上に、その演劇的あり方です。
第1部と第2部は対照的です。第1部は、ケベックの都市が舞台ですから、
父の祖国を舞台とする第2部とはその意味でも対照的なのですが、
それ以上に、演劇的、あるいは演出レベル的に大きなコントラストを見せるのです。
登場人物の「語り」的長台詞の多い古典劇スタイルの“静”を基調とした第2部に対し、
第1部はスピード感あふれる“動”でつくられています。
(第1部とか第2部とか言っているのは、僕が便宜上勝手にそう分けているので、
芝居自体はべたっと通して3時間近く、休憩なしで演じられます。ちょっと体力的にはつらいかも・・・
あと、第1部も微妙に2部構成的になっている。第2部にもちょっと派手なエピローグがある。)

第1部では、俳優たちはめまぐるしくその役を取り替えます。
俳優の数は全部で8人。女優が2人に男優が6人。
ウィルフリッドを演じる俳優はずっと固定ですが、
あとの俳優たちはひとり何役もやります。

場所もあっという間に変化します。主人公のアパート、ピープショーの店、葬儀屋・・・
あと、現実と空想、現実と非現実が、同じ空間で、同じレベルの芝居をします。
ウィルフリッドの父親の亡霊も“平気”で登場します。

ぽんぽんとアップテンポで、“そこ”(舞台)がさまざまな時間と場所に変化する、
場面が不連続的に次々と連鎖することで物語が進行していく、
場面が変わると、さっきと同じ俳優がべつな役になってどんどん出てくる、
それで、父親の亡霊とくれば、
まあ、シェークスピアですよね・・・父親の亡霊は『ハムレット』でおなじみ・・・

第2部でギリシャ的名前が引用されるように、
第1部ではシェークスピアの名前が引用されます。
どういうコンテクストで引用されていたかは忘れました。ごめんなさい・・・
『ハムレット』からは、「生きるべきか、死すべきか」という台詞も引用されます。
しかも、ここだけ日本語で(フランス語でなく)台詞が言われます。
こちらの引用は第2部だったかもしれません。
どういうコンテクストで引用されていたかは忘れました。すみません・・・
まあ、内容的にはいろいろと解釈とか可能でしょうけど、
いま僕の興味を引くのは、第1部と第2部で、シェークスピア的世界と地中海的世界が、
あるいは、なにかそういうものが、演劇構造的に明確なコントラストをつくっていること。

第1部では、
めまぐるしい場面転換、空間の不連続な連鎖、etc・・・について、登場人物のひとりが文句を言います。
さっきアパートだった“ここ”が、なぜいまは葬儀屋なんだ。意味がわからん。
ぜんぜんリアリティがないじゃないか、とウィルフリッドの伯父が怒るのです。

第1部はそういう演劇です。
さっきまでアパートだった同じ場所が、唐突に葬儀屋に変わる芝居なのです。
そして、そのことに登場人物が文句を言うような芝居なのです。
第2部はそのような演劇ではありません。

第2部では役者たちは役を取り替えません。
彼らは、儀式をつかさどるかのように、静かに、
それぞれの亡き父の埋葬の場所を探求します。

第2部では・・・
ここで、ワジディ・ムアワッドの『リトラル』と、
マシュー・ダンスターの『ここからは山がみえる』がつながってくるんですけど、
「語り」が演劇の重要な要素として使われています。

「対話」でも「独白」でも「傍白」でもない。「語り」という演劇・・・

父の埋葬場所を探すウィルフリッドは、父を亡くした若者たちと出会います。
彼らは、子供のころに戦争で父を亡くした者たちです。
父を亡くしたのはもうずいぶん前のことですが、
いまもなお父の死を受け入れられない若者たちです。

ジョゼフィーヌは、父が死んでしまったことに怒っています。
父の死のあとに残されたものは父がその上に座っていた電話帳の束だけ。
彼女はその電話帳の束をずるずると引きずってさ迷いつづけるのです。
虐殺された人々の、せめて名前だけでも記憶/記録の中に残そうとするのでしょうか?

もうひとりの青年は(名前は忘れた)、母と自分の目の前で父が殺された、と語ります。
父を殺した男たちは、父の首を切り、その首をボールにしてサッカーをしていました。
子供だったその青年は、それを見て笑っていたのです。

父の死を語る若者たちの言葉が演劇を生み出していく・・・

彼らの物語は詩に似ています。
吟遊詩人にとっての叙事詩のような、
ホメロスにとっての『オデュッセイア』のような・・・
自分の運命を物語るオイディプスの詩句のような・・・

語られていない物語は点字で記されたテクストに似ています。
物語は、物語るという“アクト”を通じてはじめて物語として実現される。
そして、ここでは、物語ることが、また、父親をついに埋葬することにもなるのです。

もちろん、芝居的には、ウィルフレッドの父親を裸にし、洗い、青い布でくるみ、
ジョゼフィーヌの電話帳をくくりつけて海に沈めるという、
派手なアクションがつきますけど、
第2部のすばらしさは、やっぱり、物語るというところです。

物語るという演劇のあり方。
物語に耳を傾けるという演劇体験のあり方。
物語るというパフォーマンスが心を揺さぶるということ・・・

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