SSブログ

ローラン・ペリ演出 『椿姫』と『マノン』 [オペラ]

この夏にオペラを二つ見ました。
7月の終わりにトリノ王立歌劇場の『椿姫』(ヴェルディ)、
9月の上旬に英国ロイヤル・オペラの『マノン』(マスネ)。
両方とも、おっ!というようなすごいソプラノがタイトルロールを歌って、
なによりも、その魅力に惹かれて見に行ったのでした。

『椿姫(トラヴィアータ)』が、ナタリー・デセイという、
フランスの生んだ“驚異”のコロラトゥーラ・ソプラノ。
最近少し声が変わって低域も出るようになったというので『椿姫』を歌い出した。

『マノン』の方が、アンナ・ネトレプコ。こちらはロシアの人で、
声もすごいんだけど、まあ、その、なんていうか、容姿もきれい。
こぼれるような魅力・・・マリリン・モンローがオペラを歌ってるような・・・
なんて言うと、いろんなところから文句が来そうですけど、まあ、そんなような・・・
本公演を見るのが日程的に無理だったので、なんとかしてゲネプロを見に行った。

いや、もう、それは、それは、すばらしかったのです。
オペラを見てこれほど満足して帰ってくることは、そんなにはない・・・

いや、しかし、待てよ・・・
ナタリー・デセイもアンナ・ネトレプコも、もちろんいいのだけれど、
オペラがすばらしいっていうときは、これまでの経験からすると、
やっぱり芝居として見てもすぐれているときなんですよね。
それで、演出家はだれなの?と、プログラムを見なおしてはじめて知ったんですけど、
えーっ、これ同じ演出家じゃん!
それがローラン・ペリ(あるいは、表記によってロラン・ペリー)という人だった。

ローラン・ペリはフランス人の演出家。プログラムによると、
現在「トゥールーズ・ナショナル・シアター」の芸術監督をしている。
トゥールーズはフランスの南の方にある都市で、「国立劇場」という名前からして、
オペラ劇場ではなく、芝居の劇場。いまそこの「芸術監督」をしていて、その一方、
近年はオペラの演出で高い評価を得ている・・・ということらしい。

プログラムをよく見ると、シャンタル・トーマスという人が、
『椿姫』と『マノン』の両方の舞台美術をやっています。
(シャンタル・トーマスはプログラムの表記のまま。フランス語読みだと、
シャンタル・トマになるかと思いますが、彼女がどこの国の人かはわかりません。)
彼女は、ローラン・ペリとはこれまでに40作品以上を手掛けており、オペラだけではなく、
シェークスピアやストリンドベリなどの演劇作品もその中に含まれている・・・とのこと。

今回東京に来た二つのオペラは、舞台美術もさることながら、衣装がまたすばらしい。
その衣装はというと、『椿姫』についてはローラン・ペリ自身が、
『マノン』については、ローラン・ペリともう一人のデザイナーが共同で担当しています。

ああ、そう言えば、ヴィオレッタ(「椿姫」)もマノンも、
同じショッキングピンクのドレスを着てる場面があった・・・
まあ、ショッピングピンクなんて、いかにもアマチュアな色の形容ですよね。
『プラダを着た悪魔』のメリル・ストリープなら、ヒストリーも含めて、もちょっとアキュレートな
コメントするんでしょうけど、まあ、ショッピングピンク・・・目の覚めるような・・・
それくらい衣装デザインも半端じゃないっていうことが言いたいんですけど・・・

僕は迂闊にも、この『椿姫』と『マノン』という二つのオペラはぜんぜん違う方角から東京にやって来たんだ、
と思っていた。トリノ王立歌劇場と英国ロイヤル・オペラって、名前からしていかにも方角が違う。
それが、実は、両方とも、ローラン・ペリとローラン・ペリの仲間たちでつくられていたと知ってびっくり。
そして、そうか、ナタリー・デセイもアンナ・ネトレプコも、この場合、
ローラン・ペリの仲間たちとしてそこにいたのだったのか、と思った・・・
つまり、自分の演出を理解し、それに応えてくれる人たちだから、
ローラン・ペリは彼女たちと一緒に仕事するわけですよね、きっと・・・

二つのオペラでヒロインの相手役を歌うテノール・・・
『椿姫』ならアルフレード役、『マノン』だとデ・グリュー役ですけど、
これも同じ人だということにあとから気がついた。マシュー・ポレンザーニっていう人・・・
指揮者は、『椿姫』がジャナンドレア・ノゼダで、『マノン』がアントニオ・パッパーノ。
オペラのキャストって、どういうふうに決められるのかわからないけれども、
ローラン・ペリはインタビューの中で、

「僕はオペラの演出をするなら、親密な協力体制を得られる指揮者でないとやりません。そうでないなら、芝居の方に行っちゃう」(『マノン』のプログラムから引用)

と言っているところからすると、オペラ全体に演出家の意図とかコンセプトとかが強く反映していると想像できる・・・

オペラって演劇なんだ、とあらためて思いました。


『椿姫』の舞台美術はキュービックです。
マンゴーって果物ありますよね。あれの食べ方って、まず果実を縦に切り、それから果肉の側に、皮を切らないように縦横にナイフで何本も筋を入れる。で、皮の方が凸になっているのを、ひっくり返すように凹にすると、果肉側がこんどは凸になって、わっと小さなキューブが一気に粒立ちます。あんな感じ・・・って、わかってもらえただろうか。

ああいうキューブが舞台の上に広がっている。
『椿姫』のオープニングでは、キューブはぜんぶ黒で、この黒は死の色・・・
キューブっていうのは抽象的な形ですけど、ここでは墓石に見立てられている。というのも、
それはヴィオレッタ(「椿姫」)の葬式の場面だから・・・

これがローラン・ペリ演出の面白いところ。もともとヴェルディのオペラにはこういう葬式の場面はありません。
ヴィオレッタの家の夜会から始まります。ローラン・ペリはそれを解釈しなおして、
通常はなにもないただの前奏曲のところを演劇的に展開する。ヴィオレッタの葬式から芝居を初めて、
あとはフラッシュバックで、ヴィオレッタの夜会の場、彼女とアルフレードの出会い、に戻るわけです。
前奏曲には台詞・・・っていうか、歌はありませんから、ただ葬列が黙々とキューブ(墓石群)の間を抜け、
アルフレードがひとり葬列から離れて、愛する人の死に絶望している・・・
あっ!と思いますよね。これが演出なんだよ、ワトソン君っていう感じ・・・

古典劇もそうですけど、オペラもそう・・・こういう「レパートリー演劇」というのは、
これまでいろんな演出家が、しかも多くの才能ある演出家が何度も何度も演出してきた。
いまこれを演出するっていったって、なにかもう、これまでさんざんやられてきたことを
繰り返すよりほかにしようがないんじゃないかと思えてくる。そういう袋小路みたいなところで、しかし、
時が移り、時代が変わり、人々が変化するのならば、演出もまた時とともに人とともに
無限に変化するものなのだということを証明する・・・
証明するかのように、みずみずしい演出を創出してみせる。
奇を衒うのではない。
作品を深く理解してはじめて、この生まれたばかりのようなみずみずしさを生みだすことができる。
人々を感動させることができる。
観客はその作品をはじめて目にしたかのように感動する・・・

ローラン・ペリの演出は、奇を衒ったものではぜんぜんない。
それどころかとても説得力のあるものです・・・
『椿姫』は19世紀のデュマ・フィスという人の小説を原作にしています。で、小説『椿姫』では・・・というか、
『椿姫』だけではなくて、『マノン』の原作である18世紀の小説『マノン・レスコー』や、
ビゼーの『カルメン』の原作となったメリメの小説なんかでもでもそうなんですけど・・・
つまり、フランスのこういう悲恋小説のひとつのパターンなんですけど・・・
恋人を亡くして絶望した男が、その恋の物語を第三者に語り聞かせ、
この第三者がその物語を書きとめて小説として発表する。
悲恋物語の当事者はこれを小説にしようなんていう“不純”なことを考えたりしない・・・
『椿姫』でも『マノン・レスコー』でも『カルメン』でも、原作では、物語が始まった時点で、
ヒロインはすべて死んでしまっている。したがって恋物語はいやおうなくフラッシュバックで語られることになる。ローラン・ペリの演出は、原作の時間的秩序と、その運命的性格・・・つまり、
恋人の死は取り返しのつかないものとしてすでに起こってしまっている、という運命的性格・・・
をもう一度オペラに取り戻しているわけです。
(*これブログに載せちゃった後に思い出しました。『マノン・レスコー』の物語構造はもちょっと複雑で、
一番最初にはまだ死んでませんでした。すいません。)

ヴィオレッタの夜会の場面では、最初は墓石の群れであったキューブが、
もはや黒ではなく微妙に色を変え、さらに一部は鏡張りになって、
具体的になにを表すのかはわからないけれども
(っていうか、まあ、鏡は虚栄とそのはかなさ「ヴァニタス」を普通に象徴するわけですけど)、
キュービスム的な抽象性をもって、ヴィオレッタの豪奢なパリのアパルトマンの家具調度に変化する。
豪奢ではあるけれども、いまやメメントモリ的にどうしても死を連想させずにはおかないキューブたち・・・
その上を、ショッキングピンクのドレスを着たナタリー・デセイ/ヴィオレッタが文字通り駆け回ります。
駆け回りやすいようにドレスは短めの丈・・・


ナタリー・デセイはとても小さな人です。どこからあんな声が出るんだろう、と思うくらい小さい。
最後のカーテンコールで、みんなが舞台上に一列に並ぶ、
そのとき、デセイは自分の前にあったプロンプターボックスの上にぴょんと飛び乗りました。
飛び乗ってようやくみんなと背の高さが揃うという・・・それくらい小さな人です。

それくらい小さな人だからできるんでしょうけど、とにかくオペラの間中、彼女は舞台上を駆け回ります。
ローラン・ペリの演出の成功のかなりな部分が、このデセイの“駆け回れる能力”に依っているような気もします。そのことによって、斬新なヴィオレッタ像が提示できるのだし、これが、一昔みたいに、
のっしのっしと舞台上を移動するようなソプラノでは、ローラン・ペリの演出自体が不可能なわけです。

駆け回るだけではありません。ローラン・ペリはナタリー・デセイにさまざまな“負荷”をかけます。
彼女は、走り、走っていって飛びつき、抱きつき、胸ぐらをつかみ、
また、横になり、うずくまり、赤ん坊のようなポーズをとり、そして抱きかかえられる・・・
走っていった先で歌を歌い、それありえないでしょう的無理な体勢で歌を歌う。
オペラ歌手はいまやアスリートなのか?と思えてくる。
それでも、オペラが演劇であるためには、それはすべて必要なことであり、
そして、オペラはいま演劇になっている・・・

ヴィオレッタ(「椿姫」)は「高級娼婦」・・・「高級娼婦」と普通訳されます。
デュマ・フィスの時代だと「クルティザンヌ」、これが
マルセル・プルーストの時代になると「ココット」と呼ばれます。
「娼婦」という言葉が微妙ですが、なに言ってんのよ、娼婦でしょうが、と追及されると、
ええ、まあ、そうなんでしょうけど・・・日本でも、昔吉原に花魁という人たちがいて、
たとえば高尾太夫・・・仙台高尾なんていう人は大変に教養もあり、プライドも高かった。
伊達家の殿様が仙台高尾に夢中になり、力にまかせで無理やり身請けしたけれども、
わちきには言い交した人がありんすと言って、殿様の思い通りにはならず、
ついに殿様に切り殺されたという・・・まあ、そういう人を娼婦と言っていいのかどうなのか・・・

ヨーロッパの「高級娼婦」というのもちょとそういう「娼婦」という日本語のイメージとは違うかと思います。
ティッツィアーの《ウルビノのヴィーナス》という15世紀の絵があります。絵も美しいですが、
描かれている人も美しい。「高級娼婦」がモデルだとも言われます。
いま上野の西洋美術館に来ている「カポディモンテ美術館展」。
パルミジャニーノの「貴婦人」の肖像が一枚来ていますが、まあ、大変に美しい。
何時間見ていても飽きないくらい。この人の身につけているものが、またなんともすごい、豪奢なもの・・・
これも「高級娼婦」がモデルだと言われていたりする。

で、訳語はともかく、このヴィオレッタが、金なんか持ってないアルフレードを愛してしまう・・・っていうか、
アルフレード・ジェルモンの一途な愛にこたえてしまった。
二人の幸福な田園生活が始まりますが、しかし、それも束の間、
唐突にアルフレードの父親が現れて、息子と別れてくれとヴィオレッタに頼みます。
「高級娼婦」に対する当時の貴族階級とブルジョア階級のスタンスがまたちょっと違うと思いますけど、
ジェルモン・パパは地方のブルジョワという設定で、まあかなり“保守的”と言っていいんでしょう。
娘が婚約をしたんだけれども、兄が「娼婦」と付き合ったりしてると、結婚が破談になりかねないから、
どうか別れてくれ・・・ジェルモン・パパは彼の言い分を言っているわけで、それはいいんですが、
ヴィオレッタがこの頼みを聞いちゃうんですよ。
いま『椿姫』を演出しようとするとき、ここんところが問題になると思います。
ヴィオレッタが身を引くっていうことに説得力がない。
19世紀じゃないんだから・・・っていうよりも、
女の自己犠牲ですべてがまるく収まるような時代じゃないんだから・・・

それがですよ、ローラン・ペリ/ナタリー・デセイの『椿姫』だと、わりとすんなり受け入れられる。
走って飛びついたり、ジェルモン・パパの胸ぐらつかんだり・・・と、そんなことをしてるうちに、
ああ、ジェルモン・パパの頼みを聞き入れるにはヴィオレッタなりの訳がきっとあるのね的な理解ができる。
“罪”とか“穢れ”とか“贖い”とか・・・そういう“イデオロギー”的なものとは別の次元で、
人間の多様性みたいなものとしてヴィオレッタの選択を受け入れられる。
あの子そういう子なのよ、みたいな・・・

ローラン・ペリの演出で面白いところはいろいろとあるんだけれど、あとひとつだけ・・・

最後の場面、ヴィオレッタが死ぬ瞬間なんですけど・・・
ああ、言ってなかったけど、ヴィオレッタって結核なんですね。それで死んでしまう。
自分はヴィオレッタに捨てられたと思い込んでいた“おバカ”なアルフレードも、ついにその誤解を解いて、
瀕死のヴィオレッタのもとへ駆けつけます。アルフレードの誤解も解け、ようやくまた二人になれた。
なのに死ななければならない。わたし死にたくない、とヴィオレッタは強く思う・・・

『椿姫』の台本的には、彼女の死が彼女の最終的な“贖罪”にほかならないので、
ここはどうしても彼女に死んでもらわなくちゃならない。なので、普通は、
“悲劇的”な感じでろうそくの火が消えるようにヴィオレッタが死んで終わります。
ところが、ローラン・ペリは、ヴィオレッタをここで甦らせるのです。
どうするかというと・・・舞台にはヴィオレッタとアルフレードとジェルモン・パパの3人がいる。
台本のロジックと折り合いをつけるために、ローラン・ペリは、一瞬アルフレードと父親の姿を、
彼らに台詞がないのをいいことに、舞台から消し去り、
その一瞬の隙間で、ヴィオレッタにその若さと生命力を完全に取り戻させる。
“駆け回る”ナタリー・デセイが甦る。

このシーンは見る人によってさまざまに受け取れると思うんですけど・・・
ヴィオレッタはいま天国にいるんだとか・・・
ヴィオレッタが死のうとするその一瞬に見た幻なんだとか・・・

いずれにしても、この場面では、ヴィオレッタの“主観”みたいなものが舞台全体を支配しているのが面白い。
観客はヴィオレッタの視線で世界(舞台)を見ているわけです。
ヴィオレッタは、アルフレードとその父親の生きる世界とは違うところにいる。
これはヴィオレッタの世界。ヴィオレッタが支配する世界・・・
ヴィオレッタの支配する世界をローラン・ペリは舞台上に展開して見せた。

自己犠牲は確かに美しくもあるし、涙を誘うものでもある。けれども、
「椿姫」の自己犠牲にはなにかイデオロギー的なものがあって、
どうしてもうさんくさく感じてしまう。
ジェルモン・パパに代表される19世紀ブルジョワ男性社会の考え方っていうのか・・・
「椿姫」の自己犠牲って、アルフレードへの愛によってるだけじゃなくて、
なんか家族とか、家族観とか、正しい家族観とか、私は道を踏みはずした女、みたいな、
そういう“雑音”が“愛の自己犠牲”のまわりでピーピーガーガー鳴っている。
気にすると、そういう雑音が気になるわけです。

ローラン・ペリの演出は、一瞬、そういう“男基準”みたいなものから完全に自由になったヴィオレッタを・・・
ヴィオレッタの完全な自由を・・・描くことで、『椿姫』にあらたな地平を開いた・・・
“オブジェ”であることをやめた「椿姫」・・・
ヴィオレッタだって「自己実現」します!みたいな・・・

それに、これまでだと、ヴィオレッタが死んで、ある意味“めでたしめでたし”だったのが
(つまり、“男基準”の秩序が回復されて“めでたしめでたし”だったのが)、
ローラン・ペリ版では、物語の「その後」も描かれている。
絶望の中で生きつづけるアルフレードの姿が最初に提示されていたわけで、
これも『椿姫』をいままでとはどこかべつな方向へもっていくような気がします。
「その後」の存在がいまある秩序をおびやかす・・・


さて、『マノン』の方はですね・・・

『マノン』ってこんなに面白い芝居だったっけ?みたいになっている。
やっぱりネトレプコだよね、とはじめは思っていたのが、いえ、やっぱり演出ですよね。

アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』を原作にしたオペラには、プッチーニの『マノン・レスコー』があって、
こちらはピュアなエモーションで一気に最後まで突っ走る。
マスネの『マノン』は、それに比べるとどうしても“俗”です。通俗劇的なつくりになっている。
パリのオペラ座のために書かれたものなんですけど、
マスネはなぜかわざとオペラ・コミックふうにつくっていて、
なので台詞(メロディーなしの台詞)なんかもけっこうあります。

幕が開いてマノンが登場するまでずいぶん時間がかかって、
そこで観客は“軽喜劇”ふうな出し物を“一本”見せられます。
女好きで大金持ちで振られてばかりいるギヨー・ド・モルフォンテーヌと
その三人の若い女たちのやり取りを、ひと“ネタ”見せられるんです。
ギヨーという人物はストーリー的に重要な人物なんですけど、
この“ネタ”自体はマノン・レスコーの物語とは、まあ、関係ない。
19世紀の聴衆が面白がったんだろうと思われるヴォードヴィル的な一種の“装飾音”です。

下手にやるとなにをやっているんだかわからなくて、えっ、これって『マノン・レスコー』の話だよね?
みたいに確認したくなるんですけど、ローラン・ペリは、そこのところをとてもうまく整理しています。
台本の読みが深いんですね。ここはとりあえずヴォードヴィル的に楽しむ場面なのねっていうことがわかります。

読みの深い演出家だと、芝居はとてもわかりやすくなる。
すうっと透き通る感じ。単純化されるわけではなくて・・・演出がとてもクリアなんですよ。
中庭があって、まわりは家の壁にぐるっと囲まれている。
中庭にギヨーがいて、三人の女たちが宿屋の窓から、顔を出したりひっこめたり・・・
男声ひとつと女声三つのパートで、それ自体は音楽的にも楽しい。
その音楽的展開をきれいにヴィジュアル化して見せてくれている。
見てるこちらは、ネトレプコの登場をじりじりして待っているんだけれども、それでも、
この段階でもう演出家に好感をもっている。

『マノン』の“あやうい”ところは、最初に登場する時点で彼女がまだ15歳だということです。
ソプラノはこのヤングアダルト女子を演じなければならない。
マスネにはきれいな歌がいっぱいありますけど、歌だけ歌ってればオペラになるっていう時代は終わっている。オペラは演劇となり、ソプラノ歌手は歌うだけではなく、同時に
役者としてその15歳の女子の身体を演じなければならない・・・
いや、その意味でもネトレプコはすばらしいです。ネトレプコはスリムではありません。
まあ、マリリン・モンロー系のボディですから、少しこうほわっとしている。
それが15歳の女子の身体をみごとに演じる。
ネトレプコからこの演技を引き出すローラン・ペリがまたすばらしい。
オペラの魅力・・・まあ、演劇の魅力ですよね・・・
そう、ローラン・ペリはここでもネトレプコに走らせます。ネトレプコもまた“駆け回れる”人なんですよ。
そのことがローラン・ペリの演出を可能にしている・・・

『マノン・レスコー』のストーリーというのは、
ヤングアダルトの男子デ・グリューと女子マノンが、互いに旅行の途中で出会い、
恋に落ちて、そのまま駆け落ちしてしまう、というところから始まります。
マノンは人生を楽しみたい。でも、そういう人生を楽しみたいという“ふしだら”な傾向ゆえに
修道院に送られることになって、いまそこへ行く途中。
デ・グリューの方は、エリートの子息で、いま東大受験を控えている的なポジションにいますが、
マノンに一目惚れして、受験もなにもかも捨てて、パリで一緒に暮らしはじめる。

将来的展望はなくて、“人生を楽しみたい”マノンは、間もなくこの貧乏生活を捨てて
金持ちのパトロンのところへ走ります。けれど、
贅沢を手に入れたマノンはデ・グリューのことが忘れなくてまた戻ってくる、
でも貧乏はいやなので・・・みたいなことを繰り返し、その間にデ・グリューとマノンはけっこう悪いことをする。
人をだましたり、さらには人を殺したり・・・で、いろいろあって、
マノンは逮捕されて、当時(18世紀)のフランスの植民地アメリカのルイジアナ送りになり、
デ・グリューもマノンと一緒にルイジアナに行って入植者として暮らしはじめる・・・

物語は、時間的にはマノンの15歳から20歳超えるくらいまで・・・
ヤングアダルトたちは、悪さもするけれど、試練にもあって、成長していきます。

マノン・レスコーを「ファム・ファタル」に分類していいかどうかは微妙です。
成長した彼女はかなりフツーな大人になるからです。
ナボコフの『ロリータ』の最後の方のロリータぐらいフツーになる。ただし、マノンは、
ロリータと違ってとても美しいので、そのためにルイジアナに行ってからまたひと悶着起こるんですけど・・・

マスネの『マノン』は、原作をかなり変えています。
ヴェルディの『椿姫』(1853)が大変な人気を博したので、『マノン・レスコー』の話をちょっと
『椿姫』の方向にシフトして『マノン』をつくった。18世紀は外観だけ。中身は19世紀。
(*追加:ローラン・ペリの演出では、はじめから19世紀の話に仕立ててある。)

なので、デ・グリューの父親が、ジェルモン・パパ的人物になり、
罪深い女とか贖罪とか、そういうテーマがじわっと忍び込んでいます。アメリカにも行きません。
で、その過程で、マノンが一時ものすごい「ファム・ファタル」的になります。
「ファム・ファタル」っていうのも、19世紀の男性社会が、
女性に対する恐怖心から生み出した幻想なわけだから・・・
まあ、一時の「ファム・ファタル」っていうのは、本当の「ファム・ファタル」ではないわけですけど・・・

まあ、それはともかく、

場所はサン・シュルピス・・・あの『ダビンチ・コード』で有名になったサン・シュルピス・・・
デ・グリューは、マノンに捨てられてから、聖職者になろうと決心しました。
いまサン・シュルピスで説教をして、その説教が大評判。若い女性なんか、もう、キャーキャー言って大騒ぎ。
その評判を聞きつけたマノンが、またデ・グリューが欲しくなって、
サン・シュルピスに元カレを取り戻しに行く。これが3幕の2場なんですけど、
ローラン・ペリの演出がすごいです。それにこたえるネトレプコもすごいです。

下がれ、悪魔!的なことを言っているデ・グリューに対し・・・
下がれ!といいつつ、実は、彼の方もマノンが忘れられないんだけど・・・まあ、とにかく、
下がれ!と言うデ・グリューをマノンは誘惑します。あの私たちの愛の日々を忘れたの?・・・
と、なぜかそこにベッドがあって・・・
なぜかって、そこはデ・グリューの部屋だからベッドがあってもいいんだけど・・・
マノンはベッドの上に横たわり、身もだえして・・・

やっぱり、オペラはいま演劇ですよね、ネトレプコみたいな人がそうやってベッドで身もだえしたら、
べつに歌なんか歌わなくてもデ・グリューを誘惑できるわけですよ。
それでも歌うんだけど・・・それで、そのあとに息づまるベッドシーンが続く・・・

(追加:僕が見たのはゲネプロでしたが、べつに最初から最後まで、なんのとどこおりもなく、普通のオペラ上演のようでした。指揮者が演奏を止めてダメだししたりするのを実は期待してたりもしたのですけど・・・
声楽の専門的なところはわかりませんが、ネトレプコが、たとえば、腹筋を100パーセント使うところを、97パーセントくらいでやってたのかな、みたいなことは感じましたが・・・あっ、数字は適当です。
あと、演出のことばかり書いてるんですが、演奏も素晴らしかったです。ノゼダもパッパーノも・・・)

『マノン』の方はまだやっているので、ぜひ見に行ってください。入場料は高いです。


というわけで、最後に・・・

「レパートリー演劇」としての古典劇というものが存在していない日本の演劇状況において、
演出家を目指す若い人たち、高校生たちとか、にとって、
優れたオペラを見ることがとても重要ではないか、と思うわけです。
ひとつの同じ戯曲を・・・っていうか、いまオペラなんだけど・・・非常に才能ある演出家たちが
どのように演出しているのか、それを日本で“手軽に”見られるチャンスがオペラなんですよね。

それなのに、こういうオペラの客席に若い人が少ない、高校生なんかほとんどいない。
それは、入場料が高すぎるわけだから、いないはずですよ。
それなのに空席がある。なんですか、これは?
“取引先”とかなんかに招待券をばらまいて、空席つくっているくらいなら、
ただ同然の値段で、学生とか、若い演劇人に見せればいいじゃないですか。
それが若い人たちを育てるってことでしょう?
教育ってそういうことでしょう?
そう思うと絶望的になります。

すぐれたオペラを見て、絶望する・・・


(追加: 絶望する・・・なんて書いちゃいましたけど、その後、
僕の見た『マノン』のゲネプロについては、
「青少年のための舞台芸術体験プログラム」というのに組み込まれていて、
中学生・高校生・25歳までの学生は無料で見られた・・・ということがわかりました。
そんなに絶望しなくてもいいってことなのだろうか?
幕間にロービーを歩いた時には、そういう若い人の姿には気が付きませんでしたけど・・・どうなんだろうか、
どれくらいの若者がこのプログラムを利用しているのか、数とか知りたいですよね。)
コメント(1) 
共通テーマ:演劇

コメント 1

camin

はじめまして。
昨年秋に見た時間堂によるマリヴォー「奴隷の島」の訳が先生によるものだと知り、それときにこのブログを見つけ、以来の読者です。見ている芝居も私とかなり共通しています。

ペリー演出のオペラの来日公演があったんですね。しかもデセイ出演とは。不覚です。この組み合わせのオペラはリヨン・オペラの『地獄のオルフェ』で衝撃を受けました。最近私はMETのライブ・ビューイングでこの組み合わせの『連隊の娘』を見ました。デセイは役者としての表現力も素晴らしいですね。

東京でのオペラ公演は私の経済状況では新国立劇場でしか無理と思っていますので、どのみち観に行くことができない公演ですが、先生のレビューを読んで観に行けなくて歯ぎしりするほど悔しいと思いつつも雰囲気だけは味わうことができました。うー、でもやっぱり観に行けなくて本当に残念です。ペリーのテクストの読みの深さと演出の創意は別格だと思いますし。

今後のレビューも楽しみにしております。
by camin (2010-09-16 22:44) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。