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ヴァンサン・デュメストル+マリオネット『カリギュラ』 [オペラ]

バロック・オペラのちょっと異色な公演を見てきました。
場所はパリのアテネ劇場というところ。オペラ座のすぐそばにあります。

『カリギュラ』は、カミュの『カリギュラ』ではなくて、17世紀ヴェネツィアのオペラです。
バロック・オペラの青年期というんでしょうか、
ヴィヴァルディとかは有名ですけど、あれはもう18世紀・・・
『カリギュラ』はジョヴァンニ・マリア・パリアルディという人のオペラ。
イタリア語のタイトルだと『カリーゴラ・デリランテ』・・・『狂気のカリギュラ』・・・


オペラは、はじめ宮廷とか貴族の邸とかで上演されていたのが、
やがて街の劇場で上演されるようになり、
いまのように、と言っていいんでしょうか、人々が入場料を払って見るようになる・・・
それがこのパリアルディの時代・・・だそうです。

これをヴァンサン・デュメストル+ル・ポエム・アルモニック+歌手の皆さん、
という構成で演奏します。

ル・ポエム・アルモニックはヴァンサン・デュメストルによって結成された古楽のアンザンブル。
ヴァンサン・デュメストル自身もリュートみたいな楽器を弾きながら指揮をします。
日本にも来たことがあるらしく、今年の5月にも再来日の予定だとか・・・

フランスでは、ここのところ、オペラに限らず、演劇とか、そういう広く舞台芸術的に、
バロックがけっこう魅力的に輝いていて、
当時の言葉そのままによるオペラ上演、演劇上演みたいなのも少なくないようです。
バロック・フェスティヴァルのようなものもあちこちで企画されている・・・

昔のままの復活上演、文化財保護・・・みたいな意識ではなくて、
見失われている本物のバロック・オペラや演劇を現代の舞台に甦らせることが、
ものすごくアクチュアルでクリエイティブな演劇活動である・・・みたいな・・・
そういうスタンスでバロックと向き合ってる。

で、ヴァンサン・デュメストル+ル・ポエム・アルモニックも、そういう中に位置づけられます。
彼らの、たとえば、リュリの歌劇『カドミュスとエルミオーヌ』とか・・・DVDで見られますけど、
超バロックな舞台をつくり上げています。歌も当時の言葉(発音)で歌われます。
古くて新しい、古いのが新しい・・・みたいな・・・そんな感じ。


それだけでもけっこう〝異色感”はあるんですけど、
今回はそこに、イタリアのマリオネットが加わって、舞台上のパフォーマンスは、
ミンモ・クティッキオという人の率いるマリオネット集団が担当します。

クティッキオの人形劇(プーピ)は、シチリアに伝わる伝統的なマリオネットだそうですが、
これも、文化遺産の単なる継承ではなくて、
伝統をつねに現代の中でアクチュアライズしていくみたいなことが、クティッキオのポリシー。
『カリギュラ』についても、人形からなにから今回の企画のために〝ゼロから”つくったんだそうです。
〝ゼロから”っていっても、そこには伝統がしっかりとしたベースを用意している。
やっぱり、古くて新しいということなんですね。


というわけで、かなり異色。こういう異色な企画っていうのは、
しっかりしたプロジェクトでしか実現しないわけですけれど、
これはarcal というところが企画なんかをしています。
arcal は、バロック・オペラのアクチュアルな実現・普及みたいなことを自らの使命として活動する組織。
ヴァンサン・デュメストルとは『カドミュスとエルミオーヌ』で一度組んでいて、
今回は二度目だから、さらにハードルを高くして、マリオネットを加えた、という感じでしょうか。

フランスのシャルルヴィル・メジエールというところで、確か三年に一度、
世界マリオネット・フェスティヴァルというのが行われています。
『カリギュラ』は2009年だったか(要確認)のそのフェスティヴァル参加作品として企画されたもので、
今回がパリ初演ということになります。
ちなみに、シャルルヴィルのフェスティヴァルには日本からも随分と参加しているようです。
2012年は、三年に一回という計算が正しければ、フェスティヴァルの開催年に当たります。

僕もわりと最近に知ったことなんですけど、
「人形劇」という呼び方に対して、もう少し広く、人形を使う演劇ジャンルという意味で、
「人形演劇」という呼び方が一般的になってきているらしいです。

「人形演劇」は、人形だけではなくて、
人形と役者が舞台上で一緒に芝居をする・・・そういうものも含む言い方だそうです。
「人形劇」といったのでは、広がっていく人形演劇の地平をとらえきれないということなんでしょう。

そういえば、フィスバックの演出で、フランスの俳優たちと結城人形座がコラボした
ジャン・ジュネの『屏風』なんかは、人形の方から見れば、人形演劇と考えられるわけです。

それから、これは、去年だったと思いますが、
テアトル・ド・ラ・コンプリシテ(サイモン・マクバーニー)と世田谷パブリックシアターの共同制作で、
谷崎純一郎のテクストによる『春琴』というのがありました。
あれは、少女時代の春琴に、浄瑠璃的な人形と語りの形式を使って大変にすばらしかった・・・
春琴のサディスティックな愛と、人形の“恐さ”が結びついて、息をのむように美しかった・・・
で、これも、気がつけば、人形演劇という、新しい地平に広がっていたわけです。

というわけで、『カリギュラ』も、そういう新たな人形演劇という
現代的コンテクストに自然に位置づけられると思うんですけど、
このオペラ+マリオネットという形式は、実は、
もともとバロック・オペラっていう歴史的コンテクストにのっかっているものなんだ・・・そうです。

17世紀、人々がオペラというものを劇場に見に行くようになった時代に、
オペラを人形劇で上演するというのは、オペラ公演の在り方としてわりと普通のものだった。
人形劇は子供たちだけのものではなく、大人たちが人形劇のオペラを見に行っていたわけです。
オペラとして上演された作品が、すぐに人形劇バージョンで上演されるというのも一般的だった・・・

なので、今回の『カリギュラ』でおこなわれたように、17世紀のバロック・オペラを
現代に甦らそう・・・しかもマリオネットを巻き込んで・・・という試みは、
そのプロジェクト全体がものすごくオーセンティックにバロック・オペラなのであるわけです。
そういう意味でも、古くて新しい・・・


さて、実際の舞台の感じですが・・・

オーケストラピットに、ル・ポエム・アルモニック。
ヴァンサン・デュメストルが楽器を弾きながら指揮をします。
舞台上には、人形たちのための小さな舞台がつくられています。
ボードにローマの宮殿のテラスふうな絵が描いてあって、
書割なので、ドールハウスみたいなリアルで細かいものではもちろんないですが、
ちょっと〝ドール舞台”的な、かわいい感じがします。
歌手たちはみな黒い服を着て、それぞれの役の人形が登場すると、
一緒に人形舞台の脇に(両脇に)出てきて歌います。
音楽的には、基本的にコンサート形式でやるのと同じということですが、
これにマリオネットのパフォーマンスがつく・・・

人形の大きさは、立たせた状態で・・・というのは、ひざまづくこともできるので・・・大人の腿の高さくらい。
文楽の人形とどちらが大きいのか、同じくらいなのか・・・

プーピは、ひとりの人形遣いがひとつの人形を操ります。
時には二体の人形を同時に遣うこともあります。
人形の頭のてっぺんと右手にそれぞれ長い棒がついていて、
人形遣いはこの二本の棒で人形を操ります。
人形はいつも人間の足元に並んでいるので、小さく可愛く見えますが、
持ち上げればけっこう大きいような気もします。

人形浄瑠璃のような洗練されたリアルな動きではなく、
やっぱり、子供の人形劇を思わせる素朴でナイーブな感じのパフォーマンス・・・

ただ、このオペラ自体が、カリギュラの狂気をめぐる、ちょっと荒唐無稽なお話なので、
人形上演という形式がとてもぴったりしているような気がします。
愛があり、心変わりがあり、嫉妬があり、悪意があり、策略があり、なによりも狂気がある・・・
なんですが、テーマ展開はパターン化している・・・
人形上演という形式にして、むしろ、
現代の大人の観客のための舞台になる・・・そんな印象も持ちました。
人形を使わないなら、コンサート形式での上演かな?・・・みたいな・・・


うーん、どうなんでしょう、
実は、僕にはこのオペラ公演全体がちゃんと把握できていないんです。

劇場は昔ながらのパリの劇場で、僕の席は、一階の右側舞台寄り奥のボックスの隅。
字幕はよく見えるんですけど、字幕を読んでると舞台が見えない。
人形の動きを見ていると字幕が読めない・・・
その上、時差ボケが残っていて、夜の9時10時には激しい睡魔が襲ってきて、ついウトウト・・・
というわけで、舞台も字幕も“断片的”にしかとらえられていないという・・・
テーマ展開がパターン化している・・・なんて言っても、
ちゃんとテクストを読めばそうじゃないかもしれません。

というわけで、“断片的”なレポートなんですが、
バロックというのは、そういうことでいいのかも・・・















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ロバート・カーセン演出『ナクソス島のアリアドネ』 [オペラ]

前回書いたデボラ・ワーナー演出『ダイドーとエネアス』についての記事の中で、
ロバート・カーセンの『ナクソス島のアリアドネ』の演出にちょっと触れました。

観客が席につくと、まだ開演前だというのに、舞台の上ではもうなにかはじまっている・・・
そういう演出の仕方が『ダイドー』と『アリアドネ』で共通している、という話でした。
そのことをもう少し詳しく書きます。


2011年10月のバイエルン国立歌劇場公演リヒアルト・シトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』、
これがロバート・カーセンの演出だったんです。
またロバート・カーセン?みたいな感じもあるんですけど、やっぱり、見るとすばらしいんですよね。

ブログにそのことを書こう書こうと思いながら、あっという間に時は過ぎて、
もう半年遅れくらいの感じなんですけど、読んでください。

それで、開演前に舞台上でなにか演じはじめているっていう、そのことだけではなくて、
そこでやっていることについても、ワーナーとカーセンには少し共通するところがあります。

カーセンでは、子供たちではないんですけど、
大人たちが、やっぱりバレエの練習をしています。
舞台の上は、壁一面の鏡張りで、バレエの練習場のように見えます。
よくはわからないんだけれど、
芝居(オペラ)本体の中で踊るバレエの練習かな?みたいなことを、
たとえば、観客は思うかもしれない・・・
なにか舞台裏的風景が展開しているようだ、と・・・


まあ、その演出自体すでに面白いんですけど、
実は、『ナクソス島のアリアドネ』は“劇中劇”の構造を持ったオペラで、
冒頭は“舞台裏”の場面からはじまります。
これから始まる公演(劇中の劇)を前につぎつぎと問題が起こって・・・といった展開です。
なので、
カーセンは、舞台裏の場面の前にもうひとつ舞台裏の場面をくっつけた、ということになります。
この舞台裏の“増殖”みたいなことがものすごく面白い。

芝居という虚構の世界に対して、舞台裏っていうと、なにかちょっと“現実的”な印象があります。
だから、虚構の舞台裏をつくると、その虚構と現実のバランス感覚が少し狂ってしまう。
あれは芝居じゃないんでしょう?えっ、もう芝居がはじまってるの?みたいな・・・
虚構の舞台裏をふたつもつくると、少しどころかかなり混乱します。

『ナクソス島のアリアドネ』に舞台裏の場面をくっつけると、
それはもちろん現実にある本当の舞台裏などであるはずはなく、
もともとある虚構の舞台裏にもうひとつ虚構の舞台裏がくっついただけです。

くっつけようと思えば、その舞台裏にもべつの虚構の舞台裏がくっつけられるわけで、
さらに、その舞台裏にも・・・って、いくらでも舞台裏がくっつけられて、
でも、そんなふうに果てしなく舞台裏をくっつけていっても、
絶対に本当の舞台裏には到達できない。虚構の舞台裏が増殖していくだけ・・・
って、それはあたりまえなんだけども、ここのポイントは、

カーセンがやったみたいに、虚構の舞台裏に虚構の舞台裏をひとつくっつけるだけで、
鏡に鏡を映し出したように、舞台裏という虚像が一瞬にして無限に増殖するっていうことなんです。

無限に増殖した“舞台裏”の中で、
本当の“舞台裏”(虚構ではない現実)がどれなのかわからなくなる・・・
カーセンがつくり出すのは、バレエの練習風景という単純なイメージではなく、
鏡の迷路のような一種の錯乱なのだ、という・・・


舞台裏の増殖から鏡の迷路に話を展開したのは、僕自身のオリジナルな発想ではなくて、
カーセンが、彼の演出をそのように展開するからです。

バレエ練習場の壁は、バレエの練習場が普通そうであるように、一面鏡に覆われています。
この鏡の壁は、実は何枚もの鏡パネルでできていて、
芝居がはじまると、その“舞台裏”は解体されるわけですが、
解体後の鏡パネルは片づけられるのではなく、
舞台上に雑然と・・・というか、雑然とした感じに見えるように置かれます。
鏡パネルが“姿見”的状態(つまり立てられた状態)で
舞台のあちこちで障害物のように立ちふさがるわけです。
登場人物たちはその間を動き回る。
鏡が鏡を映しだし、舞台上を動き回る人物たちを乱反射させて、まさに鏡の迷路をつくり出す・・・


『アリアドネ』の“舞台裏”(劇中の舞台裏)場面は、
物語的にも、登場人物たちの混乱を描き出しています・・・

大金持ちが金の力で劇団を呼んで自分の屋敷で余興をさせようとする。
呼ばれたのはシリアスなオペラをやる劇団と、コメディア・デ・ラルテの劇団の二つ。
コメディ・デ・ラルテは、まあ、軽喜劇をやるお芝居集団。
シリアス・オペラ側は、えっ、あんな連中と一緒にやるの?ってそこから面白くないんだけど、
大金持ちは権力にものを言わせて無理難題・・・時間がないから二つの劇団で同時にやれ、
と無茶苦茶なことを言う・・・この辺はギリシャ神話と関係ない・・・

さらに、オペラ・セリアの方の作曲家なんですが、
この人が19世紀ロマン主義みたいなものから一歩も外に出られないで、
まあ、行き詰まっているというか、煮詰まってる。
大金持ちの気まぐれという“不条理”な現実の前で、なにか自分の殻を破らなくちゃいけないんだけど、
どういう方向に進めばいいのかわからない。
彼の『ナクソス島のアリアドネ』をどうすればいいかわからない・・・

まあ、この辺の“まとめ”は大雑把で適当ですから、実際のオペラを見てもらうことにして・・・
でも、この適当な“まとめ”からでも・・・というか、この適当な“まとめ”からだと、
“鏡の迷路”っていう演出がピタッとはまるのがわかってもらえると思うんですけど・・・
自分の芸術の方向性とか、自己のアイデンティティとか、そういうものが、
悩める作曲家には、鏡のつくる虚像の連鎖の中で、もうなにも見えなくなっている。

ついでに言うと、
この作曲家の創作したオペラ・・・というか、オペラはいま生成の途中なので、
創作したというより、“創作している”オペラですけど、そのオペラの主題が、
リヒアルト・シトラウスのオペラ全体のタイトルになっているアリアドネなんです。
で、ギリシャ神話のアリアドネは、テセウス(アリアドネを捨てる不実な英雄)を
ダイダロスの“超迷宮”から救い出した人だから、
ある意味“迷路”はアリアドネにふさわしいテーマでもあります。


鏡は面白いテーマですけど、昔からあちこちで使われてきたおなじみのテーマですから、
演出に導入するのはけっこう難しいと思うんですね。
えっ、また鏡なの、みたいなことになって・・・
鏡が出てくれば、観客はすぐ、あの意味はなに?とか、なんの象徴?とか考えたくなる。
そういう意味では、カーセンの鏡の導入の仕方には感心します。
鏡はバレエ練習場で舞台に持ち込まれていたんですけど、
鏡が存在して、これくらい当たり前の場所はないから、
それが特別な意味を持つものだなんてまったくが気が付かないんです。
むしろ“舞台裏”のテーマに気を取られていて・・・
それがいつの間にか解体されて、パネル状になった鏡が、鏡のテーマを奏ではじめる・・・

カーセンが鏡のテーマをどんなふうに変奏しているのか、
僕もその一部しかとらえてないんだと思いますが・・・

劇中劇がはじまって、アリアドネの物語になります。
アリアドネの状況はダイドーの状況によく似ています。
両方とも、古代ギリシャ・ローマの神話がベースになっていて、
“英雄”が、島とか海辺とかに、女子を置いてきぼりにして、
海に・・・まあ、地中海の海ですけど・・・船出してしまう。
唐突に捨てられた女子は、ちょっとどうしてくれるのよ的状況に置かれて絶望する・・・

ダイドーは毒を飲んで死を選びますが、
アリアドネは、そこで新たに“自分探し”をはじめる・・・みたいなところがちょっと違います。

テセウスに全面依存していたアリアドネの自己アイデンティティ、
そこに固執すれば死ぬしかない・・・というわけでアイデンティティの危機・・・
そこでやっぱり鏡のイメージの使い方がすばらしいです。

アリアドネを映し出すいくつもの鏡、どの鏡に映った私が本当の私なの?・・・
って、それだけなら面白くないですけど、
カーセンは、この鏡のイメージを実体化させるんです。
アリアドネと同じ格好をした何人ものアリアドネが舞台上に出現します。
彼女たちはアリアドネと同じ身振りと動作をする・・・完全に鏡のイメージですよね。
あるいはやがて、“鏡のアリアドネたち”はアリアドネの身振りと動作をバリエーションしていく。

それらすべてのアリアドネが、アリアドネの“私”として統合され、承認されるとき、
アリアドネは自分探しの旅の終わりにいた・・・


最後にもうひとつだけ・・・
デボラ・ワーナーは『ダイドー』のプログラムの中で
「喪」とか「喪を明ける」こととかのテーマについて熱く語っているのですが、
実際に僕が見た『ダイドー』の演出にはそれが強くは感じられなかったんですね。
ダイドーは、はじめ死んだ夫の喪に服していて、登場するときは黒いヴェールをかぶっている、
みたいなことはあるんですが、それくらいで、
エネアスの愛を失ったということに対する喪の作業というのには失敗してるわけですよね。
自殺しちゃうんだから・・・

そういう意味では、
カーセンの『アリアドネ』の方にむしろ、喪の作業の美しい形象化みたいなものを感じます。
鏡による自己像の増殖、鏡のつくる虚像の実体化、分裂した自己イメージの統合・・・
ひとつの愛を失ったあとに、その喪失に対してどのように・・・
河瀬直美ふうに言うと「喪がり」?・・・どのように“喪がり”するのか?・・・
アリアドネの“喪がり”の過程が鏡的イメージの変奏によって美しく繰り広げられている・・・










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ウィリアム・クリスティ+デボラ・ワーナー『ダイドーとエネアス』 [オペラ]

パリのオペラコミック座にパーセルのオペラ『ダイドーとエネアス』を見に行ってきました。
クリスティとレ・ザール・フロリサンの音楽はもちろんすばらしいかったのですが、
オペラの演出がとても面白かったので、少しその報告をします。

演出家はデボラ・ワーナーという人(女性)、1959年にイギリスに生まれています。
シェークスピア演出でその才能を知られるようになったようです。
現在はオペラの演出をたくさん手がけています。
映画の監督もしていて、The Last Septemberなんていう作品があるみたいです。

『ダイドーとエネアス』は17世紀のイギリスのオペラです。歌詞は英語で歌われます。
オペラとしてはけっこう有名なので、見たことはなくても、その曲は、
どこかできっと聞いたことがある・・・そういうオペラです。

とくに、最後の場面で、毒を飲んだダイドーがべリンダ(お付きの女性)に歌うラメント・・・
私が死んでも私のことを覚えていてね。でも、私のこの悲しい運命のことは忘れてほしい・・・
これには、思わず涙を誘われます。

台本テクストの方は、演劇としてみると、単純で型にはまっているとも言えそうです。
台本というよりは、詩のような感じ。

登場人物の複雑な心理や感情表現がそのままテクスト上に書かれているというわけではなく、
人物間のやり取りもリアルなものではありません。
様式的というか儀式的です。

音楽的にはコンサート形式で十分に美しいオペラです。
だから、これを演劇的に演出をして、現代の演劇として生命を吹き込む・・・というのは
演出家にとっては大きなチャレンジだと思います。

デボラ・ワーナーの演出はすばらしいものでした。
デボラ・ワーナーは、音楽の美しさを損なうようなことはしません。
ただ、えっ、と思うような斬新な要素を、なんというか、こう”振付”のように”付けて”行くことで
劇に、テクストの表面にはない奥行きを生み出していきます。
日本の「能」とかとは違うんだけど、でも、
なにかそういうとても儀式的な世界に、リアルな立体感が生まれます。


観客が客席につくと、舞台上ではすでにいろんなことが”演じられて”います。

去年見たロバート・カーセン演出の『ナクソス島のアリアドネ』(東京文化会館)でも、
演奏が始まる前から舞台上ではいろんなことが”演じられていて”いて、
そこに、これから展開するオペラのコンセプトが提示されていて面白かったのですけど、
デボラ・ワーナーの演出でも、そうやって最初に演出の方向性みたいなものが提示されます。

たとえば、
舞台の上から横に長い木の棒が下りてきたりまた上がっていったり・・・
その棒に布が巻いてあって、それをばずして、また別の布をつけて、
棒が上がっていくと、それが帆のように張られて・・・
あっ、帆のようにではなくて、それは帆なんですね。
ああ、帆だったのか、と思います。

エネアスはやがてダイドーを捨てて、カルタゴからイタリアの地を目指して船出してしまう・・・
その船出の予告、つまりは悲劇の予告・・・

でも、その舞台の雰囲気は悲劇的ではなくて、むしろ人懐っこい感じがします。
女子校の制服を着た女の子たちがたくさんいて、舞台の上で、“だるまさんが転んだ”とか、
まあ、そんなようないろんな“遊び”に興じているからです。

中学生とか、小学生?・・・まあ、歳はわかんないんですけれど・・・

この女の子たちが、オペラ全体を通じて、出たり入ったりして、
「ダイドーの悲劇」のベースをつくります。
女の子たちは、まず、この「悲劇」の観客です。
でも、2幕では、劇中に参加して、さっき練習したバロックバレエを披露します。

女の子たちの存在自体は、演出家の自由な想像というよりは、ある意味“史実”に基づいていて、
パーセルはこのオペラを、女子校の生徒たちのために書いた・・・と、まあ、そういう説があります。
ラシーヌの『エステル』とか、それと似たケース・・・

なので、女の子たちが観客であるのも、また劇に参加するのも、当初の想定通りとも言えるのですが、
ただし、デボラ・ワーナーの女の子たちは現代の女の子たちなわけで、
そこが、このアイデアのすばらしいところ。
17世紀の“儀式的悲劇”と現代がやすやすとつながる・・・
女の子たちには、悲劇も政治も関係なくて(ダイドーはカルタゴの女王なので、
彼女のエロスはつねに政治的なものでもあります)、
ダイドーの悲劇を彼女たちの“ごっこ遊び”に取り込んでしまいます。

開演前の女の子たちの“遊び”・・・実はバレエの練習だったのかもしれないのですが、
そのために、先生たちもいて、生徒たちにあれこれと指示などもしているのですが、
子供たちには遊びの方が面白いようなのです・・・
それで、その“遊び”の中で、あるとき一人の女の子が両手を広げてぱっと魔法をかけると、
もう一人の女の子が舞台の真ん中で倒れるというものがあります。
なかなかきれいなイメージです。
それは、やがて訪れるダイドーの悲劇/死の予告というか、真似というか、パロディですよね。

シェークスピア的な“劇中劇”、“劇中劇”的パントマイムです。
ちなみに、舞台の上にはもうひとつ四角い舞台がつくってあって、
さっきの女の子は、その二番目の舞台の真ん中で倒れるんですけれども・・・
ちなみに、第一の舞台と、その四角い第二の舞台との境界は、この演出では、
それほどはっきりとしてはいなくて、
役者(歌手)たちは第二の舞台からけっこう無頓着にはみだします。
ただ、劇中劇的な雰囲気が、その二重の舞台からクリアに視覚化されていると言えるでしょう。

最初の女の子につづいて、次々とほかの生徒たちが、舞台の上で倒れます。
“ダイドーの悲劇ごっこ”が子供たちによって生み出されたわけです。

観客は“悲劇”と“悲劇ごっこ”の間で、
ダイドーの死に対してある意味自由なスタンスをとることができます。

一方、ダイドーの悲劇の物語は、様式的にとても美しくつくってあります。
ダイドーとお付きの女性べリンダともう一人のお付きの若い女性、この三人がとても絵画的です。
彼女たちの衣装が服飾史的に正確にどの辺に位置するのかわかりませんけど、
僕には、とてもワトー的イメージに見えました。
《シテール島への船出》とか、そういう“雅な宴”的なイメージがそこここでつくられます。
女性の後ろ姿、ドレスのライン、身体のライン、首のラインとか・・・とてもワトー的な感じがしました。
バロックオペラとロココだから、まあ様式的には、ワトーを連想してよさそうですけど・・・

ドレスの色彩もすてきですねぇ・・・
紫・赤紫系のパレットのような色合わせで、ダイドーはゴールドの衣装・・・
華やかなアイメイク用パレットのような色合わせ・・・

絵画的イメージは、ワトーにしろ、そうでないにしろ、デボラ・ワーナーは意識的に、そういう
絵画的静止イメージをつくっているようです。

第2幕、狩りの後のピクニックのシーン(ここはダイドーとエネアスの短い蜜月期)では、
第二の四角い舞台の中央に、やはり四角い泉(実際に水がある)が出現するのだけれど、
その泉の中を、スカートの裾をたくし上げてダイドーが歩きます。
これも絵画的に美しいですねぇ・・・
「スザンナの水浴」とはちょっと違いますけど、そういう、
ちょっとエロチックな絵画イメージを思わず探してしまいます。
ワトーじゃなくて、ブーシェとか探せばいいんでしょうか?・・・

このピクニックのシーンは、また違った意味で、絵画的に面白いです。
ダイドーたち3人の女性のイメージはワトー的“雅な宴”・・・
“雅な宴”はそもそもロココのピクニックのイメージなので・・・

これにコーラスが宮廷の人々としてついてくるんですけど、
このコーラスの役者(歌手)たちは現代のフツーの格好をしているので・・・
といっても、黒が基調なので、ピクニック的には、まあ、それほどフツーでもないんだけれども、
でも、ロココ的衣装とのコントラストでフツーに感じられます・・・

で、このフツーの人たちが、それぞれグループにわかれて白い布を敷いて、
その上でピクニックをするのが、絵画的には一気に印象派に飛んで、
その絵画的混乱が面白い。

いや、さらに、よく見れば、19世紀後半の服装ではないので、でも、ロングスカートなので、
むしろアニェス・ヴァルダの『幸福』のピクニックとか・・・
少なくとも、僕はアニェス・ヴァルダを連想しました。

あの映画では、妻が捨てられ、っていうか、捨てられると予感した妻が湖に溺れて死にます。
自殺かどうかはわからないんですけれども、その流れがダイドーの悲しい運命を連想させて・・・


あと、大事なことですけど、
デボラ・ワーナーの絵画的イメージというのは、芝居本体と関係ないところで、
表面的ヴィジュアルをきれいにつくっている、っていうのでは全然ないです。
そういう“絵画的”ポーズというのが、劇全体の緊張感というのを生み出しています。
そこは、やっぱりシェークスピアの演出家なんだなあ、という気がします。

たとえば、第3幕の初めのあたり、
運命に逆らっても無駄だとダイドーが歌う場面で、べリンダが後ろを向きます。
そのポーズの生み出す緊張感は見事です。
演じていない役者(歌手)たちが“絵画的”な緊張感の中で、ものすごく集中している感じ・・・
これはコンサート形式のオペラでは味わえない、とても演劇的な醍醐味です。

あと、もうひとつ・・・
このオペラには、デボラ・ワーナーのオリジナルのプロローグがついています。

原作台本にもプロローグがあるようなのですが、現在は完全な形で残っていないということで、
演出家は、そこでフィオナ・ショウに詩の朗読・・・というのか、詩を演じるというのか・・・
をさせています。取り上げられた3つの詩は、オペラとは関係ないのですが、
ダイドーの物語と関連付けられることで象徴的な意味合いを帯びてきます。
(詩はT.S.エリオット、W.B.イェーツの詩と、あと『変身物語』関連の英語の詩。)
けれども、僕は、そういう象徴性よりも、
フィオナ・ショウの“演劇的”登場が、ものすごく気に入りました。
これから、私たちは、オペラではなく・・・って、オペラでもあるんだけど、
それ以上に、なにかすばらしい芝居を見るんだ、っていう期待感にわくわくするんですよね。

フィオナ・ショウはアイルランド出身の有名な女優さんです。
マリヴォー関連では、ベルトリッチがプロデュースしたマリヴォー『愛の勝利』に出ています。
映画です。DVDが手に入ります。

なお、この『ダイドーとエネアス』は2006年にウィーンで初演されているようです。
パリのオペラコミック座初演は2008年、とプログラムのどこかに書いてあった気がしますが、
いま探したら、ちょっと見つかりません。違っていたら、書き直しますね。
1時間10分の短いオペラなので、19時と21時の2回公演があります。




















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ダミアーノ・ミキエレット演出 『コジ・ファン・トゥッテ』 2 [オペラ]

ダミアーノ・ミキエレット演出 『コジ・ファン・トゥッテ』 のことをきのう書きました。
8日の公演に間に合うように、ちょっと急いで書きました。
もう少し書きたいことがあったので、「パート2」を書きます。


ミキエレットの深い読みのこと・・・


えっと、きのう・・・
6人の登場人物がいて、そのうち5人が若者たち・・・と書きました。
カップルが2組いますから、男子2人に女子2人、で、5人目が小間使い。
女子2人はフィオルディリージとドラベッラという姉妹で、
小間使いデスピーナはこの姉妹につかえています・・・とこれが原作の設定。

18世紀の話だから、小間使いっていうのか、召使いっていうのか、そういう人がいます。
たとえば、マリヴォーの芝居なんかでも、
主人がいて召使いがいるっていうのは、けっこう普通な人物構成なんです。
若い男と若い女の話だと、それぞれに若い男の召使いと若い女の召使いがひとりずつついている・・・

リュック・ボンディという演出家がマリヴォーの芝居を演出したときに、
若い俳優さんたちを使って、たいがいのものは“いまどき”のことに置き換わるけれども、
主人と召使いの関係だけは、現代にないので苦労する・・・みたいなことを言っていました。

『コジ・ファン・トゥッテ』を“いまどき“のキャンプ場に移して、やっぱり一筋縄でいかないのが、
主人と召使いという権力関係なわけなんですけど・・・

ミキエレットの演出だと、小間使いデスピーナはキャンプ場のバーの店員になってるんです。
緑のワンピースにエプロンという、微妙にファーストフードのウェイトレスチックな格好で出てくる。

デスピーナ登場の場面では、彼女はこんなふうに歌います・・・

召使いってなんてみじめなものなの。
朝から晩まで汗水たらして働いて、ぜんぶ人のため。
いまだって美味しいお菓子をつくっているけど、食べるのは私じゃない。
私はただ匂いだけ・・・ああ、一度でいいから食べてみたい・・・ええい、食べちゃえ・・・

お洒落なキャンプ場に遊びに来ている客と、
そのキャンプ場で自給800円で働いているウェイトレスとの間には、
やっぱり“いまどき“の主従関係が歴然とあるわけです。
現代のお金持ち(主人)は召使いを連れて歩くんじゃなくて、
行った先々で、召使いが彼ら/彼女らを待ち受けている・・・

デスピーナにファミレスのワンピースを着せたミキエレット/ファンティンのアイデア、
やっぱり、うーんとうなります。
ミキエレットのデスピーナは売り物のフレッシュジュースをコップに注いで美味しそうに飲みました。


あと・・・
デスピーナとアルフォンソの絡みがむちゃくちゃ面白い。

普通、“若くない”アルフォンソは、恋愛とかそういうものの外側にいて恋愛を冷ややかに見つめている、
みたいな描かれ方をします。ところが、
ミキエレットの演出だと、デスピーナとアルフォンソの関係があやうくて、見ててはらはらします。
この演出では、カップルは2組ではなく3組いるわけなんです。
3組目の関係は屈折していて、倒錯的ですらある。

アルフォンソがデスピーナに会いに来たときのデスピーナの台詞に、
あなたのような年寄りが私のような若い娘になんの用があるっていうのかしら?
というのがあります。

この台詞を文字通りストレートにとれば、
あなたのような年寄りにあたし興味ないんですけど・・・
みたいなことになるでしょうか・・・

しかし、芝居の台詞は常に真実を語っているわけでもなく、
また、その台詞の言葉が意味していることを意味しているとも限らないわけです。

アルフォンソは本当に年寄りなのでしょうか?
本当に年寄りだとしても、デスピーナはなぜわざわざそのことに言及してみせるのでしょうか?

ミキエレットの答えは、こうです。
デスピーナはまさに、アルフォンソと彼女との年齢差を指摘することにより、
アルフォンソを誘惑しようとしているのだ・・・

そう言われてみれば、
「あなたのような年寄りが私のような若い娘になんの用があるっていうのかしら?」は、
誘惑するための台詞以外ではあり得ないような気がしてきます。

年の差があるからってなに?
あたしの魅力に惹かれないわけじゃないんでしょう?
ねえ、あたしに言い寄って・・・ねえ、あたしを奪って・・・みたいな・・・


あっ、あと、最後にひとつだけ・・・

きのうの記事で、
ミキエレットの演出では、オペラの最後で、テクスト(台本)と芝居の劇的な“乖離”が生じる・・・
というような、思わせぶりなことを書いてしまいましたが、
これは、実際に見てもらえばわかるけど、みたいな意味でそう書いたんですよね。
でも、考えてみれば、みんなが実際に見るわけでもないので・・・

つまりですね・・・
台本的には2組のカップルはもとのさやに納まるんだけれども、
ミキエレットの演出では、言ってる(歌ってる)台詞とは裏腹に、
彼らは和解する気配を見せないんです。
“いまどき“の若者のリアリティみたいなことからいえば、そう簡単に和解するのもどうよ?
両方とも、“友達の恋人”と寝たわけなんだから・・・

じゃ、和解しないのかな?といえば、
台詞的にも、音楽的にも、やっぱり、これ、和解してるんじゃないの?みたいなこともあり・・・

でも、不思議に、宙ぶらりんな感じはしないんですよね。
むしろ、和解するのでもあり、和解しないのでもあり・・・その、どっちも、みたいな、
絶対無理なことが無理じゃなくなっている・・・そういう終わり方・・・それがすごく刺激的。


というわけで、
まだ11日にも公演がありますので、ぜひ見てください。








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ダミアーノ・ミキエレット演出 『コジ・ファン・トゥッテ』 [オペラ]

ごぶさたしてます・・・

モーツアルトの『コジ・ファン・トゥッテ』を、初台の新国立劇場に見に行ってきました。
なんとこれがすばらしい。
オペラとしてもすばらしいのだけれども、それよりもなによりも演劇としてすばらしい。
ダミアーノ・ミキエレットの演出がすばらしい。

“古典劇”を現代の舞台の上にアクチュアルな現代劇として再生するということはこういうことなんだと、
うならせる・・・まあ、僕はうなった・・・
うなったというか、“唖然とした様子でぼーっと口を開けている”・・・みたいな感じ。

6月8日(今日)と11日にも公演があるので、ぜひ見に行ってください、
絶対損はさせません・・・みたいな、とり急ぎ公演レポートです。


『コジ・ファン・トゥッテ』は、まあ、モーツアルトの有名なオペラ。
“いまどき”の若い男女5人と、もう若いとはいえない“おじさん”ひとりの、
6人の登場人物が繰り広げる恋愛コメディー。

2組のカップルがいて、一見安定していると思えたんだけれども、
それが“あっ”という間にシャッフルされて、パートナーが替わってしまう。
新しいカップルができるのか、それとも、もとの鞘におさまるのか・・・

シェークスピアの『真夏の夜の夢』とか・・・わりとあるパターンですよね。
マリヴォーの芝居にもけっこうある。

『真夏の夜の夢』だと、シャッフルを巻き起こすのは、
オベロンとかパックとか、そういう超自然パワーですけど、
『コジ・ファン・トゥッテ』では、ひとりだけ若くないアルフォンソおじさんがみんなを操る。

一生愛しつづけるみたいなこと言ってますが、
恋愛感情なんかあっという間に移り変わりますよ。
なんなら証明して見せましょうか?と“哲学者”ドン・アルフォンソは言います。
さあ、アルフォンソは実際に“証明”してしまうのか・・・・


で、このオペラ、もともとは18世紀のナポリのお屋敷が舞台なんですけど、
これをいまどきの夏のキャンプ場に設定を移して、
それがオーダーメードのようにぴたっと決まっているんです。

ショートパンツにTシャツとか、夜はちょっと、ミニのワンピにお着替え・・・とか・・・
ユニクロ風にカラフルな若者たちが21世紀の軽装で軽快に動きまわります。

アルフォンソの経営するアルフォンソ・キャンプ場は起伏に富んでいて、
バーがあり、森があり、湖があり・・・
暑い昼には湖で泳ぎ、日が暮れればキャンプファイヤーを囲み、
また夜が更ければ、森は深い闇を身ににまとい、湖は欲望に透き通る・・・


もちろん、オペラの演出で設定を現代にするっていうのは、いまやそんなにめずらしくはないのだけれども、
わりと表面的な“ヴィジュアル”にとどまっていることも少なくなく・・・
装飾的っていうのか・・・

ダミアーノ・ミキエレットの演出は、そういう奇をてらったものではぜんぜんなくて、むしろ、
18世紀のテクスト(オペラ台本)を深く深く読んでいったら、
自然と現代のキャンプ場に出たっていうような、そういうものすごい説得力があります。

18世紀が現代に変容した、っていうよりも、
18世紀ってさ、僕たちの時代にすごく似てるよね、っていう感じ。
マリー・アントワネット的きらきら衣装から解放されて自然にそういうことが見えてくる。


テクストを深く読み、そこから逆にこれまでの“常識”にとらわれないクリエイティブな演出を生みだしていく、
そういうダミアーノ・ミキエレットの才能もすごいんだけれど、
これは、彼ひとりでやっているというよりも、
美術・衣装担当のパオロ・ファンティンという人との共同作業の中で、
二人の持っている最良のものが具体的な形をとって出てきているのかな、という感じがします。
パンフレットによると、これまでもずっと一緒に仕事をしてきているらしいです。

舞台上には直径20mくらいの大きなジオラマみたいなのがつくってあって、
これが劇が進行するとともに回転します。
180度回転して、裏、表、というのではなく、
小刻みに止まって、そのジオラマ世界のいろいろな側面を見せてくれます。
キャンプ場とキャンピングカー、アイスクリームとか売ってるバー、それから森ですよね、それから湖・・・

そういう変化に富んだジオラマ世界が、ある意味、宇宙全体を表しているようにも見えてきます。
若者たちを取り囲んでいる、環境としての世界だけじゃなくて、
若者の心の中の宇宙っていうのか・・・

バーの上の「キャンピング・アルフォンソ」の看板が夜の中にポッと浮かび上がるのは、
たとえば、エドワード・ホッパーの都会的孤独を思わせるし、
湖を見下ろすバルテュス的な崖は官能的な危うさをはらんでいる・・・みたいな・・・

『コジ・ファン・トゥッテ』は、『フィガロの結婚』などとは違って、若者たちのグループ・コメディーなので
(その意味ではテレビのトレンディー・ドラマ的人物構成だったりします)、
だれかすごいソプラノとかひとりいれば、まあ、あとは下手でもなんとかなる・・・的なオペラではありません。

今回キャスティングされている若い歌手たちはそういう意味でもすばらしい。
(若いんだと思う。少なくとも見た感じは若く見えた・・・あっ、アルフォンソは若くない。)
フィオルディリージを歌ったソプラノが、ちょっとエンジンがなかなか温まらなくて、
はじめ、エッとか思いましたが、いったん温まるとこれもすばらしく・・・

でも、彼らの魅力は、自分たちを歌手であるだけではなくて、
ある意味それ以上に、役者なんだと認識していることなんです。
役者としてすばらしい演技をします。
歌手としても役者としても、そのパーフォーマンスの質が高い。

ミキエレットはかなり過酷な演出を役者/歌手たちに求めます。
歌手/役者たちがこの要求に若者らしく応えているところが、このオペラの大きな魅力のひとつです。
崖から転がり落ちたり(あとで聞いたら、やっぱり、傷だらけになるらしい)、
湖の中で服を濡らし髪を濡らしながらアリアを歌うとか・・・


これくらい書けば、このオペラの魅力はたぶん感じてもらえると思うんですけれども、
あと、そうですね・・・

ミキエレットがテクストを深く読んでいるっていうこと・・・

たとえば、オペラ冒頭、女子同士で、「結婚の予感・・・」みたいなことを話している場面で、
ひとりがもうひとりに「手相を見てあげる」と言う台詞があるんですけど、これを、
その時手に持ってる雑誌の占いコーナーを見てあげるという“動作”に置き換えている。
置き換えられてみれば、
キャンプしていて、女子二人で、カレシの話してるんだから、
それはいまどき、雑誌の占いに当然つながるでしょう・・・っていう具合にすごく自然。

(字幕では、「手を見る」ではなく、「星占いを見る」と出ていて、
観客は、とりあえず、これで一層自然にこの“動作”を受け入れられるのですが、
この字幕の扱いはちょっとビミョー・・・まあ、この話はまたあらためて・・・)

あと、いろいろありますが、そうですね・・・
男子たちが戦地に赴くっていう話になる場面・・・

いまこの地球上では常にどこかで戦争が起こっている。
これは現地の人が“勝手に”やってるっていうのではなくて、
いろんな意味でいわゆる「先進国」がこれにかかわっている。
アフガニスタンでは、アメリカ兵やイギリス兵が命を落としている。
日本の自衛隊だってイラクに派遣されていたりした・・・
というコンテクストがあって、「戦地に赴く」っていうことが、
18世紀的ゲームなんじゃないんだよ、すごいアクチュアルな現実と結びついてるんだよ、みたいなことが、
ミキエレットの演出からすごいストレートに感じられます。

あと、最後にひとつだけ・・・

モーツアルトのオペラって『フィガロの結婚』なんかもそうですけど、24時間の出来事ですよね。
『コジ・ファン・トゥッテ』もそう。一日の物語。

昼から夜への移行というのがドラマの中で重要な意味を持ちます。
ある意味“のうてんき”に愛とか結婚とか言っていた若者たちが、
夜の闇の中で愛と対峙して、自分の身体とか欲望とか、そういうものにも目を開いて、
大きく成長していく・・・そういう「モーツアルトの夜」っていうのか・・・
「モーツアルトの夜」をこれほどシャープに感じさせてくれる演出ってそうないと思います。

あと、もうひとつ、・・・
ミキエレットの演出では、オペラの最後で、
テクスト(台本)と芝居の劇的な“乖離”が生じます。
生じます、っていうのか、古典を演じることっていうのは、つねにテクストと実際の演技・演出に
いろんな乖離が伴うのだけれど(さっきの「星占い」とか・・・)、
ミキエレットは、その乖離をある意味逆手にとって、わざと決定的な乖離を自ら生み出していて、
それがものすごく刺激的です。


ぜひ見に行ってください。
僕が行ったときはけっこう空席がありました。
空席つくるくらいなら、学生とか、若い人たちに、安い安い料金で開放すればいいと思うんですよね。
それが若い人を育てることでしょう?
そういうのは、やっぱり、劇場側の姿勢が問われると思う・・・
こういう、すばらしい演出を実際に見てほしい。そしたら日本の芝居も変わる。

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ローラン・ペリ演出 『椿姫』と『マノン』 [オペラ]

この夏にオペラを二つ見ました。
7月の終わりにトリノ王立歌劇場の『椿姫』(ヴェルディ)、
9月の上旬に英国ロイヤル・オペラの『マノン』(マスネ)。
両方とも、おっ!というようなすごいソプラノがタイトルロールを歌って、
なによりも、その魅力に惹かれて見に行ったのでした。

『椿姫(トラヴィアータ)』が、ナタリー・デセイという、
フランスの生んだ“驚異”のコロラトゥーラ・ソプラノ。
最近少し声が変わって低域も出るようになったというので『椿姫』を歌い出した。

『マノン』の方が、アンナ・ネトレプコ。こちらはロシアの人で、
声もすごいんだけど、まあ、その、なんていうか、容姿もきれい。
こぼれるような魅力・・・マリリン・モンローがオペラを歌ってるような・・・
なんて言うと、いろんなところから文句が来そうですけど、まあ、そんなような・・・
本公演を見るのが日程的に無理だったので、なんとかしてゲネプロを見に行った。

いや、もう、それは、それは、すばらしかったのです。
オペラを見てこれほど満足して帰ってくることは、そんなにはない・・・

いや、しかし、待てよ・・・
ナタリー・デセイもアンナ・ネトレプコも、もちろんいいのだけれど、
オペラがすばらしいっていうときは、これまでの経験からすると、
やっぱり芝居として見てもすぐれているときなんですよね。
それで、演出家はだれなの?と、プログラムを見なおしてはじめて知ったんですけど、
えーっ、これ同じ演出家じゃん!
それがローラン・ペリ(あるいは、表記によってロラン・ペリー)という人だった。

ローラン・ペリはフランス人の演出家。プログラムによると、
現在「トゥールーズ・ナショナル・シアター」の芸術監督をしている。
トゥールーズはフランスの南の方にある都市で、「国立劇場」という名前からして、
オペラ劇場ではなく、芝居の劇場。いまそこの「芸術監督」をしていて、その一方、
近年はオペラの演出で高い評価を得ている・・・ということらしい。

プログラムをよく見ると、シャンタル・トーマスという人が、
『椿姫』と『マノン』の両方の舞台美術をやっています。
(シャンタル・トーマスはプログラムの表記のまま。フランス語読みだと、
シャンタル・トマになるかと思いますが、彼女がどこの国の人かはわかりません。)
彼女は、ローラン・ペリとはこれまでに40作品以上を手掛けており、オペラだけではなく、
シェークスピアやストリンドベリなどの演劇作品もその中に含まれている・・・とのこと。

今回東京に来た二つのオペラは、舞台美術もさることながら、衣装がまたすばらしい。
その衣装はというと、『椿姫』についてはローラン・ペリ自身が、
『マノン』については、ローラン・ペリともう一人のデザイナーが共同で担当しています。

ああ、そう言えば、ヴィオレッタ(「椿姫」)もマノンも、
同じショッキングピンクのドレスを着てる場面があった・・・
まあ、ショッピングピンクなんて、いかにもアマチュアな色の形容ですよね。
『プラダを着た悪魔』のメリル・ストリープなら、ヒストリーも含めて、もちょっとアキュレートな
コメントするんでしょうけど、まあ、ショッピングピンク・・・目の覚めるような・・・
それくらい衣装デザインも半端じゃないっていうことが言いたいんですけど・・・

僕は迂闊にも、この『椿姫』と『マノン』という二つのオペラはぜんぜん違う方角から東京にやって来たんだ、
と思っていた。トリノ王立歌劇場と英国ロイヤル・オペラって、名前からしていかにも方角が違う。
それが、実は、両方とも、ローラン・ペリとローラン・ペリの仲間たちでつくられていたと知ってびっくり。
そして、そうか、ナタリー・デセイもアンナ・ネトレプコも、この場合、
ローラン・ペリの仲間たちとしてそこにいたのだったのか、と思った・・・
つまり、自分の演出を理解し、それに応えてくれる人たちだから、
ローラン・ペリは彼女たちと一緒に仕事するわけですよね、きっと・・・

二つのオペラでヒロインの相手役を歌うテノール・・・
『椿姫』ならアルフレード役、『マノン』だとデ・グリュー役ですけど、
これも同じ人だということにあとから気がついた。マシュー・ポレンザーニっていう人・・・
指揮者は、『椿姫』がジャナンドレア・ノゼダで、『マノン』がアントニオ・パッパーノ。
オペラのキャストって、どういうふうに決められるのかわからないけれども、
ローラン・ペリはインタビューの中で、

「僕はオペラの演出をするなら、親密な協力体制を得られる指揮者でないとやりません。そうでないなら、芝居の方に行っちゃう」(『マノン』のプログラムから引用)

と言っているところからすると、オペラ全体に演出家の意図とかコンセプトとかが強く反映していると想像できる・・・

オペラって演劇なんだ、とあらためて思いました。


『椿姫』の舞台美術はキュービックです。
マンゴーって果物ありますよね。あれの食べ方って、まず果実を縦に切り、それから果肉の側に、皮を切らないように縦横にナイフで何本も筋を入れる。で、皮の方が凸になっているのを、ひっくり返すように凹にすると、果肉側がこんどは凸になって、わっと小さなキューブが一気に粒立ちます。あんな感じ・・・って、わかってもらえただろうか。

ああいうキューブが舞台の上に広がっている。
『椿姫』のオープニングでは、キューブはぜんぶ黒で、この黒は死の色・・・
キューブっていうのは抽象的な形ですけど、ここでは墓石に見立てられている。というのも、
それはヴィオレッタ(「椿姫」)の葬式の場面だから・・・

これがローラン・ペリ演出の面白いところ。もともとヴェルディのオペラにはこういう葬式の場面はありません。
ヴィオレッタの家の夜会から始まります。ローラン・ペリはそれを解釈しなおして、
通常はなにもないただの前奏曲のところを演劇的に展開する。ヴィオレッタの葬式から芝居を初めて、
あとはフラッシュバックで、ヴィオレッタの夜会の場、彼女とアルフレードの出会い、に戻るわけです。
前奏曲には台詞・・・っていうか、歌はありませんから、ただ葬列が黙々とキューブ(墓石群)の間を抜け、
アルフレードがひとり葬列から離れて、愛する人の死に絶望している・・・
あっ!と思いますよね。これが演出なんだよ、ワトソン君っていう感じ・・・

古典劇もそうですけど、オペラもそう・・・こういう「レパートリー演劇」というのは、
これまでいろんな演出家が、しかも多くの才能ある演出家が何度も何度も演出してきた。
いまこれを演出するっていったって、なにかもう、これまでさんざんやられてきたことを
繰り返すよりほかにしようがないんじゃないかと思えてくる。そういう袋小路みたいなところで、しかし、
時が移り、時代が変わり、人々が変化するのならば、演出もまた時とともに人とともに
無限に変化するものなのだということを証明する・・・
証明するかのように、みずみずしい演出を創出してみせる。
奇を衒うのではない。
作品を深く理解してはじめて、この生まれたばかりのようなみずみずしさを生みだすことができる。
人々を感動させることができる。
観客はその作品をはじめて目にしたかのように感動する・・・

ローラン・ペリの演出は、奇を衒ったものではぜんぜんない。
それどころかとても説得力のあるものです・・・
『椿姫』は19世紀のデュマ・フィスという人の小説を原作にしています。で、小説『椿姫』では・・・というか、
『椿姫』だけではなくて、『マノン』の原作である18世紀の小説『マノン・レスコー』や、
ビゼーの『カルメン』の原作となったメリメの小説なんかでもでもそうなんですけど・・・
つまり、フランスのこういう悲恋小説のひとつのパターンなんですけど・・・
恋人を亡くして絶望した男が、その恋の物語を第三者に語り聞かせ、
この第三者がその物語を書きとめて小説として発表する。
悲恋物語の当事者はこれを小説にしようなんていう“不純”なことを考えたりしない・・・
『椿姫』でも『マノン・レスコー』でも『カルメン』でも、原作では、物語が始まった時点で、
ヒロインはすべて死んでしまっている。したがって恋物語はいやおうなくフラッシュバックで語られることになる。ローラン・ペリの演出は、原作の時間的秩序と、その運命的性格・・・つまり、
恋人の死は取り返しのつかないものとしてすでに起こってしまっている、という運命的性格・・・
をもう一度オペラに取り戻しているわけです。
(*これブログに載せちゃった後に思い出しました。『マノン・レスコー』の物語構造はもちょっと複雑で、
一番最初にはまだ死んでませんでした。すいません。)

ヴィオレッタの夜会の場面では、最初は墓石の群れであったキューブが、
もはや黒ではなく微妙に色を変え、さらに一部は鏡張りになって、
具体的になにを表すのかはわからないけれども
(っていうか、まあ、鏡は虚栄とそのはかなさ「ヴァニタス」を普通に象徴するわけですけど)、
キュービスム的な抽象性をもって、ヴィオレッタの豪奢なパリのアパルトマンの家具調度に変化する。
豪奢ではあるけれども、いまやメメントモリ的にどうしても死を連想させずにはおかないキューブたち・・・
その上を、ショッキングピンクのドレスを着たナタリー・デセイ/ヴィオレッタが文字通り駆け回ります。
駆け回りやすいようにドレスは短めの丈・・・

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マダム・バタフライのDNA [オペラ]

プッチーニの『マダム・バタフライ』はとても有名なオペラです。
ピエール・ロチの『マダム・クリザンテーム』はフランスの小説ですが、残念ながら日本ではそんなに有名ではありません。

けれども、ロチの小説を読んでからプッチーニのオペラを見た人は、
不思議なデジャ・ヴー感覚にとらわれるでしょう。
長崎の港と町を見下ろす高台の家。海軍士官が、結婚ブローカーの斡旋で日本人娘と結婚をする、その婚礼の日・・・・・・
ぜんぶ『マダム・クリザンテーム』の中ですでに出会ったものだからです。

『マダム・クリザンテーム』が刊行されたのは1887年。『マダム・バタフライ』の初演(1904年)より四半世紀も前のことです。

『マダム・バタフライ』と『マダム・クリザンテーム』は間違いなく共通のDNAを持っています。
例えば、その双子のようなタイトル・・・
バタフライは英語で蝶々。
クリザンテームはフランス語で菊。
どちらもジャポヌリー(日本の美術工芸品)にはおなじみのモチーフ。

『マダム・バタフライ』はイタリア・オペラですから、イタリア語的には『マダマ・バタフライ』ですけれども、原作はアメリカの小説で、そのタイトルが『マダム・バタフライ』。
『マダマ・バタフライ』のマダマは『マダム・バタフライ』のマダムで、『マダム・バタフライ』のマダムは『マダム・クリザンテーム』のマダムからきている・・・DNAの系譜です。

双子のように似ている『マダム・バタフライ』と『マダム・クリザンテーム』ですが、同時に、きわめて対照的な性格の持ち主です。このコントラストが、オペラを見た時の「デジャ・ヴー感覚」を奇妙に落ち着かないものにしています。それは、妹の『マダム・バタフライ』が姉の『マダム・クリザンテーム』に強く反撥しているからです・・・

というようなことも含めて、ピエール・ロチの『マダム・クリザンテーム』について原稿を書いていました・・・ので、その間ブログがぜんぜん更新できませんでした。
「異国の人」という共通テーマで3人の仲間がそれぞれの原稿を書いて持ち寄るという・・・そういう「企画」と言っていいのでしょうか、それで、僕は『マダム・クリザンテーム』について文章を書いたのです。

3月の末に本になります。本屋で見つけるのはたぶん超困難。
朝日出版というところのホームページで注文できます(たぶん4月から)。
興味のある方、ありそうな方は、ぜひ読んでください。
本が出ましたらまたお知らせします・・・って、
なんか宣伝してるみたいですが・・・明らかに宣伝してます。

『マダム・クリザンテーム』は、翻訳があることはあります。
岩波文庫の『お菊さん』がそれです。
ただ、1929年の翻訳という、とても古いものなので・・・
1929年と言えば、いまベストセラーになっている『蟹工船』の出た年です。

『マダム・クリザンテーム』は『お菊さん』とはずいぶんイメージが違います。
タイトルからすでに・・・
『お菊さん』だと、『マダム・バタフライ』のDNA的なものが見えず・・・

以下に、『マダム・クリザンテーム』について僕が書いた文章のイントロ部分を掲載します。
興味のある方、ありそうな方は、ぜひ・・・

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ワイル/ブレヒト『七つの大罪』 [オペラ]

IMG_0135_edited-1.jpg昨日は演劇と関係のない話を書いてしまったので、今日は演劇関連のお話。

9月にフランスに行く機会があり、パリのシャンゼリゼ劇場(写真)でクルト・ワイルとブレヒトのオペラ
『七つの大罪』を見てきました。

正確には『マハゴニー・ソングシュピール』と『七つの大罪』の2本立て。
『マハゴニー・ソングシュピール』は1927年、ワイルとブレヒトの初のコラボレーション作品。
『七つの大罪』は彼らの最後のコラボ。1933年に、まさにこのシャンゼリゼ劇場で初演されたものです。

『マハゴニー・ソングシュピール』は後の『都市マハゴニーの繁栄と衰亡』のベースとなるもので、
6つの歌から構成されています。
英語で歌われる2曲「アラバマ・ソング」と「ベナレス・ソング」が有名(「電話はどこ?」)。
金さえあれば思うままに欲望を満たすことができるというアメリカ西部の町マハゴニー、
その虚構都市を舞台に6人の登場人物が繰り広げる幸福と破滅。

『七つの大罪』はアメリカ南部の田舎町から出てきた若い娘アンの物語。
一人のアンが、アンとアンの分身に分かれ、アン1が歌い、アン2が踊るというオペラ・バレエ。
アンは、ニューヨーク、シカゴ、フィラデルフィア・・・都市を転々としながら、せっせと田舎に仕送りをし、
その金で家族の家が少しずつ建てられていくという、思いっきり21世紀現代世界の縮図のようなお話。

「資本主義」に蝕まれていくというのか、家族に蝕まれていくというのか、あるいは自分自身を蝕んでいく
アンの若く病んだ人生が、「怠惰」「傲慢」「貪欲」といった七つの大罪+プロローグとエピローグの
9つの場面で展開されます。

シャンゼリゼ劇場は、モンテーニュ通りという、シャネルやディオールなど高級ブティックが立ち並ぶ
おしゃれな通りにあります。ブレヒト的テーマは観客の気持ちを十分に重くしているはずですが、
舞台はむしろとてもスタイリッシュな感じ。

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