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ウィリアム・クリスティ+デボラ・ワーナー『ダイドーとエネアス』 [オペラ]

パリのオペラコミック座にパーセルのオペラ『ダイドーとエネアス』を見に行ってきました。
クリスティとレ・ザール・フロリサンの音楽はもちろんすばらしいかったのですが、
オペラの演出がとても面白かったので、少しその報告をします。

演出家はデボラ・ワーナーという人(女性)、1959年にイギリスに生まれています。
シェークスピア演出でその才能を知られるようになったようです。
現在はオペラの演出をたくさん手がけています。
映画の監督もしていて、The Last Septemberなんていう作品があるみたいです。

『ダイドーとエネアス』は17世紀のイギリスのオペラです。歌詞は英語で歌われます。
オペラとしてはけっこう有名なので、見たことはなくても、その曲は、
どこかできっと聞いたことがある・・・そういうオペラです。

とくに、最後の場面で、毒を飲んだダイドーがべリンダ(お付きの女性)に歌うラメント・・・
私が死んでも私のことを覚えていてね。でも、私のこの悲しい運命のことは忘れてほしい・・・
これには、思わず涙を誘われます。

台本テクストの方は、演劇としてみると、単純で型にはまっているとも言えそうです。
台本というよりは、詩のような感じ。

登場人物の複雑な心理や感情表現がそのままテクスト上に書かれているというわけではなく、
人物間のやり取りもリアルなものではありません。
様式的というか儀式的です。

音楽的にはコンサート形式で十分に美しいオペラです。
だから、これを演劇的に演出をして、現代の演劇として生命を吹き込む・・・というのは
演出家にとっては大きなチャレンジだと思います。

デボラ・ワーナーの演出はすばらしいものでした。
デボラ・ワーナーは、音楽の美しさを損なうようなことはしません。
ただ、えっ、と思うような斬新な要素を、なんというか、こう”振付”のように”付けて”行くことで
劇に、テクストの表面にはない奥行きを生み出していきます。
日本の「能」とかとは違うんだけど、でも、
なにかそういうとても儀式的な世界に、リアルな立体感が生まれます。


観客が客席につくと、舞台上ではすでにいろんなことが”演じられて”います。

去年見たロバート・カーセン演出の『ナクソス島のアリアドネ』(東京文化会館)でも、
演奏が始まる前から舞台上ではいろんなことが”演じられていて”いて、
そこに、これから展開するオペラのコンセプトが提示されていて面白かったのですけど、
デボラ・ワーナーの演出でも、そうやって最初に演出の方向性みたいなものが提示されます。

たとえば、
舞台の上から横に長い木の棒が下りてきたりまた上がっていったり・・・
その棒に布が巻いてあって、それをばずして、また別の布をつけて、
棒が上がっていくと、それが帆のように張られて・・・
あっ、帆のようにではなくて、それは帆なんですね。
ああ、帆だったのか、と思います。

エネアスはやがてダイドーを捨てて、カルタゴからイタリアの地を目指して船出してしまう・・・
その船出の予告、つまりは悲劇の予告・・・

でも、その舞台の雰囲気は悲劇的ではなくて、むしろ人懐っこい感じがします。
女子校の制服を着た女の子たちがたくさんいて、舞台の上で、“だるまさんが転んだ”とか、
まあ、そんなようないろんな“遊び”に興じているからです。

中学生とか、小学生?・・・まあ、歳はわかんないんですけれど・・・

この女の子たちが、オペラ全体を通じて、出たり入ったりして、
「ダイドーの悲劇」のベースをつくります。
女の子たちは、まず、この「悲劇」の観客です。
でも、2幕では、劇中に参加して、さっき練習したバロックバレエを披露します。

女の子たちの存在自体は、演出家の自由な想像というよりは、ある意味“史実”に基づいていて、
パーセルはこのオペラを、女子校の生徒たちのために書いた・・・と、まあ、そういう説があります。
ラシーヌの『エステル』とか、それと似たケース・・・

なので、女の子たちが観客であるのも、また劇に参加するのも、当初の想定通りとも言えるのですが、
ただし、デボラ・ワーナーの女の子たちは現代の女の子たちなわけで、
そこが、このアイデアのすばらしいところ。
17世紀の“儀式的悲劇”と現代がやすやすとつながる・・・
女の子たちには、悲劇も政治も関係なくて(ダイドーはカルタゴの女王なので、
彼女のエロスはつねに政治的なものでもあります)、
ダイドーの悲劇を彼女たちの“ごっこ遊び”に取り込んでしまいます。

開演前の女の子たちの“遊び”・・・実はバレエの練習だったのかもしれないのですが、
そのために、先生たちもいて、生徒たちにあれこれと指示などもしているのですが、
子供たちには遊びの方が面白いようなのです・・・
それで、その“遊び”の中で、あるとき一人の女の子が両手を広げてぱっと魔法をかけると、
もう一人の女の子が舞台の真ん中で倒れるというものがあります。
なかなかきれいなイメージです。
それは、やがて訪れるダイドーの悲劇/死の予告というか、真似というか、パロディですよね。

シェークスピア的な“劇中劇”、“劇中劇”的パントマイムです。
ちなみに、舞台の上にはもうひとつ四角い舞台がつくってあって、
さっきの女の子は、その二番目の舞台の真ん中で倒れるんですけれども・・・
ちなみに、第一の舞台と、その四角い第二の舞台との境界は、この演出では、
それほどはっきりとしてはいなくて、
役者(歌手)たちは第二の舞台からけっこう無頓着にはみだします。
ただ、劇中劇的な雰囲気が、その二重の舞台からクリアに視覚化されていると言えるでしょう。

最初の女の子につづいて、次々とほかの生徒たちが、舞台の上で倒れます。
“ダイドーの悲劇ごっこ”が子供たちによって生み出されたわけです。

観客は“悲劇”と“悲劇ごっこ”の間で、
ダイドーの死に対してある意味自由なスタンスをとることができます。

一方、ダイドーの悲劇の物語は、様式的にとても美しくつくってあります。
ダイドーとお付きの女性べリンダともう一人のお付きの若い女性、この三人がとても絵画的です。
彼女たちの衣装が服飾史的に正確にどの辺に位置するのかわかりませんけど、
僕には、とてもワトー的イメージに見えました。
《シテール島への船出》とか、そういう“雅な宴”的なイメージがそこここでつくられます。
女性の後ろ姿、ドレスのライン、身体のライン、首のラインとか・・・とてもワトー的な感じがしました。
バロックオペラとロココだから、まあ様式的には、ワトーを連想してよさそうですけど・・・

ドレスの色彩もすてきですねぇ・・・
紫・赤紫系のパレットのような色合わせで、ダイドーはゴールドの衣装・・・
華やかなアイメイク用パレットのような色合わせ・・・

絵画的イメージは、ワトーにしろ、そうでないにしろ、デボラ・ワーナーは意識的に、そういう
絵画的静止イメージをつくっているようです。

第2幕、狩りの後のピクニックのシーン(ここはダイドーとエネアスの短い蜜月期)では、
第二の四角い舞台の中央に、やはり四角い泉(実際に水がある)が出現するのだけれど、
その泉の中を、スカートの裾をたくし上げてダイドーが歩きます。
これも絵画的に美しいですねぇ・・・
「スザンナの水浴」とはちょっと違いますけど、そういう、
ちょっとエロチックな絵画イメージを思わず探してしまいます。
ワトーじゃなくて、ブーシェとか探せばいいんでしょうか?・・・

このピクニックのシーンは、また違った意味で、絵画的に面白いです。
ダイドーたち3人の女性のイメージはワトー的“雅な宴”・・・
“雅な宴”はそもそもロココのピクニックのイメージなので・・・

これにコーラスが宮廷の人々としてついてくるんですけど、
このコーラスの役者(歌手)たちは現代のフツーの格好をしているので・・・
といっても、黒が基調なので、ピクニック的には、まあ、それほどフツーでもないんだけれども、
でも、ロココ的衣装とのコントラストでフツーに感じられます・・・

で、このフツーの人たちが、それぞれグループにわかれて白い布を敷いて、
その上でピクニックをするのが、絵画的には一気に印象派に飛んで、
その絵画的混乱が面白い。

いや、さらに、よく見れば、19世紀後半の服装ではないので、でも、ロングスカートなので、
むしろアニェス・ヴァルダの『幸福』のピクニックとか・・・
少なくとも、僕はアニェス・ヴァルダを連想しました。

あの映画では、妻が捨てられ、っていうか、捨てられると予感した妻が湖に溺れて死にます。
自殺かどうかはわからないんですけれども、その流れがダイドーの悲しい運命を連想させて・・・


あと、大事なことですけど、
デボラ・ワーナーの絵画的イメージというのは、芝居本体と関係ないところで、
表面的ヴィジュアルをきれいにつくっている、っていうのでは全然ないです。
そういう“絵画的”ポーズというのが、劇全体の緊張感というのを生み出しています。
そこは、やっぱりシェークスピアの演出家なんだなあ、という気がします。

たとえば、第3幕の初めのあたり、
運命に逆らっても無駄だとダイドーが歌う場面で、べリンダが後ろを向きます。
そのポーズの生み出す緊張感は見事です。
演じていない役者(歌手)たちが“絵画的”な緊張感の中で、ものすごく集中している感じ・・・
これはコンサート形式のオペラでは味わえない、とても演劇的な醍醐味です。

あと、もうひとつ・・・
このオペラには、デボラ・ワーナーのオリジナルのプロローグがついています。

原作台本にもプロローグがあるようなのですが、現在は完全な形で残っていないということで、
演出家は、そこでフィオナ・ショウに詩の朗読・・・というのか、詩を演じるというのか・・・
をさせています。取り上げられた3つの詩は、オペラとは関係ないのですが、
ダイドーの物語と関連付けられることで象徴的な意味合いを帯びてきます。
(詩はT.S.エリオット、W.B.イェーツの詩と、あと『変身物語』関連の英語の詩。)
けれども、僕は、そういう象徴性よりも、
フィオナ・ショウの“演劇的”登場が、ものすごく気に入りました。
これから、私たちは、オペラではなく・・・って、オペラでもあるんだけど、
それ以上に、なにかすばらしい芝居を見るんだ、っていう期待感にわくわくするんですよね。

フィオナ・ショウはアイルランド出身の有名な女優さんです。
マリヴォー関連では、ベルトリッチがプロデュースしたマリヴォー『愛の勝利』に出ています。
映画です。DVDが手に入ります。

なお、この『ダイドーとエネアス』は2006年にウィーンで初演されているようです。
パリのオペラコミック座初演は2008年、とプログラムのどこかに書いてあった気がしますが、
いま探したら、ちょっと見つかりません。違っていたら、書き直しますね。
1時間10分の短いオペラなので、19時と21時の2回公演があります。




















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