SSブログ

リーディング・マリヴォー&『ヴェールを纏った女たち』 [マリヴォー&見た芝居]

『恋のサプライズ2』第9景から第14景までの翻訳をホームページに掲載しました。
これで第1幕がようやく完成。第1幕全体を通して読むと、
キャラクターやプロットがくっきりと見えてきて、この芝居の面白さがよくわかると思います。
ぜひ通して読んでください。

古典喜劇の現代語翻訳も、その“方法論”的なレベルでけっこう調子づいてきて、
「コンビニで会話するように古典劇を演じよう」というキャッチコピーまで出来ました。
ホーム・パーティーの折などに、配役を決めて、みんなで台詞を声に出してみてください。
楽しいと思いますよ。

それで、この芝居が大変に面白いので、よし、これでリーディング公演をやろうと企画しました。
第1幕のリーディングにちょっとした解説をつけて、だいたい1時間くらいになるかな。
大学の図書館で開催するイベントのひとつとしてちょうどいい・・・

授業でマリヴォーをやっています。その授業に出ている学生からとりあえず4、5人をリクルートして(登場人物は6人だからまだ人数は足りなかった)、練習を始めたのですが・・・
うーん、これがなかなか大変。
リーディングそれ自体がむずかしいとか、そういう話ではなくて、練習時間に参加メンバー全員がそろうということがむずかしい。ええ、たった4、5人なんですけど・・・彼女たち、なんかとても忙しくて・・・
そんなこんなで、企画はあえなく中止に追い込まれてしまいました。

とはいえ、リーディング公演の企画が消えてしまったというわけではなくて、
さて、じゃあどうやってリーディングのメンバーを集めたらよいものか?と現在思案中。
6人集まれば一人二役なしで『恋のサプライズ2』のリーディングはできます。
このブログの読者の中にも6人ぐらいはいそうな気がしますけど、どうかな・・・


最近、リーディングという形式の可能性について考えるようになりました。
(*ここで言っているリーディングは観客を前にした公演としてのリーディングです。)
俳優を集めて芝居を上演することが“理想”としてあって、
それができないのでリーディングで“がまんする”というようなことではなくて、
リーディングこそが、いまのいわゆる芝居より“適切”な形式なのではないか・・・
つまり、マリヴォーのような古典劇には、いま一番適している形式ではないか、という・・・

古典劇では、喜劇の場合でもそうなんですけど、ひとつの台詞が長い、ということがしばしばあります。
お笑いコントなんかだと短い台詞のやり取りでポンポンと進んでいって、それが面白い。
普通の芝居だと、もう少し台詞が長くなるかもしれませんが、基本はあまり変わらない。
古典劇はひとりの台詞がとても長い。おそろしく長い「独白」みたいなものもある。

シェークスピアの『ハムレット』の有名な独白「生きるべきか、死ぬべきか・・・」、あれも長いですよね。
エルネスト・ルビッチの映画のワン・シーンですけど・・・
ハムレット役者が舞台で「生きるべきか・・・」を始めると、客席にいた青年がすっと席を立って、
楽屋で待っているハムレット役者の妻のところに行く。“浮気”をして客席に戻って来る頃に、
ようやくハムレットの長い独白が終わる・・・
まあ、ルビッチの傑作ですけど、それくらい台詞が長い・・・

長いセリフを覚えるのはもちろん大変です。覚えるのも大変だし、
いちいち覚えてやっていたら、つぎつぎといろんな古典劇を演じてみる、なんてことは不可能に近い。
また、長い台詞というのは、覚えたつもりでも本番になると、ふっと出てこないということが起こります。
とぎれとぎれの台詞は聞いているのもつらい。

メジャーなプロの公演では、俳優たちは長台詞を覚えてはいるけれども、覚えたことに充足感を感じてしまって、“演劇的”にそれ以上前に進もうとしていないように感じられることがあります。
台詞を完全に覚えているということは、
“演劇的”に見れば、単にスタート地点に立ったというにすぎないわけですけれど、
スタート地点に立つまでに、すでに人並み外れた努力をしているわけですから、
気持ちはわからないでもありません。

チャイコフスキー・コンクールとかショパン・コンクールというのがあって、優勝したとか、優勝できなかったとか、大騒ぎをします。
あれは、例えば、チャイコフスキーのピアノ協奏曲をぜんぶ、こう、暗譜で弾くわけです。
すごいと思います。すごいと思いますけど、ああいうのを見ていると、心の片隅で、
これって音楽というよりかはアクロバットじゃないのと思ったりします。
べつに、楽譜見ながらでいいから、モーツアルトとかフツーに弾いてくれればいいのにと思ったりします。
オーケストラもいらないから・・・

音楽でいうと、楽譜をそばに置いて弾くというようなことかな?と・・・まあ、これはイメージですけど、
リーディングのメリットというのはそのあたりにあるような気がします。
特にアマチュア的にやる場合、台詞を暗記するところにエネルギーを注がずに、
“演劇的”なスタート地点に立った、その次のことに集中する。
台詞のテンポや間(ま)や、息継ぎや、息を吐いたり、息をのんだり、それから、まあ、表情とか、
また、観客に理解できるような発音・発声で台詞を言うとか、他の登場人物の台詞をよく聞くとか、
なによりも自分の台詞に耳を傾けるとか・・・
その方がはるかに深い演劇体験になる・・・

観客だって、長台詞にいっぱいいっぱいの切羽詰まった“演技”を見るよりは、
素直に“声”になったテクストを通して、むしろダイレクトに劇世界と触れることができる・・・

もうずいぶん前、去年の12月の話です。
トルコの劇作家が書いた『ヴェールを纏った女たち』という芝居の「ドラマリーディング」を見に行きました。
半年以上も経って今頃書くのもなんですけど、とても面白い公演でした。
リーディングという形式だからこそ、いまこういう面白い芝居が上演できるんだな、と思います。

これは古典劇ではなくて、現代劇です。
「紛争地域から生まれた演劇/その2/パレスチナ・トルコ篇」という、
かなり“真面目”なタイトルを持った、シンポジウム付きのイベントで、
雰囲気も、芝居というより学会みたいな感じではあったんですが・・・
場所は、神楽坂の「シアターイワト」というところ。12月19日(日曜日)でした。


5人の女性の語る物語。5つのモノローグによる5部構成の芝居です。
5人の女性の共通点は、ドイツに住むイスラム教徒だということ。

トルコ人女性が4人、っていっても、国籍的に、トルコ人なのか、ドイツ人なのかは
ちょっと分からないですけど・・・
ドイツは移民の数が増えて、それで移民を排斥する右翼勢力の台頭なんかも見られるようなんですが、
そういう時代背景があって、トルコ人の移民、移民2世、3世とか、そういう女性たちなんだと思います。

日本語翻訳台本によるリーディングですが、もとはドイツ語のテクストを訳したもののようです。
4人の女性たちがどんなふうにドイツ語を話すのかはわかりません。
母国語のように話すのか、トルコ語訛りで話すのか・・・

5人のうちのひとりだけはドイツ人。イスラムに“かぶれ”てイスラムに改宗してしまったドイツ人女性です。
で、合計5人のイスラム教徒。

作家のフェリドゥン・ザイモグルはトルコ生まれトルコ国籍ですが、いまはドイツで活躍中、
とチラシに書いてあります。
作者に、もうひとりギュンター・ゼンケルという人の名前があるので、
ザイモグルがトルコ語で書いて、ゼンケルがドイツ語の台本をつくっているのかな・・・と、
これは僕の想像です(この辺のことはチラシにも書いていない)。

モノローグといってもいろんな形態があると思いますが、
ここではそれぞれの女性が自分自身の物語を語ります。
十代の少女から、上の方はどれくらいの年齢層だったか・・・覚えていませんが、
全体的に若い世代だったと思います。
それぞれの人生の断片をエピソード的に物語る、ひとり語りの芝居です。
なので、これ、台詞を覚えて演じようとしたら、けっこう大変だと思います。

5人の登場人物は、みんな多かれ少なかれイスラムにこだわっているのですけど、面白いのは、
その“こだわり”をべつにすれば、とくに宗教的・文化的ギャップは感じられないところ・・・
って、まあ、僕に見えないだけかもしれないんですけど、
でも、十代の女子が男子との“複雑”な関係について語る物語なんかは、
えっ、こいつ日本人女子かよ?っていうくらい日本人と変わらない。
ドイツにいるトルコ人のイスラム教徒があまりに日本人と変わらないところがカルチャーショック、
みたいな・・・
日本人が日本語でパフォーマンスするから、っていうこともあるかもしれないんだけど・・・


リーディング形式といっても、じっと立って本を読むというのではなく、
台本を片手に持って、ある程度というか、かなりな程度、身体的な演技をします。
動きまわります。身振り手振りをつけます。
観客の前で演じるパフォーマンスとしてのリーディングは、やっぱり、こういう方向なのかなと思います。
例えば、マリヴォー劇なんかでも、
もともとコメディア・デ・ラルテの饒舌な身体表現からその演劇的エネルギーを受け継いでいるので、
単純に“声”にしただけでは伝わらない、というか、表現しきれない、というか、
そういうものがありますから・・・

マリヴォーのような18世紀フランス古典でも、
こういうドイツ在住のトルコ人作家によるドイツ在住のイスラムの女性の芝居なんかでも、
いまの日本演劇(演じる人も観る人も演出する人も)にとっては未知の領域だと思うんですよね。
そういう場合、いわゆる“芝居”として演じてしまうと、未知の領域のものを、
従来の、あるいは既知の“演劇言語”っていえばいいでしょうか、なにか、
すでに自分たちが持っている“スキル”(それがすごく高い“スキル”であっても)を使って
その芝居をつくりあげてしまうんじゃないか・・・そういう危険性はあると思います。
そうなってしまうと創造的じゃない。

リーディングという形式の中で、未知の言葉にじっくりと耳を傾けること。
聞こえてくる言葉のうちに新しい“演劇言語”を模索すること。
そういうことが、観てる方にとっても刺激的で、創造的に思える・・・


『ヴェールを纏った女たち』の中で、とくに演劇的に感動した・・・って変な言い方ですが・・・まあ、
感動したパフォーマンスがあります。
車いすで生活しているトルコ人の若い女性のひとり語り・・・

彼女を介護するドイツ人の青年がいて、
彼の差別的視線、あるいは軽蔑的視線を、彼女は痛いほど感じている。
それに対する反撥と嫌悪。軽蔑と憎しみ・・・
若い女性としての倒錯的な欲望が、嫌悪と憎しみとに強烈に絡み合い・・・
そして、ドイツ人青年のサディスティックな欲望と、二人の“醜悪”なセックス・・・

演じた女優さんの集中力と緊張感に、観ているこちらも息を呑んだままずうっと・・・
って、それじゃ死んでしまうけど、まあ、それくらいすごかったですよ。

リーディングというパフォーマンスの中で、
テクストの言葉たちに耳を傾け、
あたかもその口寄せのように、
憑依した言の葉のように演じていた・・・

ごめんなさい。女優さんの名前がわからないんですよね。
チラシには配役は書いていなくて・・・写真は載っているんですけど、
こういうブロマイド的写真では、ちょっとどの人がどの役だったかまでは自信がなく・・・

コメント(0) 
共通テーマ:演劇

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。