ロバート・カーセン演出『ナクソス島のアリアドネ』 [オペラ]
前回書いたデボラ・ワーナー演出『ダイドーとエネアス』についての記事の中で、
ロバート・カーセンの『ナクソス島のアリアドネ』の演出にちょっと触れました。
観客が席につくと、まだ開演前だというのに、舞台の上ではもうなにかはじまっている・・・
そういう演出の仕方が『ダイドー』と『アリアドネ』で共通している、という話でした。
そのことをもう少し詳しく書きます。
2011年10月のバイエルン国立歌劇場公演リヒアルト・シトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』、
これがロバート・カーセンの演出だったんです。
またロバート・カーセン?みたいな感じもあるんですけど、やっぱり、見るとすばらしいんですよね。
ブログにそのことを書こう書こうと思いながら、あっという間に時は過ぎて、
もう半年遅れくらいの感じなんですけど、読んでください。
それで、開演前に舞台上でなにか演じはじめているっていう、そのことだけではなくて、
そこでやっていることについても、ワーナーとカーセンには少し共通するところがあります。
カーセンでは、子供たちではないんですけど、
大人たちが、やっぱりバレエの練習をしています。
舞台の上は、壁一面の鏡張りで、バレエの練習場のように見えます。
よくはわからないんだけれど、
芝居(オペラ)本体の中で踊るバレエの練習かな?みたいなことを、
たとえば、観客は思うかもしれない・・・
なにか舞台裏的風景が展開しているようだ、と・・・
まあ、その演出自体すでに面白いんですけど、
実は、『ナクソス島のアリアドネ』は“劇中劇”の構造を持ったオペラで、
冒頭は“舞台裏”の場面からはじまります。
これから始まる公演(劇中の劇)を前につぎつぎと問題が起こって・・・といった展開です。
なので、
カーセンは、舞台裏の場面の前にもうひとつ舞台裏の場面をくっつけた、ということになります。
この舞台裏の“増殖”みたいなことがものすごく面白い。
芝居という虚構の世界に対して、舞台裏っていうと、なにかちょっと“現実的”な印象があります。
だから、虚構の舞台裏をつくると、その虚構と現実のバランス感覚が少し狂ってしまう。
あれは芝居じゃないんでしょう?えっ、もう芝居がはじまってるの?みたいな・・・
虚構の舞台裏をふたつもつくると、少しどころかかなり混乱します。
『ナクソス島のアリアドネ』に舞台裏の場面をくっつけると、
それはもちろん現実にある本当の舞台裏などであるはずはなく、
もともとある虚構の舞台裏にもうひとつ虚構の舞台裏がくっついただけです。
くっつけようと思えば、その舞台裏にもべつの虚構の舞台裏がくっつけられるわけで、
さらに、その舞台裏にも・・・って、いくらでも舞台裏がくっつけられて、
でも、そんなふうに果てしなく舞台裏をくっつけていっても、
絶対に本当の舞台裏には到達できない。虚構の舞台裏が増殖していくだけ・・・
って、それはあたりまえなんだけども、ここのポイントは、
カーセンがやったみたいに、虚構の舞台裏に虚構の舞台裏をひとつくっつけるだけで、
鏡に鏡を映し出したように、舞台裏という虚像が一瞬にして無限に増殖するっていうことなんです。
無限に増殖した“舞台裏”の中で、
本当の“舞台裏”(虚構ではない現実)がどれなのかわからなくなる・・・
カーセンがつくり出すのは、バレエの練習風景という単純なイメージではなく、
鏡の迷路のような一種の錯乱なのだ、という・・・
舞台裏の増殖から鏡の迷路に話を展開したのは、僕自身のオリジナルな発想ではなくて、
カーセンが、彼の演出をそのように展開するからです。
バレエ練習場の壁は、バレエの練習場が普通そうであるように、一面鏡に覆われています。
この鏡の壁は、実は何枚もの鏡パネルでできていて、
芝居がはじまると、その“舞台裏”は解体されるわけですが、
解体後の鏡パネルは片づけられるのではなく、
舞台上に雑然と・・・というか、雑然とした感じに見えるように置かれます。
鏡パネルが“姿見”的状態(つまり立てられた状態)で
舞台のあちこちで障害物のように立ちふさがるわけです。
登場人物たちはその間を動き回る。
鏡が鏡を映しだし、舞台上を動き回る人物たちを乱反射させて、まさに鏡の迷路をつくり出す・・・
『アリアドネ』の“舞台裏”(劇中の舞台裏)場面は、
物語的にも、登場人物たちの混乱を描き出しています・・・
大金持ちが金の力で劇団を呼んで自分の屋敷で余興をさせようとする。
呼ばれたのはシリアスなオペラをやる劇団と、コメディア・デ・ラルテの劇団の二つ。
コメディ・デ・ラルテは、まあ、軽喜劇をやるお芝居集団。
シリアス・オペラ側は、えっ、あんな連中と一緒にやるの?ってそこから面白くないんだけど、
大金持ちは権力にものを言わせて無理難題・・・時間がないから二つの劇団で同時にやれ、
と無茶苦茶なことを言う・・・この辺はギリシャ神話と関係ない・・・
さらに、オペラ・セリアの方の作曲家なんですが、
この人が19世紀ロマン主義みたいなものから一歩も外に出られないで、
まあ、行き詰まっているというか、煮詰まってる。
大金持ちの気まぐれという“不条理”な現実の前で、なにか自分の殻を破らなくちゃいけないんだけど、
どういう方向に進めばいいのかわからない。
彼の『ナクソス島のアリアドネ』をどうすればいいかわからない・・・
まあ、この辺の“まとめ”は大雑把で適当ですから、実際のオペラを見てもらうことにして・・・
でも、この適当な“まとめ”からでも・・・というか、この適当な“まとめ”からだと、
“鏡の迷路”っていう演出がピタッとはまるのがわかってもらえると思うんですけど・・・
自分の芸術の方向性とか、自己のアイデンティティとか、そういうものが、
悩める作曲家には、鏡のつくる虚像の連鎖の中で、もうなにも見えなくなっている。
ついでに言うと、
この作曲家の創作したオペラ・・・というか、オペラはいま生成の途中なので、
創作したというより、“創作している”オペラですけど、そのオペラの主題が、
リヒアルト・シトラウスのオペラ全体のタイトルになっているアリアドネなんです。
で、ギリシャ神話のアリアドネは、テセウス(アリアドネを捨てる不実な英雄)を
ダイダロスの“超迷宮”から救い出した人だから、
ある意味“迷路”はアリアドネにふさわしいテーマでもあります。
鏡は面白いテーマですけど、昔からあちこちで使われてきたおなじみのテーマですから、
演出に導入するのはけっこう難しいと思うんですね。
えっ、また鏡なの、みたいなことになって・・・
鏡が出てくれば、観客はすぐ、あの意味はなに?とか、なんの象徴?とか考えたくなる。
そういう意味では、カーセンの鏡の導入の仕方には感心します。
鏡はバレエ練習場で舞台に持ち込まれていたんですけど、
鏡が存在して、これくらい当たり前の場所はないから、
それが特別な意味を持つものだなんてまったくが気が付かないんです。
むしろ“舞台裏”のテーマに気を取られていて・・・
それがいつの間にか解体されて、パネル状になった鏡が、鏡のテーマを奏ではじめる・・・
カーセンが鏡のテーマをどんなふうに変奏しているのか、
僕もその一部しかとらえてないんだと思いますが・・・
劇中劇がはじまって、アリアドネの物語になります。
アリアドネの状況はダイドーの状況によく似ています。
両方とも、古代ギリシャ・ローマの神話がベースになっていて、
“英雄”が、島とか海辺とかに、女子を置いてきぼりにして、
海に・・・まあ、地中海の海ですけど・・・船出してしまう。
唐突に捨てられた女子は、ちょっとどうしてくれるのよ的状況に置かれて絶望する・・・
ダイドーは毒を飲んで死を選びますが、
アリアドネは、そこで新たに“自分探し”をはじめる・・・みたいなところがちょっと違います。
テセウスに全面依存していたアリアドネの自己アイデンティティ、
そこに固執すれば死ぬしかない・・・というわけでアイデンティティの危機・・・
そこでやっぱり鏡のイメージの使い方がすばらしいです。
アリアドネを映し出すいくつもの鏡、どの鏡に映った私が本当の私なの?・・・
って、それだけなら面白くないですけど、
カーセンは、この鏡のイメージを実体化させるんです。
アリアドネと同じ格好をした何人ものアリアドネが舞台上に出現します。
彼女たちはアリアドネと同じ身振りと動作をする・・・完全に鏡のイメージですよね。
あるいはやがて、“鏡のアリアドネたち”はアリアドネの身振りと動作をバリエーションしていく。
それらすべてのアリアドネが、アリアドネの“私”として統合され、承認されるとき、
アリアドネは自分探しの旅の終わりにいた・・・
最後にもうひとつだけ・・・
デボラ・ワーナーは『ダイドー』のプログラムの中で
「喪」とか「喪を明ける」こととかのテーマについて熱く語っているのですが、
実際に僕が見た『ダイドー』の演出にはそれが強くは感じられなかったんですね。
ダイドーは、はじめ死んだ夫の喪に服していて、登場するときは黒いヴェールをかぶっている、
みたいなことはあるんですが、それくらいで、
エネアスの愛を失ったということに対する喪の作業というのには失敗してるわけですよね。
自殺しちゃうんだから・・・
そういう意味では、
カーセンの『アリアドネ』の方にむしろ、喪の作業の美しい形象化みたいなものを感じます。
鏡による自己像の増殖、鏡のつくる虚像の実体化、分裂した自己イメージの統合・・・
ひとつの愛を失ったあとに、その喪失に対してどのように・・・
河瀬直美ふうに言うと「喪がり」?・・・どのように“喪がり”するのか?・・・
アリアドネの“喪がり”の過程が鏡的イメージの変奏によって美しく繰り広げられている・・・
ロバート・カーセンの『ナクソス島のアリアドネ』の演出にちょっと触れました。
観客が席につくと、まだ開演前だというのに、舞台の上ではもうなにかはじまっている・・・
そういう演出の仕方が『ダイドー』と『アリアドネ』で共通している、という話でした。
そのことをもう少し詳しく書きます。
2011年10月のバイエルン国立歌劇場公演リヒアルト・シトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』、
これがロバート・カーセンの演出だったんです。
またロバート・カーセン?みたいな感じもあるんですけど、やっぱり、見るとすばらしいんですよね。
ブログにそのことを書こう書こうと思いながら、あっという間に時は過ぎて、
もう半年遅れくらいの感じなんですけど、読んでください。
それで、開演前に舞台上でなにか演じはじめているっていう、そのことだけではなくて、
そこでやっていることについても、ワーナーとカーセンには少し共通するところがあります。
カーセンでは、子供たちではないんですけど、
大人たちが、やっぱりバレエの練習をしています。
舞台の上は、壁一面の鏡張りで、バレエの練習場のように見えます。
よくはわからないんだけれど、
芝居(オペラ)本体の中で踊るバレエの練習かな?みたいなことを、
たとえば、観客は思うかもしれない・・・
なにか舞台裏的風景が展開しているようだ、と・・・
まあ、その演出自体すでに面白いんですけど、
実は、『ナクソス島のアリアドネ』は“劇中劇”の構造を持ったオペラで、
冒頭は“舞台裏”の場面からはじまります。
これから始まる公演(劇中の劇)を前につぎつぎと問題が起こって・・・といった展開です。
なので、
カーセンは、舞台裏の場面の前にもうひとつ舞台裏の場面をくっつけた、ということになります。
この舞台裏の“増殖”みたいなことがものすごく面白い。
芝居という虚構の世界に対して、舞台裏っていうと、なにかちょっと“現実的”な印象があります。
だから、虚構の舞台裏をつくると、その虚構と現実のバランス感覚が少し狂ってしまう。
あれは芝居じゃないんでしょう?えっ、もう芝居がはじまってるの?みたいな・・・
虚構の舞台裏をふたつもつくると、少しどころかかなり混乱します。
『ナクソス島のアリアドネ』に舞台裏の場面をくっつけると、
それはもちろん現実にある本当の舞台裏などであるはずはなく、
もともとある虚構の舞台裏にもうひとつ虚構の舞台裏がくっついただけです。
くっつけようと思えば、その舞台裏にもべつの虚構の舞台裏がくっつけられるわけで、
さらに、その舞台裏にも・・・って、いくらでも舞台裏がくっつけられて、
でも、そんなふうに果てしなく舞台裏をくっつけていっても、
絶対に本当の舞台裏には到達できない。虚構の舞台裏が増殖していくだけ・・・
って、それはあたりまえなんだけども、ここのポイントは、
カーセンがやったみたいに、虚構の舞台裏に虚構の舞台裏をひとつくっつけるだけで、
鏡に鏡を映し出したように、舞台裏という虚像が一瞬にして無限に増殖するっていうことなんです。
無限に増殖した“舞台裏”の中で、
本当の“舞台裏”(虚構ではない現実)がどれなのかわからなくなる・・・
カーセンがつくり出すのは、バレエの練習風景という単純なイメージではなく、
鏡の迷路のような一種の錯乱なのだ、という・・・
舞台裏の増殖から鏡の迷路に話を展開したのは、僕自身のオリジナルな発想ではなくて、
カーセンが、彼の演出をそのように展開するからです。
バレエ練習場の壁は、バレエの練習場が普通そうであるように、一面鏡に覆われています。
この鏡の壁は、実は何枚もの鏡パネルでできていて、
芝居がはじまると、その“舞台裏”は解体されるわけですが、
解体後の鏡パネルは片づけられるのではなく、
舞台上に雑然と・・・というか、雑然とした感じに見えるように置かれます。
鏡パネルが“姿見”的状態(つまり立てられた状態)で
舞台のあちこちで障害物のように立ちふさがるわけです。
登場人物たちはその間を動き回る。
鏡が鏡を映しだし、舞台上を動き回る人物たちを乱反射させて、まさに鏡の迷路をつくり出す・・・
『アリアドネ』の“舞台裏”(劇中の舞台裏)場面は、
物語的にも、登場人物たちの混乱を描き出しています・・・
大金持ちが金の力で劇団を呼んで自分の屋敷で余興をさせようとする。
呼ばれたのはシリアスなオペラをやる劇団と、コメディア・デ・ラルテの劇団の二つ。
コメディ・デ・ラルテは、まあ、軽喜劇をやるお芝居集団。
シリアス・オペラ側は、えっ、あんな連中と一緒にやるの?ってそこから面白くないんだけど、
大金持ちは権力にものを言わせて無理難題・・・時間がないから二つの劇団で同時にやれ、
と無茶苦茶なことを言う・・・この辺はギリシャ神話と関係ない・・・
さらに、オペラ・セリアの方の作曲家なんですが、
この人が19世紀ロマン主義みたいなものから一歩も外に出られないで、
まあ、行き詰まっているというか、煮詰まってる。
大金持ちの気まぐれという“不条理”な現実の前で、なにか自分の殻を破らなくちゃいけないんだけど、
どういう方向に進めばいいのかわからない。
彼の『ナクソス島のアリアドネ』をどうすればいいかわからない・・・
まあ、この辺の“まとめ”は大雑把で適当ですから、実際のオペラを見てもらうことにして・・・
でも、この適当な“まとめ”からでも・・・というか、この適当な“まとめ”からだと、
“鏡の迷路”っていう演出がピタッとはまるのがわかってもらえると思うんですけど・・・
自分の芸術の方向性とか、自己のアイデンティティとか、そういうものが、
悩める作曲家には、鏡のつくる虚像の連鎖の中で、もうなにも見えなくなっている。
ついでに言うと、
この作曲家の創作したオペラ・・・というか、オペラはいま生成の途中なので、
創作したというより、“創作している”オペラですけど、そのオペラの主題が、
リヒアルト・シトラウスのオペラ全体のタイトルになっているアリアドネなんです。
で、ギリシャ神話のアリアドネは、テセウス(アリアドネを捨てる不実な英雄)を
ダイダロスの“超迷宮”から救い出した人だから、
ある意味“迷路”はアリアドネにふさわしいテーマでもあります。
鏡は面白いテーマですけど、昔からあちこちで使われてきたおなじみのテーマですから、
演出に導入するのはけっこう難しいと思うんですね。
えっ、また鏡なの、みたいなことになって・・・
鏡が出てくれば、観客はすぐ、あの意味はなに?とか、なんの象徴?とか考えたくなる。
そういう意味では、カーセンの鏡の導入の仕方には感心します。
鏡はバレエ練習場で舞台に持ち込まれていたんですけど、
鏡が存在して、これくらい当たり前の場所はないから、
それが特別な意味を持つものだなんてまったくが気が付かないんです。
むしろ“舞台裏”のテーマに気を取られていて・・・
それがいつの間にか解体されて、パネル状になった鏡が、鏡のテーマを奏ではじめる・・・
カーセンが鏡のテーマをどんなふうに変奏しているのか、
僕もその一部しかとらえてないんだと思いますが・・・
劇中劇がはじまって、アリアドネの物語になります。
アリアドネの状況はダイドーの状況によく似ています。
両方とも、古代ギリシャ・ローマの神話がベースになっていて、
“英雄”が、島とか海辺とかに、女子を置いてきぼりにして、
海に・・・まあ、地中海の海ですけど・・・船出してしまう。
唐突に捨てられた女子は、ちょっとどうしてくれるのよ的状況に置かれて絶望する・・・
ダイドーは毒を飲んで死を選びますが、
アリアドネは、そこで新たに“自分探し”をはじめる・・・みたいなところがちょっと違います。
テセウスに全面依存していたアリアドネの自己アイデンティティ、
そこに固執すれば死ぬしかない・・・というわけでアイデンティティの危機・・・
そこでやっぱり鏡のイメージの使い方がすばらしいです。
アリアドネを映し出すいくつもの鏡、どの鏡に映った私が本当の私なの?・・・
って、それだけなら面白くないですけど、
カーセンは、この鏡のイメージを実体化させるんです。
アリアドネと同じ格好をした何人ものアリアドネが舞台上に出現します。
彼女たちはアリアドネと同じ身振りと動作をする・・・完全に鏡のイメージですよね。
あるいはやがて、“鏡のアリアドネたち”はアリアドネの身振りと動作をバリエーションしていく。
それらすべてのアリアドネが、アリアドネの“私”として統合され、承認されるとき、
アリアドネは自分探しの旅の終わりにいた・・・
最後にもうひとつだけ・・・
デボラ・ワーナーは『ダイドー』のプログラムの中で
「喪」とか「喪を明ける」こととかのテーマについて熱く語っているのですが、
実際に僕が見た『ダイドー』の演出にはそれが強くは感じられなかったんですね。
ダイドーは、はじめ死んだ夫の喪に服していて、登場するときは黒いヴェールをかぶっている、
みたいなことはあるんですが、それくらいで、
エネアスの愛を失ったということに対する喪の作業というのには失敗してるわけですよね。
自殺しちゃうんだから・・・
そういう意味では、
カーセンの『アリアドネ』の方にむしろ、喪の作業の美しい形象化みたいなものを感じます。
鏡による自己像の増殖、鏡のつくる虚像の実体化、分裂した自己イメージの統合・・・
ひとつの愛を失ったあとに、その喪失に対してどのように・・・
河瀬直美ふうに言うと「喪がり」?・・・どのように“喪がり”するのか?・・・
アリアドネの“喪がり”の過程が鏡的イメージの変奏によって美しく繰り広げられている・・・
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