ダミアーノ・ミキエレット演出 『コジ・ファン・トゥッテ』 [オペラ]
ごぶさたしてます・・・
モーツアルトの『コジ・ファン・トゥッテ』を、初台の新国立劇場に見に行ってきました。
なんとこれがすばらしい。
オペラとしてもすばらしいのだけれども、それよりもなによりも演劇としてすばらしい。
ダミアーノ・ミキエレットの演出がすばらしい。
“古典劇”を現代の舞台の上にアクチュアルな現代劇として再生するということはこういうことなんだと、
うならせる・・・まあ、僕はうなった・・・
うなったというか、“唖然とした様子でぼーっと口を開けている”・・・みたいな感じ。
6月8日(今日)と11日にも公演があるので、ぜひ見に行ってください、
絶対損はさせません・・・みたいな、とり急ぎ公演レポートです。
『コジ・ファン・トゥッテ』は、まあ、モーツアルトの有名なオペラ。
“いまどき”の若い男女5人と、もう若いとはいえない“おじさん”ひとりの、
6人の登場人物が繰り広げる恋愛コメディー。
2組のカップルがいて、一見安定していると思えたんだけれども、
それが“あっ”という間にシャッフルされて、パートナーが替わってしまう。
新しいカップルができるのか、それとも、もとの鞘におさまるのか・・・
シェークスピアの『真夏の夜の夢』とか・・・わりとあるパターンですよね。
マリヴォーの芝居にもけっこうある。
『真夏の夜の夢』だと、シャッフルを巻き起こすのは、
オベロンとかパックとか、そういう超自然パワーですけど、
『コジ・ファン・トゥッテ』では、ひとりだけ若くないアルフォンソおじさんがみんなを操る。
一生愛しつづけるみたいなこと言ってますが、
恋愛感情なんかあっという間に移り変わりますよ。
なんなら証明して見せましょうか?と“哲学者”ドン・アルフォンソは言います。
さあ、アルフォンソは実際に“証明”してしまうのか・・・・
で、このオペラ、もともとは18世紀のナポリのお屋敷が舞台なんですけど、
これをいまどきの夏のキャンプ場に設定を移して、
それがオーダーメードのようにぴたっと決まっているんです。
ショートパンツにTシャツとか、夜はちょっと、ミニのワンピにお着替え・・・とか・・・
ユニクロ風にカラフルな若者たちが21世紀の軽装で軽快に動きまわります。
アルフォンソの経営するアルフォンソ・キャンプ場は起伏に富んでいて、
バーがあり、森があり、湖があり・・・
暑い昼には湖で泳ぎ、日が暮れればキャンプファイヤーを囲み、
また夜が更ければ、森は深い闇を身ににまとい、湖は欲望に透き通る・・・
もちろん、オペラの演出で設定を現代にするっていうのは、いまやそんなにめずらしくはないのだけれども、
わりと表面的な“ヴィジュアル”にとどまっていることも少なくなく・・・
装飾的っていうのか・・・
ダミアーノ・ミキエレットの演出は、そういう奇をてらったものではぜんぜんなくて、むしろ、
18世紀のテクスト(オペラ台本)を深く深く読んでいったら、
自然と現代のキャンプ場に出たっていうような、そういうものすごい説得力があります。
18世紀が現代に変容した、っていうよりも、
18世紀ってさ、僕たちの時代にすごく似てるよね、っていう感じ。
マリー・アントワネット的きらきら衣装から解放されて自然にそういうことが見えてくる。
テクストを深く読み、そこから逆にこれまでの“常識”にとらわれないクリエイティブな演出を生みだしていく、
そういうダミアーノ・ミキエレットの才能もすごいんだけれど、
これは、彼ひとりでやっているというよりも、
美術・衣装担当のパオロ・ファンティンという人との共同作業の中で、
二人の持っている最良のものが具体的な形をとって出てきているのかな、という感じがします。
パンフレットによると、これまでもずっと一緒に仕事をしてきているらしいです。
舞台上には直径20mくらいの大きなジオラマみたいなのがつくってあって、
これが劇が進行するとともに回転します。
180度回転して、裏、表、というのではなく、
小刻みに止まって、そのジオラマ世界のいろいろな側面を見せてくれます。
キャンプ場とキャンピングカー、アイスクリームとか売ってるバー、それから森ですよね、それから湖・・・
そういう変化に富んだジオラマ世界が、ある意味、宇宙全体を表しているようにも見えてきます。
若者たちを取り囲んでいる、環境としての世界だけじゃなくて、
若者の心の中の宇宙っていうのか・・・
バーの上の「キャンピング・アルフォンソ」の看板が夜の中にポッと浮かび上がるのは、
たとえば、エドワード・ホッパーの都会的孤独を思わせるし、
湖を見下ろすバルテュス的な崖は官能的な危うさをはらんでいる・・・みたいな・・・
『コジ・ファン・トゥッテ』は、『フィガロの結婚』などとは違って、若者たちのグループ・コメディーなので
(その意味ではテレビのトレンディー・ドラマ的人物構成だったりします)、
だれかすごいソプラノとかひとりいれば、まあ、あとは下手でもなんとかなる・・・的なオペラではありません。
今回キャスティングされている若い歌手たちはそういう意味でもすばらしい。
(若いんだと思う。少なくとも見た感じは若く見えた・・・あっ、アルフォンソは若くない。)
フィオルディリージを歌ったソプラノが、ちょっとエンジンがなかなか温まらなくて、
はじめ、エッとか思いましたが、いったん温まるとこれもすばらしく・・・
でも、彼らの魅力は、自分たちを歌手であるだけではなくて、
ある意味それ以上に、役者なんだと認識していることなんです。
役者としてすばらしい演技をします。
歌手としても役者としても、そのパーフォーマンスの質が高い。
ミキエレットはかなり過酷な演出を役者/歌手たちに求めます。
歌手/役者たちがこの要求に若者らしく応えているところが、このオペラの大きな魅力のひとつです。
崖から転がり落ちたり(あとで聞いたら、やっぱり、傷だらけになるらしい)、
湖の中で服を濡らし髪を濡らしながらアリアを歌うとか・・・
これくらい書けば、このオペラの魅力はたぶん感じてもらえると思うんですけれども、
あと、そうですね・・・
ミキエレットがテクストを深く読んでいるっていうこと・・・
たとえば、オペラ冒頭、女子同士で、「結婚の予感・・・」みたいなことを話している場面で、
ひとりがもうひとりに「手相を見てあげる」と言う台詞があるんですけど、これを、
その時手に持ってる雑誌の占いコーナーを見てあげるという“動作”に置き換えている。
置き換えられてみれば、
キャンプしていて、女子二人で、カレシの話してるんだから、
それはいまどき、雑誌の占いに当然つながるでしょう・・・っていう具合にすごく自然。
(字幕では、「手を見る」ではなく、「星占いを見る」と出ていて、
観客は、とりあえず、これで一層自然にこの“動作”を受け入れられるのですが、
この字幕の扱いはちょっとビミョー・・・まあ、この話はまたあらためて・・・)
あと、いろいろありますが、そうですね・・・
男子たちが戦地に赴くっていう話になる場面・・・
いまこの地球上では常にどこかで戦争が起こっている。
これは現地の人が“勝手に”やってるっていうのではなくて、
いろんな意味でいわゆる「先進国」がこれにかかわっている。
アフガニスタンでは、アメリカ兵やイギリス兵が命を落としている。
日本の自衛隊だってイラクに派遣されていたりした・・・
というコンテクストがあって、「戦地に赴く」っていうことが、
18世紀的ゲームなんじゃないんだよ、すごいアクチュアルな現実と結びついてるんだよ、みたいなことが、
ミキエレットの演出からすごいストレートに感じられます。
あと、最後にひとつだけ・・・
モーツアルトのオペラって『フィガロの結婚』なんかもそうですけど、24時間の出来事ですよね。
『コジ・ファン・トゥッテ』もそう。一日の物語。
昼から夜への移行というのがドラマの中で重要な意味を持ちます。
ある意味“のうてんき”に愛とか結婚とか言っていた若者たちが、
夜の闇の中で愛と対峙して、自分の身体とか欲望とか、そういうものにも目を開いて、
大きく成長していく・・・そういう「モーツアルトの夜」っていうのか・・・
「モーツアルトの夜」をこれほどシャープに感じさせてくれる演出ってそうないと思います。
あと、もうひとつ、・・・
ミキエレットの演出では、オペラの最後で、
テクスト(台本)と芝居の劇的な“乖離”が生じます。
生じます、っていうのか、古典を演じることっていうのは、つねにテクストと実際の演技・演出に
いろんな乖離が伴うのだけれど(さっきの「星占い」とか・・・)、
ミキエレットは、その乖離をある意味逆手にとって、わざと決定的な乖離を自ら生み出していて、
それがものすごく刺激的です。
ぜひ見に行ってください。
僕が行ったときはけっこう空席がありました。
空席つくるくらいなら、学生とか、若い人たちに、安い安い料金で開放すればいいと思うんですよね。
それが若い人を育てることでしょう?
そういうのは、やっぱり、劇場側の姿勢が問われると思う・・・
こういう、すばらしい演出を実際に見てほしい。そしたら日本の芝居も変わる。
モーツアルトの『コジ・ファン・トゥッテ』を、初台の新国立劇場に見に行ってきました。
なんとこれがすばらしい。
オペラとしてもすばらしいのだけれども、それよりもなによりも演劇としてすばらしい。
ダミアーノ・ミキエレットの演出がすばらしい。
“古典劇”を現代の舞台の上にアクチュアルな現代劇として再生するということはこういうことなんだと、
うならせる・・・まあ、僕はうなった・・・
うなったというか、“唖然とした様子でぼーっと口を開けている”・・・みたいな感じ。
6月8日(今日)と11日にも公演があるので、ぜひ見に行ってください、
絶対損はさせません・・・みたいな、とり急ぎ公演レポートです。
『コジ・ファン・トゥッテ』は、まあ、モーツアルトの有名なオペラ。
“いまどき”の若い男女5人と、もう若いとはいえない“おじさん”ひとりの、
6人の登場人物が繰り広げる恋愛コメディー。
2組のカップルがいて、一見安定していると思えたんだけれども、
それが“あっ”という間にシャッフルされて、パートナーが替わってしまう。
新しいカップルができるのか、それとも、もとの鞘におさまるのか・・・
シェークスピアの『真夏の夜の夢』とか・・・わりとあるパターンですよね。
マリヴォーの芝居にもけっこうある。
『真夏の夜の夢』だと、シャッフルを巻き起こすのは、
オベロンとかパックとか、そういう超自然パワーですけど、
『コジ・ファン・トゥッテ』では、ひとりだけ若くないアルフォンソおじさんがみんなを操る。
一生愛しつづけるみたいなこと言ってますが、
恋愛感情なんかあっという間に移り変わりますよ。
なんなら証明して見せましょうか?と“哲学者”ドン・アルフォンソは言います。
さあ、アルフォンソは実際に“証明”してしまうのか・・・・
で、このオペラ、もともとは18世紀のナポリのお屋敷が舞台なんですけど、
これをいまどきの夏のキャンプ場に設定を移して、
それがオーダーメードのようにぴたっと決まっているんです。
ショートパンツにTシャツとか、夜はちょっと、ミニのワンピにお着替え・・・とか・・・
ユニクロ風にカラフルな若者たちが21世紀の軽装で軽快に動きまわります。
アルフォンソの経営するアルフォンソ・キャンプ場は起伏に富んでいて、
バーがあり、森があり、湖があり・・・
暑い昼には湖で泳ぎ、日が暮れればキャンプファイヤーを囲み、
また夜が更ければ、森は深い闇を身ににまとい、湖は欲望に透き通る・・・
もちろん、オペラの演出で設定を現代にするっていうのは、いまやそんなにめずらしくはないのだけれども、
わりと表面的な“ヴィジュアル”にとどまっていることも少なくなく・・・
装飾的っていうのか・・・
ダミアーノ・ミキエレットの演出は、そういう奇をてらったものではぜんぜんなくて、むしろ、
18世紀のテクスト(オペラ台本)を深く深く読んでいったら、
自然と現代のキャンプ場に出たっていうような、そういうものすごい説得力があります。
18世紀が現代に変容した、っていうよりも、
18世紀ってさ、僕たちの時代にすごく似てるよね、っていう感じ。
マリー・アントワネット的きらきら衣装から解放されて自然にそういうことが見えてくる。
テクストを深く読み、そこから逆にこれまでの“常識”にとらわれないクリエイティブな演出を生みだしていく、
そういうダミアーノ・ミキエレットの才能もすごいんだけれど、
これは、彼ひとりでやっているというよりも、
美術・衣装担当のパオロ・ファンティンという人との共同作業の中で、
二人の持っている最良のものが具体的な形をとって出てきているのかな、という感じがします。
パンフレットによると、これまでもずっと一緒に仕事をしてきているらしいです。
舞台上には直径20mくらいの大きなジオラマみたいなのがつくってあって、
これが劇が進行するとともに回転します。
180度回転して、裏、表、というのではなく、
小刻みに止まって、そのジオラマ世界のいろいろな側面を見せてくれます。
キャンプ場とキャンピングカー、アイスクリームとか売ってるバー、それから森ですよね、それから湖・・・
そういう変化に富んだジオラマ世界が、ある意味、宇宙全体を表しているようにも見えてきます。
若者たちを取り囲んでいる、環境としての世界だけじゃなくて、
若者の心の中の宇宙っていうのか・・・
バーの上の「キャンピング・アルフォンソ」の看板が夜の中にポッと浮かび上がるのは、
たとえば、エドワード・ホッパーの都会的孤独を思わせるし、
湖を見下ろすバルテュス的な崖は官能的な危うさをはらんでいる・・・みたいな・・・
『コジ・ファン・トゥッテ』は、『フィガロの結婚』などとは違って、若者たちのグループ・コメディーなので
(その意味ではテレビのトレンディー・ドラマ的人物構成だったりします)、
だれかすごいソプラノとかひとりいれば、まあ、あとは下手でもなんとかなる・・・的なオペラではありません。
今回キャスティングされている若い歌手たちはそういう意味でもすばらしい。
(若いんだと思う。少なくとも見た感じは若く見えた・・・あっ、アルフォンソは若くない。)
フィオルディリージを歌ったソプラノが、ちょっとエンジンがなかなか温まらなくて、
はじめ、エッとか思いましたが、いったん温まるとこれもすばらしく・・・
でも、彼らの魅力は、自分たちを歌手であるだけではなくて、
ある意味それ以上に、役者なんだと認識していることなんです。
役者としてすばらしい演技をします。
歌手としても役者としても、そのパーフォーマンスの質が高い。
ミキエレットはかなり過酷な演出を役者/歌手たちに求めます。
歌手/役者たちがこの要求に若者らしく応えているところが、このオペラの大きな魅力のひとつです。
崖から転がり落ちたり(あとで聞いたら、やっぱり、傷だらけになるらしい)、
湖の中で服を濡らし髪を濡らしながらアリアを歌うとか・・・
これくらい書けば、このオペラの魅力はたぶん感じてもらえると思うんですけれども、
あと、そうですね・・・
ミキエレットがテクストを深く読んでいるっていうこと・・・
たとえば、オペラ冒頭、女子同士で、「結婚の予感・・・」みたいなことを話している場面で、
ひとりがもうひとりに「手相を見てあげる」と言う台詞があるんですけど、これを、
その時手に持ってる雑誌の占いコーナーを見てあげるという“動作”に置き換えている。
置き換えられてみれば、
キャンプしていて、女子二人で、カレシの話してるんだから、
それはいまどき、雑誌の占いに当然つながるでしょう・・・っていう具合にすごく自然。
(字幕では、「手を見る」ではなく、「星占いを見る」と出ていて、
観客は、とりあえず、これで一層自然にこの“動作”を受け入れられるのですが、
この字幕の扱いはちょっとビミョー・・・まあ、この話はまたあらためて・・・)
あと、いろいろありますが、そうですね・・・
男子たちが戦地に赴くっていう話になる場面・・・
いまこの地球上では常にどこかで戦争が起こっている。
これは現地の人が“勝手に”やってるっていうのではなくて、
いろんな意味でいわゆる「先進国」がこれにかかわっている。
アフガニスタンでは、アメリカ兵やイギリス兵が命を落としている。
日本の自衛隊だってイラクに派遣されていたりした・・・
というコンテクストがあって、「戦地に赴く」っていうことが、
18世紀的ゲームなんじゃないんだよ、すごいアクチュアルな現実と結びついてるんだよ、みたいなことが、
ミキエレットの演出からすごいストレートに感じられます。
あと、最後にひとつだけ・・・
モーツアルトのオペラって『フィガロの結婚』なんかもそうですけど、24時間の出来事ですよね。
『コジ・ファン・トゥッテ』もそう。一日の物語。
昼から夜への移行というのがドラマの中で重要な意味を持ちます。
ある意味“のうてんき”に愛とか結婚とか言っていた若者たちが、
夜の闇の中で愛と対峙して、自分の身体とか欲望とか、そういうものにも目を開いて、
大きく成長していく・・・そういう「モーツアルトの夜」っていうのか・・・
「モーツアルトの夜」をこれほどシャープに感じさせてくれる演出ってそうないと思います。
あと、もうひとつ、・・・
ミキエレットの演出では、オペラの最後で、
テクスト(台本)と芝居の劇的な“乖離”が生じます。
生じます、っていうのか、古典を演じることっていうのは、つねにテクストと実際の演技・演出に
いろんな乖離が伴うのだけれど(さっきの「星占い」とか・・・)、
ミキエレットは、その乖離をある意味逆手にとって、わざと決定的な乖離を自ら生み出していて、
それがものすごく刺激的です。
ぜひ見に行ってください。
僕が行ったときはけっこう空席がありました。
空席つくるくらいなら、学生とか、若い人たちに、安い安い料金で開放すればいいと思うんですよね。
それが若い人を育てることでしょう?
そういうのは、やっぱり、劇場側の姿勢が問われると思う・・・
こういう、すばらしい演出を実際に見てほしい。そしたら日本の芝居も変わる。
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