SSブログ

地点 『誰も、何も、どんなに巧みな物語も』 [見た芝居]

IMG_0214_edited-1.jpg「地点」の『誰も、何も、どんなに巧みな物語も』(三浦基演出)を横浜のBankART Studio NYK 3Cギャラリーというところに見に行ってきました。
先月末で、ちょっと前のことになりますが、
そのレポート。

横浜までわざわざ出かけて行った甲斐があった、というのか・・・いや、それ以上。
行ってよかった。この芝居と出会えてよかった・・・っていう、そういう感じ。

「地点」は演出家三浦基が主宰する劇団で、京都が本拠地であるらしい。
今回はコンテンポラリーダンスの山田せつ子とのコラボレーション。
「地点」に安部聡子というすばらしい女優さんがいます。
この安部聡子と山田せつ子による二人パフォーマンスでした。

テクストはジャン・ジュネ・・・というか、
ジャン・ジュネのテクストそのものではなくて、その翻訳・・・
なに言ってんの。翻訳って、あたりまえじゃん、とか言われそうなんですが、
それが、そんなにあたりまえでもなくって、むしろかなりビミョーな問題なんです、
っていうのが、三浦基/地点の活動の特長であるような気がする・・・

ジャン・ジュネは芝居も書いていますよね。
2002年に世田谷パブリックシアターで『屏風』が上演されて、衝撃だった。
フレデリック・フィスバックが演出をして、フランスから来た俳優たちと、
糸あやつりの結城座の人形たちが、一緒に芝居をしました。
こちらはジュネのテクストそのままの、原語上演字幕付き。
アルジェリアのイメージが南アフリカやジンバブエのそれと重なり、
ジュネのテクストが現代のラップとして甦った。
これって、ラップだよね。ラップってさ、これなんだよねー・・・みたいな・・・

話を戻して、今回の「地点」の公演は、ジュネの戯曲ではなく「エセー」からの抜粋・・・というか、
三浦基的には「抜粋」とは言わないんだと思うんですけど・・・むしろコラージュですね。
『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』と
『・・・・・・という奇妙な言葉』(劇場としての墓地、あるいは墓地としての劇場)、それから
『シャティーラの4時間』(虐殺されたパレスティナ人たち)という三つのテクストをコラージュ・・・
といっても、三つをぜんぶ混ぜるんではなくて、6、70分のパフォーマンスを3幕に分けて
三つのテクストをそれぞれの幕で演じる。
演じるといっても、台詞ではなくて普通の散文ですから、これをひとり芝居の台詞のように語る・・・
っていうか、やっぱり演じる。
基本的には、俳優である安部聡子さんが言葉を発するのですが、
なぜか山田せつ子さんもときどき言葉を発します。

山田さんがどういう原理・・・っていうのか、まあ、そういうものでダンスパフォーマンスを展開しているのかは、よくわかりません。テクストの「意味内容」に合わせて振り付けをしているのか、「意味内容」とは違うものによって振り付けしているのか、あるいは心の赴くままなのか、ぜんぶ即興なのか、一部即興なのか、即興なんてないのか・・・

それで、この二人が演じる、っていうかパフォームする場所なんですけど、これがすごい。
BankART Studio NYK 3Cギャラリー・・・名前だけですでにお洒落な感じがします。
これが実際“お洒落なスペース”なんです。
ニューヨークのロフトのギャラリーのヴェルニサージュとか行ったら・・・行ったことないですが・・・
まあ、行ったら、こういうスノッブな雰囲気なのかも、というようなところです。

芝居を見に来た観客も、場所のせいかみんなスノッブに見えてしまいます。
コンテンポラリーダンスっていうところがお洒落な人たちを呼び寄せたのかもしれない。
ジャン・ジュネという名前がお洒落なintelloたちを惹き付けたのかもしれない。
あるいは単に僕の気のせいかもしれない。

BankART Studio NYKは「馬車道駅」で降りて徒歩5分。
もとは倉庫だったところを現代アート空間につくり変えた。そういえば、赤レンガ倉庫も近い・・・という場所。
3Cギャラリーはものすごく広いスペースですが、昔の建築なので、天井を太い柱で支えています。
空間の中心線にぼんぼんぼんと柱が並んでいるので、ときどき役者の姿が見えなくなります。

だだっ広い空間の入口側に遠慮がちに客席を何列か並べて、
残った4分の3くらいのところが舞台になります。
役者さんが向こう側の壁にぴたっと身を寄せると、その姿は遥か遠く、
オーイと呼ぶとオーイと木霊が帰ってきそうな距離。
光と影の効果もあって、その奥行きがとても面白い(写真は柱と向こう側の壁)。

広い舞台空間を安部聡子と山田せつ子が縦横に動き回ります。
空間の中で交差もし、接触もします。けれども大抵は二人の身体は離れているので、
客席から二人を同時に視界の中にとらえることができません。
テニスの試合を見るように、右左、右左と首を動かしている人もいましたが、
それでは、見ている芝居が、なにか断片的なものになってしまうような気がしました。
どういうふうに見るのがこの芝居の“正しい”見方なのかはわかりませんが、
いずれにしても、二人の姿と、二人の動きと、それから二人の位置関係の変化を
一望するには、私たちには距離が足りないのです。

そこで、僕はひたすら安部聡子さんの姿だけを追うことにしました。
山田さんの姿は、彼女が安部さんに近づいたときだけしか僕の視界に入ってきません。
結果として、僕はほとんど山田さんを見ておらず、
従がって、ダンスパフォーマンスについてはレポートできず、
従がってまた、演劇とダンスのコラボレーションという、
この芝居のそもそものコンセプトが僕にはまったくわかっていません。
僕は安部聡子の演劇だけを見て帰ってきました。
ただし、それは安部さんの一人芝居を見てきたのとは違うような気がしています。
彼女はいつも、もうひとりの人との関係の中にいましたし、
見ている僕も、もうひとりの存在をいつも感じていました。

2008年の10月に「地点」が吉祥寺シアターで
チェーホフの『三人姉妹』と『桜の園』連続上演というのをやりました。
面白そうだったので見に行ったら面白かった、というのが「地点」を知った最初です。
『桜の園』が賞をもらったりなんかしているのですが、僕自身は『三人姉妹』の方が気に入りました。
安部聡子さんは『三人姉妹』では長女オーリガを演じていました。

「地点」の演劇はけっこう理屈っぽい感じのするものです。
演劇を「解体する」とか「脱構築する」みたいなことなんでしょうか・・・
理論的なことはいまいちよくわかりません。

『三人姉妹』の場合だと、舞台の真ん中に、こう、額縁の大きいのがあって、
三人姉妹がその額縁の中に囚われて動けない。動けないまま台詞を言います。
見てる方も、ああ、さぞ苦しかろう、と思いながら見ている。
一言で言えば、チェーホフをベケットするみたいなお芝居。
実験的と呼んでいいのかわかりませんが、実験的な様子をしています。

台詞も“自然”に言うわけではありません。イントネーションをわざと不自然にしてみたり、
読点とか、そういう文や語の切れ目ではないところでわざと切ってみたりします。
例えば、「マイクのテスト中」だったら、「マイクのテ、スト中」とか言うわけです。

今回のジュネのテクストについてもやっぱり同じようなことをしています。
どう考えても聞き苦しい・・・はずなんですが・・・これが、そうでもないんです。
理屈とかすべて無視して、ただ芝居を見ていると、いつの間にか僕は芝居に陶酔しているのです。
安部聡子に陶酔していると言ってもいい・・・

三浦基が解体しようとするテクストに・・・っていうか、三浦基がテクストを解体しようとしているのかどうかわからないんですけど・・・三浦基がなにをしようとしているのかがそもそもよくわかっていないので・・・で、まあ、三浦基がテクストを解体しようとしているんだとすれば、の話なんだけれども、
その解体されたテクストに、テクストの意味とは別の次元で、安部聡子の身体が意味を与えていく。
ぎこちない動作をするときでさえ、彼女の身体はとどこおりなく開かれ、
その身体が生み出す意味は澄みわたっている。
彼女の声がテクストのロジックを否定しようとしながら、彼女の身体がひとつのロジックを紡ぎつづけ、
演劇の時間は静謐で濃密なつながりに満たされていく。
彼女の身体に共感した僕の身体が、この混沌としたコラージュのうちに、芝居の終わりを予感し、
終わろうとする一瞬、僕の胸は熱くなり、涙が込み上げるかと錯覚する・・・

僕は『三人姉妹』の幕切れを思い出します。
最後の最後に狭い額縁の中から脱け出した安部聡子は、裸足のまま客席に進み出たのでした。
前の方の列に座っていた僕には、彼女の目に涙が浮かんでいるのが見えました。
打ち壊されたはずの『三人姉妹』の瓦礫の中で、オーリガは、破壊などなかったかのように、
「生きていきましょうよ!」と言いながら泣いているのです。
それは僕にとって軽いショックでした・・・
オーリガ/安部聡子の涙は三浦基の意図を裏切って流れた涙なのか、
その涙もまた三浦基が意図したことなのか、僕にはわかりません。

あるいは、三浦基はテクストを解体しようとしているのではなく、
テクストと役者との間に新しい関係を打ちたてようとしているのかもしれません。
解体と見えるものは、そのための方法、いわば「方法的解体」であるのかもしれません。
千のオーリガが生きた後に、千一人目のオーリガが、千一回目に「生きていきましょうよ!」と言うために、
テクストと役者の関係を一度リセットする必要があるのだということでしょうか・・・

解体しようとするにせよ、そうでないにせよ、
いま三浦基に必要なものはオーセンティックなテクストであるような気がします。
翻訳されたジャン・ジュネのテクストはジャン・ジュネのテクストではもはやなく、
ジャン・ジュネのテクストから翻訳された翻訳可能な意味内容でしかないからです。
解体すべきテクストの意味内容をあらかじめ翻訳しておいて、
翻訳という擬テクストをあらためて解体するというのはちょっとじれったい・・・
いえ、まあ、解体しようとするのであれば・・・

テクストと役者の関係をリセットするということであれば、これもやはり
テクストという身体と役者の身体との間の関係をリセットするということなんじゃないかと思います。
翻訳されたテクストはしばしばオリジナルのテクストの身体を失っています。

問題が、解体でもリセットでもなかった場合は、いまの話はなかったことに・・・

IMG_0213_edited-1.jpg今回の公演はワークインプログレスという、芝居の生成過程のひとつの局面を公開したということであるらしいです。これから芝居はいろいろと形を変えて、またこちら、今度は東京に戻ってくるようです。
(写真はBankART Studio NYK 3Cギャラリー入り口。横浜の夜景がきれい。)
コメント(0) 
共通テーマ:演劇

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。