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柴幸男 『さよなら東京』 [見た芝居]

IMG_0218_edited-1.jpgENBUゼミナールの2009年度春期演劇コース劇場公演(柴幸男クラス)を見に行ってきました。柴幸男クラスの生徒さん達の「卒業公演」みたいなものです。
場所は「笹塚ファクトリー」(写真)。

岩井秀人『武蔵小金井四谷怪談』を見に行った時にもらったチラシの束の中に、
この公演のチラシがありました。

3月に田野邦彦さん企画構成の『ブラックコーヒーとワルツ』を見ました。
池袋コミュニティカレッジというところの演劇入門コース「卒業公演」的なもので、
これが面白かった(これについては3月23日のブログ記事を見てください)。
ENBUゼミナールを知っていたわけではないのですが、
『わが星』の柴幸男さんが担当しているクラスということもあって、
こちらの「卒業公演」もきっと面白いだろうと思ったわけです。
俳優、あるいはより広く、演劇人の養成とか教育というものにも興味がありました。

面白かった。でも・・・
5月の1日と2日だけの公演なので、もう終わっています。
ぜひ見に行って、とお薦めできないのが残念です。
(もっと早くレポート書けよ、ってことなんですけど・・・)

『さよなら東京』の台本は柴幸男さんが、この公演のために書き下ろしたものです。
柴さんは10年ほど前に劇作家になることを夢見て東京に出てきました。
家を離れ、土地を離れ、
未来への夢を抱えて東京行きの列車に乗った・・・
そして、時間は過ぎ、彼はいま東京を離れようとしている・・・

その自分の10年前の姿が、彼の指導している生徒たちの姿に重なって見えてくる・・・
彼らの夢。そして、彼らの・・・
彼らはまだ夢しか知らないのかもしれない・・・

『さよなら東京』は、そうした若者たちへの共感から生まれた作品です。
(と言っても、柴さん自身がぜんぜん若者で、生徒さんの中には彼よりも年上がいたりするので、現実の時間はけっこうねじれている。)

『さよなら東京』は、少なくともこの公演では、東京に別れを告げることよりも、
むしろ、東京に出て来ることをテーマにした作品であるように思えました。

夢を見て東京に出る・・・一見古びたテーマのようですが、これが、
柴幸男のリズムとムーヴメントの中で「音楽的」に展開され、すごく新鮮です。
いや実は、これはコンテンポラリーなテーマなのだけれど、
コンテンポラリーに展開できる人がいなかったので、
古びたテーマだと思われていたんだよ、っていう感じ。

「音楽的」に展開・・・っていうのは比喩的な意味です。
テクストが必ずしも“リアル”なロジックで組み立てられていない、というか、
芝居の展開が、時系列的にすっきりとまとめられるようなあらすじを持っていない、
というのか・・・

例えば、音楽だと、
モチーフを和声的に重ねるだとか、変奏するだとか、転調するだとか、
そういうものがありますよね。で、なんかそういうふうに、
この芝居は“リアル”というよりは“テクニカル”に組み立てられている。

例えば・・・

この芝居の物語的時間はめまぐるしく飛びます。
現在から未来へ、未来から現在へ、そして未来へ、また未来へ、そして過去へ・・・
やがてどれが現在なのかわからなくなる。
そのすべてが現在なのかもしれない・・・
あるいは、そのすべてが夢なのかもしれない・・・

彼女は東京行き「のぞみエクスプレス」の9号車5Bに座っている。
(柴幸男の世界では、主人公はなぜかいつも女子です。)
彼女は山手線に乗っている。
山手線がぐるぐる回っている(『わが星』にも出てきたモチーフ)。
彼女は学校の食堂で友人と話している。
彼女は合コンで自己紹介をしている。
彼女はアルバイトをしながら演劇をつづけている。
彼女は東京を離れようとしている。
彼女は故郷の無人駅で列車を待っている。
彼女はいつの間にか眠っている。
彼女は夢を抱いて東京に出ようとしている。
彼女が乗った列車は東京から離れていく・・・

柴幸男の作劇術は、前の台詞の「言葉尻」をとらえるようにして、
芝居を「転調」していきます(その意味では、とてもマリヴォー的)。

例えば・・・
「・・・行った」という台詞があると、それを「言ってない」と受けることで、
そこから別シークエンスに入る。
「・・・一人暮らし」という言葉があると、「ひぐらし」という言葉がこれを受け、
受けた途端に蝉(ひぐらし)が鳴きはじめて、
未来のこととして語られていた「一人暮らし」が、現在進行形に変わる。
手相占いに問い返す「感情線?」という台詞が
「環状線」という言葉に置き換えられて、いきなり山手線がぐるぐる回りはじめる。

「転調」によって、
芝居のリズムとムーヴメントはスムーズにつながっていくんだけれど、
物語の論理的で自然な展開とか自然な時間の流れとかいうレベルでは、
引き裂かれるような不連続性をともなってシークエンスが次々と連鎖していく。
不連続に連続していくわけです。

テーマが「音楽的」に展開される、って僕が言っているのは、こういう意味です。

比喩的じゃなくて、文字通りの音楽、っていうことでは、
「木綿のハンカチーフ」とか「なごり雪」とか・・・
そういう昭和の歌が音響としていろいろ使われています。
そうか、「東京に出る」っていうことは
こんなにも大きな昭和的テーマだったんだ、と実感します。
けれども、昭和の歌がこの芝居をノスタルジックな場所へ連れ帰るというのではなくて、
昔の歌がむしろリミックスされていまの時代に同化した、という感じ。
べつに本当に音楽的にリミックスされてるとかではないんだけれど、
演劇的にリミックスされた、って言えばいいのか・・・

結局、地方にいたって仕事ないじゃん、っていうのはノスタルジックどころか、
むちゃくちゃアクチュアルな問題なわけだし・・・
柴クラスの生徒さんは11人。この11人が、なにもない舞台空間の上で、
ただ11脚の椅子だけを使ってさまざまな場面を演じます。

流れるような動きをつくりながら、椅子をさまざまなフォーメーションに並べ替えます。
新幹線の車内、ローカル線の車内、無人駅の待合室、山手線のホーム、
学食、居酒屋、不動産屋、そしていろんな部屋・・・あらゆる空間に椅子があります。

そして、いつも空間の中心にいるのは主人公の希(のぞみ)。
彼女が世界の中心で、世界が、人々が、彼女を中心にしてぐるぐる回る・・・
っていうのは、やっぱり『わが星』を思い出させますけど、
「笹塚ファクトリー」は空間的に狭いので、
役者たちには、なかなかはっきりとした円運動は描けません。

左右に別れてコーラスのように並んだり、そこから二人、一人と出てきて、
母親や父親になったり、お姉ちゃんになったり、友達になったり、恋人になったり、
車掌になったり、駅員になったりします。

コーラスのフォーメーションになった時は、
コーラスのようにユニゾンで台詞を言います。
あるいは、二つとかのパートに別れることもあります。
歌を歌うのではなくて、台詞を言うわけなので、ハモったりはしません。
パートに別れるというのは、言う台詞がパートで違うということです。
パートに別れた小グループはやはりユニゾンで台詞を言います。

このコーラス・・・
ある時は世間の声、まあ、ギリシャ悲劇(?)みたいな・・・
世間の常識的な考え方とか、分別ある思考とか、たいていは主人公を批判します。
あなた、そんな甘い考えでどうするの的な・・・
まあ、これは、お父さんやお母さんの声とも言える。

このコーラスは、また、
主人公希の内面を語ったりもします。独白とか傍白の役割です。
面白いのは、希の内面と世間の声が区別つかなかったりするところ。
自分の夢とか欲求とか、自己実現(?)とか、そういうものに敵対する声が、
主人公の内面から響いてくるわけです。
世間の常識とか、分別とかを、希ちゃんが完璧に内面化して、自己批判する。
面白い手法ですよね。

自分のしたいことと、それを阻止しようとする家族/世間っていう、
「善悪二元論」ではなくて、人間ってもっと複雑なわけです。
自分で自分を抑圧してしまったりする。
そういうところを、コーラスを使うことで、芝居の流れるリズムに、
すうっと乗せていける。

『さよなら東京』は柴幸男さんの「作・演出」です。
『ブラックコーヒーとワルツ』の田野邦彦さんの
「企画・構成」というスタンスとはずいぶん違います。
田野さんの台本は、生徒たちとのやり取りの中で生み出されたものでした。
『ブラックコーヒーとワルツ』では、従って、生徒たちはみな「自分」という役を
役者として演じていました。少なくとも僕にはそう感じられました。
『さよなら東京』では、生徒たちが演じていたのは、自分自身ではありません。

『さよなら東京』は、柴幸男の生徒たちへの深い共感から生まれました。
10年前の私はきみたちにとてもよく似ていた・・・

しかし、生徒たちは10年後の柴幸男に共感することができないのです。
あなたはなぜ東京への訣別をこの芝居のタイトルにしたのですか?

共感することができないのは、共感してはいけないから・・・

私たちは、いま、この舞台の上で、
芝居をつくるために東京に出てきた私たちを演じているのではないのですか?
私たちはその役を演じ切らなければならないはずです。
東京に別れを告げることは、私たちがいまここで芝居をしているというまさにそのことと
決定的に矛盾するではありませんか?

あなたが私たちに演じさせようとしているのは、やがて来たるべき私たちの失望と挫折なのですか?
あなたは私たちの暗い未来の予言者なのですか?

共感と拒絶。
ペシミズムとオプティミズム。
東京というひとつの点と、相反する二つのベクトル。
『東京物語』、『東京ノート』、そして『さよなら東京』。

柴幸男の『東京物語』は上演時間45分。
悲劇的なまでのテンションが観客を感動させます。

写真は公演後のアフタートークです。IMG_0221_edited-1.jpg



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