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「サンプル」 の 『あの人の世界』 [見た芝居]

09-11-08_003.jpgいま、「フェスティヴァル・トーキョー」、略してF/Tという演劇祭が開かれています。そのプログラムのひとつ、「サンプル」の『あの人の世界』(作・演出:松井周)を、池袋の芸術劇場小ホール1に見に行ってきました。(写真は芸術劇場の入り口にあったF/Tのマーク)

僕としては、見終わった時点ではビミョーな感じだったのですが、振り返ってみれば魅力的なシーンも少なくなかったような気もします。その僕なりのレポート・・・

松井周という人は「青年団」出身の劇作家・演出家で、平田演劇の世界とはまた違った方向にその演劇活動を展開する新世代のひとりらしいです。なので、俳優さんたちもアゴラ劇場で見かける人たちがたくさん出ています。

「青年団」系新世代というと、最近、柴幸男『わが星』を見て、その強烈な記憶が残っているので、なにか自然と比較して見てしまうのですけれど、
『わが星』が計算されたリズムとムーヴメントの中に展開されていたとすると、
『あの人の世界』は美しい静止画で組み立てられた世界という印象です。

多用な要素をわっと放り込んであるので、舞台はちょっとカオス的な感じにも見えるのですが、
また、役者たちは舞台上を派手に動き回り、大声で叫んだりもするのですが、
芝居を小さなセクションに区切って見れば、セクションの中ではいつもどこかで、
とても美しい図柄が出来上がっている。
これをひとつずつ写真にとって並べれば、きっと魅力的なアルバムが出来上がるに違いない。
もちろん芝居だから、完全な静止画ではなくて・・・
デジカメだと10秒とか20秒の動画が取れるから、むしろそっちの方だろうか。
台詞と動きがついて、歌舞伎の「ミエ」みたいにそこでいったん静止するわけではないけれど、
ああ、きれいにまとまった、ああ、またきれいにまとまった、っていう、
そういうシーンがつぎつぎとつくられているのです。

どのような要素が、そういう美しい図柄を舞台上につくるのかというと・・・

チラシには散らかった室内の写真とかが載っていますが、チラシの写真はすべてなぜか『あの人の世界』とはまったく関係のない、たぶんぜんぜん別の芝居らしい。

『あの人の世界』の舞台は2層構造になっています。
上の層は、客席から見上げるくらいの高さに、渡り廊下風の空間が舞台を横切っている。
そこでペットの犬が死んで以来うまくいかなくなった夫婦が食卓を挟んで、
そのいかにもうまくいってない感じのやり取りをします。
犬が死んで以来うまくいかなくなった・・・は台詞の中に出て来ます。
いや、どう見ても、犬が死ぬ前から君たちうまくいってなかったでしょう、っていう夫婦なんですけど・・・

食卓・・・新世代の演劇に、食卓はやっぱり必須アイテムなのでしょうか?

あっ、芝居のプロローグ部分では、まだ食卓ではなくて、墓地のシーンです。
夫婦は客席側を見て手を合わせたりするので、
ここでは観客が死んだペットとして、芝居の片棒を担がされます。
僕はいきなりだったので、死んだペットを演じ切れませんでした。

で、2重になった下の層では、ペットつながりで、いろんな「動物」が登場します。
「動物」といってもそれぞれ犬やウサギの耳をつけた人間・・・なのか、
擬人化された動物なのか・・・あるいは、同時に人間で動物なのか・・・
いずれにしても、イメージ的には、松本大洋の『鉄コン筋クリート』(漫画です)、
あれは「鳥人間」ですけど、まあ、ああいう感じ。

その「動物人間」が、時には、ホームレスに展開したり、
ダンスに青春を賭ける若者になったり、
実験動物になったり、捨てられたり殺されたり・・・
(上に不仲の夫婦がいて、下に「動物人間」がいるから、ちょっと『真夏の夜の夢』的な感じもする。)


あと、例えば、ベケットからのパクリが、きれいにバリエーションされてこれに加わったりします。
『ゴドー』のポッツォとラッキー。これを女性二人の姿に置き換え(嫁と姑らしい)、
紐でつながっているところを、やはりペットつながりで、犬と犬を散歩させる人間のイメージに重ねる。
途中、ワークショップ的に、じゃあいまから人間とペットの役割を入れ替えましょう、みたいなこともあって面白い。

というように、舞台上にはつぎつぎときれいな図柄が展開していきます。
図柄は、ただし、昭和的イメージに展開することはなくて、食卓の存在を思うと、これはむしろ興味深い。
昭和を振り返らないのは、たぶん、過去との決別みたいなものがテーマとして
芝居を支配しているからであるような気がします。

芝居は、もともと、ペットの死を受け入れられない夫婦の話として始まります。
いわゆる「喪」の問題っていうんですか?・・・過去を清算して現在や未来に生きることができない。
その反対に、過去を捨ててホームレスとして生きる若者たちがいる。
それから、超若年性認知症の青年がいる。過ぎたことは覚えていられない。
彼の場合、過去との決別は自ら選んだものではなく・・・
記憶の衰弱は、また、ベケット的モチーフとして展開されているのかもしれない・・・

この他に、ホームレスの元締め兼セラピスト兼ミュージカル作者みたいな男が出てくるんですけど、この役どころはよくわかりませんでした。
暴力的であることくらいしかわからなかった・・・
なので、この登場人物にあまり魅力を感じなかった・・・(ひょっとして、それが君の限界とか言われる?)

というわけで、ビジュアル的にもテーマ的にも面白いんだけど、
演劇のつくりが、僕には少し「記号的」に過ぎる感じがして・・・

うまくいかなくなった夫婦っていうのはもうそこいら中にいて、
そこいら中にいるんだから、もういいでしょう・・・的な提示に思える。
うまくいかなくなった夫婦がひとつの記号としてそこにある感じ。
うまくいかなくなった夫婦っていう記号・・・
夫婦の会話は、「相手のディスクールを否定するディスクールを繰り出すこと」っていうゲームのルールから生み出されているように感じられてしまう。
彼らの身体から生み出されるものではなく・・・

ものすごいダンスを踊る伝説のホームレス・ダンス・グループがいる、っていう話なのなら、
やっぱり、おっ、すごい、っていうダンス・パフォーマンスが見たいわけです。
それがないと、伝説のダンサーっていう記号がそこにあるだけっていう感じがする。
ウサギの人が2本のスプーンでリズムを刻むところが、おっと思わせるくらいで・・・

コンテンポラリーなさまざまな記号のコラージュっていうのがこの芝居なのかな?
それならそれでいいんだけど・・・

でも、演劇って記号の対極にあるような気がするんです。

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