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マリヴォー 『奴隷の島』 5 [マリヴォー]

「時間堂」の『奴隷の島』(黒澤世莉演出)が11月3日で2週間の公演を終えました(公演名は”smallworld’send”)。
おつかれさまー。
で、その最終日に再び見に行ってきました。
1週間前とはずいぶん変わっていた。えっ、こんなに変わるのか?

テンションとエネルギーが怒涛のように75分を駆け抜けていった・・・

最後のステージが終わった時、僕は、幕切れのトリヴェリーノと同じ台詞を5人の役者さんたちにむかって言いたい気持ちでした。
ああ、あなた方は本当にすばらしい若者たちだ・・・

「あなた方はすばらしい若者たちだ」と言う者は、もちろん若者ではありません。
・・・・・

奴隷の島のトリヴェリーノは絶対的権力システムを象徴する「賢人たち」のひとりです。
ある日、この島に流れ着いた4人の若者たちは、そこで奴隷の島という「ユートピア」の不条理を生きはじめることになる・・・

黒澤世莉はトリヴェリーノを5人目の若者だと考えました。
それが、「時間堂」の『奴隷の島』の驚くべき魅力であり、大きな問題点でした。

若者となったトリヴェリーノは、もはや冷酷で圧倒的な権力システムを象徴することができず、
彼と同世代の4人の異国の若者たちを、
ただ自らの不安定で傷つきやすい熱情によって説得するしかなくなったのです。

権力システムの姿が曖昧なものになっても、奴隷の島という不条理な状況は、
ゲームのルールとして、あいかわらずそこに存在しつづけている。
5人の若者によって繰り広げられるコメディーは魅力的で面白い。
けれど、劇のロジックはやがて破綻せざるを得ず、その不透明性が一気に露呈することになる・・・
と思われたのですが・・・

芝居が終わってみれば、破綻など目にとまらず、一列に並んで観客に挨拶する5人の若者たちの肩越しに、いとも爽やかな風が吹きぬけてゆくのです。

そう、この演出でよかったんだよ・・・

このスピードとテンポとテンションと、そしてこの「若さ」ならば、
台本はもう少しすっきりしたものに修正できるはず・・・と、
この古典喜劇の訳者である僕は考えはじめました。

なぜならば、たぶん多くの人が考えていることとは裏腹に、
翻訳とは、望むと望まざるとにかかわらず、すでにひとつの演出だからです。

マリヴォーの原作はもちろんフランス語で書かれています。
原作は、古典劇の名に恥じない、豊饒さ、奥深さ、多面性、現代性、あるいはむしろ、
いつの時代においても現代的であるという意味での「同時代性」を宿している。
そこには限りない可能性がある。
才能ある演出家たちが、シーズンごとに、その同じ原作をもとに、鮮烈で「現代的」な芝居をつくりあげ、
つぎつぎとマリヴォー像を描きかえていく・・・

翻訳は、そうした原作のポテンシャルなすべてをそのまま日本語に移せるような性格のものではありません。
ニュートラルなものではありえないのです。
翻訳者は原作のもつ可能性の「ひとつ」を選択しなければならない。
その選択は「演出」という言葉で呼ぶのがふさわしいようなものだと、僕は考えます。
翻訳者は、原作のもつ無限の可能性を失うという自らの「宿命」を引き受けなければならない。
「失墜者」として、ひとつの「演出」を選ばなければならない。
(僕はいま翻訳の話をしています。これは翻案とは全く関係ありません。)

黒澤世莉さんの演出と僕の「演出」との間にビミョーな違和感があったのは確かです。
僕の翻訳は、観客が笑うのを待っているからです。
僕の言葉たちは、黒澤演出のスピードの中で時に幾分か鈍重に響くかもしれない・・・

例えばフランス古典演劇の場合、あるいはもっと一般的に、翻訳劇の場合、
芝居作りは翻訳台本作りから始めるのが理想なのだと思います。
翻訳されたものを好きなように作り変えるという意味ではありません。
原作を翻訳する(翻案ではなく)という可能性の限界の中で(そして、その可能性の限界というのは水平線のごとく遥かに広がっているはずです)、
演出家の演出と翻訳家の「演出」との違和感をできるだけゼロに近付けるということです。

翻訳は演劇とともに生成しつづけるものでなければならない。

「時間堂」のブログに紹介された観客の公演アンケートに、とても印象的なものがありました。
『奴隷の島』の原作は読んだことがないのですが、もともと喜劇なのですか?というものです。
この感想は、たぶん二つの大きな問題を含んでいると思います。

ひとつは、アドリブの問題です。

黒澤演出では、役者同士の「つっこみ」が効果的に使われています。
この「つっこみ」はアドリブで、もちろん原作にはないものです。
原作にないものだということは、見ている観客にも容易にわかります。
そして、アドリブの存在が、この公演の、対原作的な意味での「信頼性」を、観客に疑わせている。

面白かったんだけど、これは原作とは違うんですよね?・・・

アドリブは大きな問題です。僕自身、この問題をきちんと把握はしていません。
けれど、例えばこんなことを考えています。

ごく一般的なイメージとしていえば、18世紀(マリヴォーは18世紀の喜劇作家)は
バロック的な時代です。さらに乱暴にいえば即興の時代・・・
さらに強引に、バロック音楽に話を飛ばせば、当時の演奏者は誰も楽譜通りには演奏していなかった。
即興にこそ彼らの資質が問われたわけです。

もちろん、だからといって、マリヴォーが、台詞のレベルで役者のアドリブをおおいに奨励したということにはならない。むしろその反対だろうとは思います。
けれど、以前の記事(「ストレーレルの『奴隷の島』」)で紹介した
「イタリア人劇団」(マリヴォー劇を上演していた演劇集団)は、
もともとアドリブ・ベースの劇団です。
アドリブというか、即興・・・

即興といっても、その場ですべてをこしらえるというのではなく、いまのジャズの即興のようなあり方です。
コード進行が決まっていて、アドリブ・パートでも、それぞれのミュージシャンに「手持ち」みたいなものがあり、そこからアドリブを展開する。
昔のレコードがCD化されると、ボーナストラックがついていて、
よく知られた演奏の別テイクが聞けたりする。
即興だから、もちろん違っているんだけれども、でもかなり似ている・・・

あるいはサッカーの「即興性」をイメージしてもいい。
だれも段取りに従って動いているわけではないけれど、ボールがこんなふうに展開すれば、
選手たちもこんなふうに動くということはあって、
その「こんなふうに動く」ことを繰り返しているうちに、成功するとゴールになる。
その動きは即興的なのだけれど、
ゴールした時には完璧に計算された動きだったと思える・・・

で、台詞レベルではともかく、演劇全体としてみれば、
「イタリア人劇団」によるマリヴォー劇は、彼らの身体のうちにしみ込んだ「即興性」に充ち溢れていたに違いないと僕は想像します。
ストレーレルが彼の『奴隷の島』によって再生したマリヴォーの「身体性」とは
またマリヴォーの「即興性」のことでもあるわけです。

マリヴォー劇のような18世紀喜劇に即興性を導入することは重要なことだと思います。
少なくとも、重要な選択肢のひとつです。
僕は、僕の翻訳の中にアドリブを導入することで、即興性を促そうとしています。
実際の上演ではカスタマイズされることを前提としたいわばデフォールトのアドリブです。
それに「宝塚みたいに」(僕が付け加えました)のようなアドリブは、アドリブであることが明らかで、この喜劇の場合、「原作をそこなったり」「原作をゆがめたり」するとは、僕は考えていません。
歌舞伎ですら、喜劇的なものについてはこのような演出があるくらいですから。

僕の選択にはもちろん議論の余地がおおいにあるでしょう。
けれども、アドリブの存在によって、公演の対原作的な「信頼性」に疑問をいだくという、
そういう思考習慣にもおおいに問題はあると思うのです。

さて、ひとつ目の問題が長くなってしまって、
問題が二つあったことが忘れられてしまったかもしれませんが、二つ目の問題です。

二つ目の問題は「原作」の問題です。
これは数行で済みます。

アドリブが、対原作的な「信頼性」を疑わせることになるのは、
アドリブのような「雑音」をきれいに取り去ったところに、
ピュアな原作の姿が現れるだろうという考え方です。
けれども、それが翻訳である限り、ピュアな原作の姿などどこにも見つかりはしないのです。

マリヴォーの場合、フランス語で書かれたいわゆる「原文」が原作です。
古典劇においては、あるいは翻訳劇においては、
どのように権威ある翻訳であろうと、翻訳に「原作」の名を詐称させてはならないのです。
どのように権威ある翻訳であろうと、それに「原作」のもつ「権威」をあたえてはならない。

翻訳とはあくまでも生成しつづけるものでなければならないからです。

最後まで読んでくださった方、どうもありがとう。

長くてごめんなさい。

09-11-03_004.jpgで、写真は最終公演が終わったあとの王子スタジオ1。
ちょっとさみしい。

またカメラを忘れたので、携帯で撮りました。
それで、なにか一層さみしい写真になりました。

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