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クロディーヌ・ガレア 『ほとりで』 [見た芝居]

去年の暮れに「紛争地域から生まれた演劇4」というリーディング公演を見ました。

「紛争地域から生まれた演劇」は
国際演劇協会というところがやっている演劇シリーズで、
以前、このブログで紹介した『ヴェールを纏った女たち』(2011/8/29)が
シリーズ「その2」でした。今回は「その4」。

世界の紛争地域、あるいはその”周辺”で、
いま生まれているコンテンポラリーな演劇・・・
それをすぐに日本語に翻訳し、リーディングという形式で
日本の観客にアクチュアルに紹介する。

リーディング形式でやるという選択も、“新しく”て面白いし、
「紛争地域・・・」という、ひとつ”違う”視点で
いろんな人たちがコラボレーションするのも面白い。

それで、シリーズ「その4」なんですけど、
ぜんぶで3つのリーディング公演がありました。
その中の『ほとりで』という公演がすばらしかったのです。
ブログで紹介しよう、しようと思いつつ、

光陰矢の如し・・・

大変に時期遅れの公演レポート。
2012年12月23日、東京芸術劇場アトリエイーストでの公演です。


『ほとりで』(Au bord) は、クロディーヌ・ガレア(Claudine Galea)というフランスの作家の作品・・・フランスで活動するフランス語作家・・・チラシによると、彼女は、アルジェリア人の父とモロッコ人の母の間にマルタ島で生まれフランスで成長した、そうです。

イラクのアブグレイブ収容所で撮られた有名な捕虜虐待の写真・・・
裸のイラク人男性捕虜につけられた首輪と、
首輪から伸びる紐と、
紐の端を持つアメリカ軍女性兵士と、
その少女のような面差し・・・

『ほとりで』は、この一枚の写真をめぐって繰り広げられるモノローグ劇です。
主人公/語り手(唯一の登場人物)はフランスの女性・・・っていうか、
フランスに住んでる(たぶん)フランス語を母国語として話す女性・・・
バイリンガルの場合は両方とも“母国語”と呼ぶとして・・・

ダイレクトに「紛争地域から生まれた演劇」ではないんだけど、
“紛争地域から生まれたひとつのイメージ”をめぐる演劇・・・

センセーショナルな写真とともに捕虜虐待が発覚したのが2004年。
2005年に『ほとりで』のファースト・バージョンが書かれ、

ファースト・バージョンをベースに
リーディングや舞台パフォーマンスが繰り返され、
そこから、さまざまなリアクションが生まれ、
リアクションがまたリアクションを生み、
2010年に最終バージョンが本として出版されました。
2011年の「劇作大賞」というのを受賞しています。


虐待の写真があって、
そのイメージが言葉を呼び起こし、
主人公を否応なく“語り手”へと変えていく・・・

虐待のイメージ自体は、“イラク戦争”という、より大きなフレームの中に
位置づけられるべき場所を持っている。
政治的背景があり、歴史的なコンテクストがある。
“戦争”をめぐる議論があり、虐待をめぐる議論がある。
けれども、主人公をモノローグに駆り立てるのは、
そういう“左脳的”側面でのリアクションではなくて・・・

“右脳的”っていうんでもないんだけど、
なにか、こう、もっと“身体的”なリアクション・・・

女性兵士が他者(この場合男性)の身体に対して振るう暴力・・・
その暴力性が“同じく”女性である主人公の身体の中で共鳴しはじめる。
共鳴する自分の身体に耳を傾ける“語り手”は、
聞こえてくる振動のひとつひとつを言葉にして語り出す・・・

“わたし”の身体と“他者“の身体の関係のすべてが言葉になることを求め、
“わたし”は、自分の身体の中で起こっていることを、そこで、
“わたし”の前にいて“わたし”の言葉を聞いている
陪審員にも似た観客たちの前で、さらけ出さなければならない。
語ることによってしか生き延びることができないとでもいうかのように、
容赦もなく・・・

“わたし”の身体と“他者“の身体の関係のすべて・・・
それは、例えば、“わたし”の身体に宿る暴力性のこと。
虐待の加害者であり得ること。
それは、また、例えば、“わたし”のセクシャリティのこと。
“わたし”がレズビアンであること・・・
そして、“わたし”の父親のこと・・・

このモノローグ・ドラマでは、従って、語られる言葉はとても“身体的”なものです。
というか、そこでは、身体は、身体の動きではなく、
言葉のうちに言葉として具現します。
その意味では、リーディングという形式が、演劇的にも最良の選択かもしれない・・・


さあ、これを、佐藤康訳、深寅芥演出で、宮地成子という女優さんが演じました。
この宮地成子さんがすばらしい。
宮地さんひとりがすばらしい訳ではなくて、
もちろんコラボレーションがすばらしいんです。
アフター・トークによると、
翻訳者と演出家と女優さんが濃密なディスカッションを重ねながら
最終的な形をつくり上げた。
そういう制作プロセスのあり方もすばらしい。
けれど、“演劇って結局最終的なパフォーマンス次第”という意味では、
やはり宮地さんがすばらしい。

紛争地域・・・
私たちになじみのない地域からやってきたなじみのない演劇、演劇言語・・・
そういう未知の演劇を、私たちの知っているものに還元しようとせず、
未知のもののために、それにふさわしい新たな演劇言語を、真摯に、謙虚に模索する。
そういうコラボレーション/ディスカッションが、
宮地成子のパフォーマンスを感動的なものにいていた・・・

どう演じたらよいのかよくわからないんですけど・・・という、
いわば“左脳的”戸惑いの中で、
しかし、彼女は彼女の身体をその未知のテクストに向かって開きつづけることをやめない。
役者の身体がテクストの身体をしなやかに身に纏う・・・

リーディング公演ですが、視覚的にも、
シンプルで効果的な舞台演出がなされていました。
バックにスクリーンがあって、そこに問題の写真が映し出されます。
面白いのは、モノローグを3つのシーンに分け、
それぞれのシーンに舞台上の3つの“不連続”なセクションを割り当て、
役者はシーンの切れ目で“こちら”から“そちら”へ、
見えない仕切りを超えて移動します。
椅子とか机とか、ミニマルな小道具も用意されていて、
リーディングの基本ポーズも変わり、
3幕構成のミニチュア版が出来上がる・・・とてもいいです・・・

2日だけの公演で終わらせるのはつくづくもったいないと思いました。
たくさんの人たちに見てもらいたい。





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