マリヴォー『奴隷の島』2 [マリヴォー]
10月21日から、王子駅のすぐ近く、王子スタジオ1というところで、マリヴォーの『奴隷の島』が上演されます。
「時間堂」の黒澤世莉さんが、僕の訳した『奴隷の島』に興味を持ってくれて、
「スモールワールズエンド」(「小さな世界の果て」という意味なのかな?)という公演の中で上演してもらえることになったのです。
「スモールワールズエンド」は、『奴隷の島』のほかに、
岸田國士の『かんしゃく玉』
チェーホフの『熊』
ハロルド・ピンターの『工場でのもめごと』
アゴタ・クリストフの『星々を恐れよ』
という、比較的短いお芝居からものすごく短いお芝居まで、
全部で5つの作品を集めて上演するという面白い公演です。
短い芝居ですが、全部集まると3時間ぐらいにはなるのかな、
途中2回ほど休憩をはさんで、まあ4時間がかり?
日によって、上演順が逆転します。
『奴隷の島』は最初か最後になるみたいなので、これだけはぜひ見に来てください。
で、見に来たら、ほかの芝居もぜひ見て帰ってください。
「練習しているところ見学したいのですけど」と、黒澤さんに言ったら、
「ああ、いいですよ」と言ってくれたので、
昨日、練習場の王子スタジオ1(公演会場と同じ)に見に行ってきました。
写真は、その王子スタジオ。ご覧のようにガラス張りで外から練習風景が見えます。
練習中もいろんな人が集まってきて、ガラスの外から中をのぞきます。
立ち止まったまま動かなくなる人もいます。
お芝居をつくっていくプロセスそれ自体が、すでに芝居になっているんだ・・・
とても面白いと思いました。
僕は、ガラスの中に入れてもらって、練習を見物してきました。
マリヴォーの翻訳をはじめて以来、芝居が実際にどんなふうに出来上がっていくのかをぜひ見てみたいと思っていました。
翻訳するときは、言葉のうちに常に身体を感じようとしています。
フランス語を日本語に移すのではなく、フランス語のうちにある身体を、
そっくりそのまま日本語のうちに再現したい・・・
まあ、たとえば、そんなことを考えながら訳しています。
でも、僕の訳した言葉(身体)たちが、実際の役者さんたちの、
実際の身体から発せられているのを見ると、それは本当に大きな感動です。
いま目の前でお芝居がつくられている。
お芝居はいまつくられていくプロセスの中にある。
繰り返されるたびにそれは姿を変え形を変えていく。
そしてその生成と変容が、いつも、まぎれもなく人間の身体を持ってそこに存在すること。
芝居が未完成であることなんてどうでもよいとさえ思えてくる。
ここで、僕のいるこの場所で、いま、まさしく演劇というものが息づいているのだから・・・
翻訳するとき、僕はテクストの中にあるすべての言葉に意味があると信じながら訳している。
無駄な言葉はひとつとしてないはずなのだから、
ひとつ残らず、すべての言葉を、その言葉がもつべき意味によって、意味づけようとして訳している。
意味づけるという行為は、言葉にいやおうなくある方向性をあたえ、
その結果、翻訳とは、逃れようもなくひとつの演出になるのだ、
いや、演出にならなければならないのだ、と思って訳している。
役者たちの身体は、僕の意味づけをことごとく裏切っていく。
いま、言葉はすべて、僕の頭からではなく役者たちの身体から生まれるのだから、
新しい身体を獲得したのだから、
その裏切りは、ああ、なんと心地よいものなのだ、と僕は思う・・・
黒澤世莉さんの演出はとてもみずみずしい。
僕が最初に見た黒澤さんの芝居は、チェーホフの『三人姉妹』。
なんと、みずみずしいチェーホフなのか、と思った。
いま、日本で、こんなにみずみずしいチェーホフが可能なのかと思った。
可能であるであるという事実に驚きました。
その黒澤さんがマリヴォーをやってくれます。
これはきっと素晴らしいものになるに違いない。
多くの人にマリヴォーの面白さと素晴らしさを発見してもらえるに違いない。
みなさん、ぜひ、ぜひ、見に行ってください!
「時間堂」の黒澤世莉さんが、僕の訳した『奴隷の島』に興味を持ってくれて、
「スモールワールズエンド」(「小さな世界の果て」という意味なのかな?)という公演の中で上演してもらえることになったのです。
「スモールワールズエンド」は、『奴隷の島』のほかに、
岸田國士の『かんしゃく玉』
チェーホフの『熊』
ハロルド・ピンターの『工場でのもめごと』
アゴタ・クリストフの『星々を恐れよ』
という、比較的短いお芝居からものすごく短いお芝居まで、
全部で5つの作品を集めて上演するという面白い公演です。
短い芝居ですが、全部集まると3時間ぐらいにはなるのかな、
途中2回ほど休憩をはさんで、まあ4時間がかり?
日によって、上演順が逆転します。
『奴隷の島』は最初か最後になるみたいなので、これだけはぜひ見に来てください。
で、見に来たら、ほかの芝居もぜひ見て帰ってください。
「練習しているところ見学したいのですけど」と、黒澤さんに言ったら、
「ああ、いいですよ」と言ってくれたので、
昨日、練習場の王子スタジオ1(公演会場と同じ)に見に行ってきました。
写真は、その王子スタジオ。ご覧のようにガラス張りで外から練習風景が見えます。
練習中もいろんな人が集まってきて、ガラスの外から中をのぞきます。
立ち止まったまま動かなくなる人もいます。
お芝居をつくっていくプロセスそれ自体が、すでに芝居になっているんだ・・・
とても面白いと思いました。
僕は、ガラスの中に入れてもらって、練習を見物してきました。
マリヴォーの翻訳をはじめて以来、芝居が実際にどんなふうに出来上がっていくのかをぜひ見てみたいと思っていました。
翻訳するときは、言葉のうちに常に身体を感じようとしています。
フランス語を日本語に移すのではなく、フランス語のうちにある身体を、
そっくりそのまま日本語のうちに再現したい・・・
まあ、たとえば、そんなことを考えながら訳しています。
でも、僕の訳した言葉(身体)たちが、実際の役者さんたちの、
実際の身体から発せられているのを見ると、それは本当に大きな感動です。
いま目の前でお芝居がつくられている。
お芝居はいまつくられていくプロセスの中にある。
繰り返されるたびにそれは姿を変え形を変えていく。
そしてその生成と変容が、いつも、まぎれもなく人間の身体を持ってそこに存在すること。
芝居が未完成であることなんてどうでもよいとさえ思えてくる。
ここで、僕のいるこの場所で、いま、まさしく演劇というものが息づいているのだから・・・
翻訳するとき、僕はテクストの中にあるすべての言葉に意味があると信じながら訳している。
無駄な言葉はひとつとしてないはずなのだから、
ひとつ残らず、すべての言葉を、その言葉がもつべき意味によって、意味づけようとして訳している。
意味づけるという行為は、言葉にいやおうなくある方向性をあたえ、
その結果、翻訳とは、逃れようもなくひとつの演出になるのだ、
いや、演出にならなければならないのだ、と思って訳している。
役者たちの身体は、僕の意味づけをことごとく裏切っていく。
いま、言葉はすべて、僕の頭からではなく役者たちの身体から生まれるのだから、
新しい身体を獲得したのだから、
その裏切りは、ああ、なんと心地よいものなのだ、と僕は思う・・・
黒澤世莉さんの演出はとてもみずみずしい。
僕が最初に見た黒澤さんの芝居は、チェーホフの『三人姉妹』。
なんと、みずみずしいチェーホフなのか、と思った。
いま、日本で、こんなにみずみずしいチェーホフが可能なのかと思った。
可能であるであるという事実に驚きました。
その黒澤さんがマリヴォーをやってくれます。
これはきっと素晴らしいものになるに違いない。
多くの人にマリヴォーの面白さと素晴らしさを発見してもらえるに違いない。
みなさん、ぜひ、ぜひ、見に行ってください!
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