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文楽 『花競四季寿』 [文楽]

国立小劇場の文楽公演で『花競四季寿(はなくらべしきのことぶき)』というのを見ました。
先月のことになりますが、面白かったのでそのことなど・・・

2月の文楽公演は、
第1部が『花競四季寿』と『嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)』から
二つの幕(文楽では「段」と言います)。
第2部、第3部はともに近松物で、
第2部が『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』。手代の茂兵衛が主人の妻おさんと密通をして、
見つかって、処刑されるという、不義密通もの。
第3部は有名な『曽根崎心中』。

僕が見たのは第1部です。
『嬢景清八嶋日記』という演目はまだ見たことがなく、それを目当てに見に行ったのですけれど、
その前の『花競四季寿』がなんか変に面白かった。

文楽(人形時浄瑠璃)の有名な作品、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、『傾城阿波の鳴門』とか、
そういうのはだいたい18世紀のものです。
近松門左衛門が少し早くて17世紀から書いてるんですけど、
それでも、最初の心中ものが『曽根崎心中』で、1703年、元禄16年の初演。

『花競四季寿』はめずらしく(って、僕が知らないだけなんですけど)19世紀のもので、
人形浄瑠璃自体のコンセプトも少し違う。
プログラムによると、歌舞伎で舞踊が流行り、
文楽でも「音楽的舞踊的要素の濃い作品」がつくられるようになって、これもそのひとつ、だそうです。

春夏秋冬の四季をそれぞれ踊る4部構成。

春は、初春とか新春とかいう時の「春」で、めでたさを祝う祝い事の舞。
ひとりの鼓に合わせてひとりが踊るという、男二人の万歳(まんざい)。
なんのこっちゃ、あかんがな、の漫才ではなくて、万歳。
イメージ的には獅子舞のような縁起ものです。

で、面白くなるのが、次の夏。
夏といえば海というわけで、海女のお話。
海女といっても日焼けなんかはしていなくて、若い色白の娘。
人形の頭(かしら)は「娘」と呼ばれる頭が使われています。
恰好は、あれが江戸時代の海女のスタイルなのかどうか、むしろ、
なんか和服をキュートに着こなしているよ、といった感じ。

この海女が、近頃冷たい彼氏のことを思いながら海辺で踊っています・・・
そこに蛸が現れ、娘を慰める、というのか、ちょっかいを出します。
はい、蛸です。変換ミスではありません。
この蛸が海でよく海女の姿を見かけて、ということなんでしょうか、前々からちょっと岡惚れしていたらしい・・・

19世紀の浮世絵なんかでも、美人画に蛸入道が現れて、みたいな、ちょっとエログロ的なものがありますけど、そういう時代のトレンドみたいなものもあるのでしょうか。
でも、この文楽に出てくる蛸は、エログロという感じではなくて、
なんか「ゆるキャラ」に近い。

人形は普通三人で遣いますが、この蛸を動かしているのは一人。
動きもちょっとテキトウというか、コミックな動きをします。
蛸がその長い足をのばして、海女の着物の裾をめくり上げようとしたりなんかして、
なにしてんのよ、みたいに怒られて、石かなんかぶつけられて、
その長い足で頭を掻く。それが、わー、蛸、カワイイ、みたいな感じ・・・
投げられた石が蛸の丸い頭に命中するのもすごいんだけど・・・

人形浄瑠璃というのは、舞台で人形が、こう、お芝居をしている。
台詞は、義太夫を語る人と三味線を弾く人が右手の舞台脇にいて、こちらが担当します。
台詞と、地の文というのか、語りの部分がありますが、これを語り分ける。
登場人物も、基本ひとりの人がぜんぶ演じ分けます。

台詞の部分はまだいいんですが、地の文のところは、
さすがに江戸時代の日本語ですから、
聞いているだけでは意味がよくわからなかったりする。
プログラムを買うと、そこに「床本」という浄瑠璃台本がついていて、
昔はこれを広げながら見ていましたが、
いまはオペラと同じように舞台の左右に字幕が出ます。

『花競四季寿』は、踊りなので、台詞はなく全体が地の文。
地の文といっても、散文的に状況を説明するというのではなく、
舞台上の踊りに、詩をつけて歌っているという感じ。
あるいは、その逆。歌に合わせて踊りを踊っている・・・

海女の話では、面白いことに、地の文には蛸は一切登場しません。
蛸が海女に岡惚れしていて、こいつが現れて娘の着物の裾に手、じゃなくて足をのばし・・・
なんていう文章はどこにもない。
詩の方は、海と海女と海女のかなわぬ恋を名調子で歌いあげます。

だから、この芝居では、舞台上で繰り広げられる身体的パフォーマンスと、
舞台脇で展開される音楽的・言語的なパフォーマンスの間に、
かなりな質的ギャップがある。そのギャップも面白い。
むしろ、そのギャップの中に演劇の無限の面白さが広がっている・・・

けれども、この『花競四季寿』の中で、
演劇的に最高に面白かったのは、
その次、三番目の「関寺小町(せきでらこまち)」・・・
季節は秋・・・

「関寺小町」の小町というのは、例の、クレオパトラか楊貴妃かという、小野小町のこと。

若くてきれいな頃は、若さと美しさが永遠に続くと思っている。
「あなたが好きです」と言ってきた深草の少将という男がいるんだけれども、
この男を

うざいわ

と思った小野小町は、
じゃあ、私のところに百夜通っておいでなさい、
百夜目にあなたのものになりましょう、と言います。

追い払うために言っただけの嘘を真に受けて、
深草の少将は、それから毎夜遠いところを通ってきてはまた帰ってゆく。
雨の降る夜も降らぬ夜も、忠実に通ってくる。

そういうしつこいところがまたうざいのよ、と小野小町は思った・・・たぶん・・・
九十九夜通ってあと一日という時に、少将は病に倒れ思いを遂げられませんでした。

さあ、これを踏まえて、

絶世の美女と謳われても、美しさは花のようにはかなく過ぎていく。
小野小町も今は百歳の老婆となり、その姿も変わり果て・・・
というのがこの「関寺小町」。
老いた顔を笠で隠し、杖にすがり、立ち上がるのもよろよろと容易ではありません。

人形の頭は「婆」。

思い出すのは、若くてきれいだった昔のこと。
そして、彼女を愛して毎日通ってきた深草の少将のこと。
甦る記憶に憑かれたように彼女は踊ります・・・

年老いた小野小町のテーマは能でもあつかわれており、
「関寺小町」も能からインスピレーションを受けていると考えられますが、
能とはまた違った、浄瑠璃の面白さがこの老いた関寺小町に凝縮しているように思えます。

そこんとこの説明のために、ちょっと遠回りをしますけど・・・

人形浄瑠璃では、登場人物の身体というものは、もちろん人形です。
人形遣いがこの人形に生命を吹き込み、心を吹き込み、
人形のうちに愛が生まれ、情熱が生まれ、痛みと悲しみが生まれます。
人形遣いが離れてしまえば、人形はただの木偶(でく)にすぎません。

登場人物が殺されたりする場面では、死体を舞台上に残して、人形遣いは姿を消してしまいます。
とりかえしのつかない絶対的な死というものをこれくらいリアルに表現する演劇は、たぶんほかにない。
死体はほんとうに物体(もの)になってしまうのです。
俳優さんが息をひそめて寝ているわけではありません。

『傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)』というお芝居に、
小さな女の子が親を探して淡路島から大阪に出てきて、
そうとは知らない父親の手にかかって殺されてしまう、というところがあります。
舞台に横たわるその少女の体が、見ている者(観客)にあたえるショックは、
現実に少女の死体を目の前にした時のショックに近いような気がします。
茫然としてしまう・・・

人形の身体。

それから、文楽の場合、舞台上には、もうひとつ、人形遣いの身体があります。
人形は三人で遣います。中心になって遣う人が一人、
この人が、頭と胴体と右手を動かします。
これに二人のサブがついて、左手と下半身をメインの動きに合わせます。

メインの遣い手は、黒装束で出てくることもありますが、
大事なところでは「出遣い」といって紋付き袴の正装で人形を遣う。
人形の動きに集中したいのに、あら、ちょっと邪魔よ、
と思う人もいるかもしれませんが、これがむしろ逆で・・・

文楽の観客は、人形の動きだけではなくて、人形遣いの美しい姿を見に来ます。
ですから、人形遣いは美しくなければいけません。
人形遣いに、こぼれるような色気がなければ文楽ではないと言ってもいいくらい。

わりと最近にこの世を去った吉田玉男。人間国宝でしたが、
この人の色気には美しい気品が漂っていました。
それから、吉田蓑助という人。
文楽二月公演は「吉田蓑助文化功労者顕彰記念公演」だったりするのですけれど、
この人の若かった頃というのは、その色気というか、男ぶりというか・・・
こちらは、気品というよりも、妖艶、あるいは鋭利・・・
刀でいうと、ムラマサみたいな・・・
ぼうっとしていると、手とか指とか切ってしまいそうなほどで、
女性観客なんかは、もう、それで、血だらけになっていた。

ブラッド・ピットが「ベンジャミン・バトン」という映画で、
実際の年齢よりずっと若いメイク・・・なのか、映像処理なのか、で出てくるシーンがあります。
ケイト・ブランシェットがこれを見て、「ユー・アー・ソー・パーフェクト」と言いますけど、
吉田蓑助は、そのブラッド・ピットを超えていた・・・って、まあ、それくらい、
人形遣いというのは、人形を遣うだけではなくて、
彼自身が役者なのだという・・・

人形遣いが人形に魂を吹き込む。

登場人物の身体は見えるけれども、ふつう魂は見えない。
その見えない魂を表現するのが、目に見える身体なわけです。
それが、まあ、ある意味、演劇ですよね。
ところが、文楽では、その見えない魂が
人形遣いという役者として形象化されて観客の目に見えるんです。

さっきの『傾城阿波の鳴門』で、女の子が、やはりそれと知らず、
自分の母親と偶然出会い、その知らない人(実は母親)に母の優しさを感じて、
ああ、ずっとここにいたいと言って泣くところがあります。
人形遣いが人形に生命を吹き込み、
少女は、せつなくもまた子供らしい悲しみの所作をします。
人形だから涙は流しませんが、悲しみの演技にリアルな涙なんか必要ないわけで・・・
と思いつつ、ひょっと人形遣いを見ると、
えっ、ちょっと、ちょっと、人形遣いが泣いているじゃないですか!

これは、僕が学生時代に文楽を初めて見た時の体験です。
すごいですよね。悲しみの感情があって、それをアナログ的に
ダイレクトに身体表現につなげるのではなく、
人形をあつかう手と指の動きというべつなコードに一旦変換して、
それを人形の動きとして再生する・・・
冷静に、意識的に、理知的に、人形の所作を演じるっていう行為がこっちにあって、
もう一方には、熱い感情が息づいている。
ああ、これが演ずるっていうことなのか、って思った。

さあ、これを踏まえて・・・
なんか、踏まえてばかりなんですけど、
「関寺小町」の話に戻ると・・・

小野小町の老いた身体が、私たちの目の前にあります。
「婆」の頭と老女の着物。
よぼよぼとした老女の動きをしています。
それが、不意に、若く美しかった頃の自分自身に憑依されて、
若い娘の身体(身体能力)を見にまとい、愛と欲望の舞をはげしく舞う。

老いた人形の身体は、いともやすやすと、若い女の身体の動きを演じることができる。

で、このすべての中で、演技している役者は誰なんだというと、
吉田文雀という人。いまはかなりお年を召して、
「婆」との対比表現を使うと「爺」ということになりますが、
この吉田文雀という老優が、老女を演じ、娘を演じ、また老女を演じ・・・
とめまぐるしく女性を演じ分けます。

一方に、老優と老女という二重に老いた身体がある。
そして、もう一方に、女性へ、そして娘へという、身体の二重の変容がある。

「関寺小町」を見ていて、
ああ、ストーリーとか、キャラクターとか、そういう面白さ以前に、
こういう演劇の根源的(?)面白さってあるよねと、あらためて感じたのです。

演劇って、結局、人形遣いと人形の両方を一人の役者がやっているわけですよね。
人形が、役者自身の身体に変わる・・・

それで、役者自身の“思い”と身体の動きというのは、ストレートに、
アナログ的につながっているのか・・・っていうと、
そういうふうにつながっている演劇もあっていいんだけど、
そうじゃない演劇も見たい・・・

というわけで、

文楽って面白いよ。

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